学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

今野元『マックス・ヴェーバー』

 

マックス・ウェーバーはわかりにくい。とりわけ彼の政治的主張はわかりにくい。

ナチスの御用学者だった「カール・シュミットマックス・ウェーバーの正統的な弟子であったという事実」を重く見て、ウェーバーファシズムとの関連で論じようとするハーバーマスのような人たちがいる一方、フーコーのようにオルド自由主義者との関連にフォーカスすることでネオリベの先駆者としてウェーバーを理解しようとする人たちもいる。

試みに『政治書簡集』のページをパラパラとめくっていると次のような言葉が目に飛び込んでくる。

外見的立憲主義政党としての中央党に反対。および過去において皇帝に反対する議会の真の実力を涵養しようと努力しなかったし、また現に努力もしていないで、ただ皇帝の手から個人的なお菓子をもらおうと努力した、そして現に努力している政党としての中央党に反対。そして議会による強力で公然たる行政監督に賛成

(…)国民自由党内の反対派の(「新自由主義的」)分子を支持するそして社会民主党内の労働組合的分子を支持するそれとともに、見せかけだけの立憲主義的な中央党に反対し、帝室の内政上の権力欲に反対するさらに冷静な利害の打算に基づく政策を行わないで大言壮語の威信政策を行う帝室の外交に反対する!

マックス・ウェーバー政治書簡集』

フリードリッヒ・ナウマンに(1906年12月14日 ハイデルベルグで)

第一次世界大戦前後のドイツの政治情勢を知らない門外漢には、彼が一体何と闘っていたのかサッパリわからない。けれども、この手紙の内容そのものに詳しく立ち入らなくとも、少なくとも次のことは明らかに見て取れる。それはウェーバーがいい意味でも悪い意味でもめんどくさい奴だということである(普通のひとは「 ! 」感嘆符がいくつも付いたメールを他人に送ったりはしないだろう…)。

今野元の『マックス・ヴェーバー』は、書簡や同時代人へのインタビュー、少年時代の論文など、ウェーバーの生涯にまつわるあらゆる伝記的資料を駆使することで、当時のウェーバーの政治的立場がどのようなもので、彼が何と闘っていたのかを明らかにした。

同時にまた、本書は彼の大学の内外での政治的活動に記述の照準を合わせることで、

のように、従来の研究ではほとんど描かれてこなかった彼の人間臭い一面を執拗に描いていて、好感を持った。

今年2020年が没後100周年ということで、ほぼ同時期に発売された野口雅弘の『マックス・ウェーバー』もコンパクトに業績を通覧できる好著なので、本書と一緒に読むと理解が深まって良いかも知れない。

過去記事

参考書籍
回想のマックス・ウェーバー

回想のマックス・ウェーバー

 
少年期ヴェーバー 古代・中世史論

少年期ヴェーバー 古代・中世史論

 

2019年を振り返る(読書)

総括

2019年の前半は哲学書を、9月の中国旅行(成都西安)を挟んでその前後は三国志遺跡本を中心に三国志関連書籍を読んでいた。仕事で気を揉むことが多かった後半は読書をする余裕がなく、通読した冊数は去年より大幅に少なくなってしまった。途中で投げた本も数多い。そんな中、去年一年を振り返って感銘を受けた3冊をあえて選ぶとすれば↓

⑴中川正道・張勇『涙を流し口から火をふく、四川料理の旅』

涙を流し口から火をふく、四川料理の旅 (KanKanTrip)

涙を流し口から火をふく、四川料理の旅 (KanKanTrip)

  • 作者:中川 正道,張 勇
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2014/08/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
もともとは四川省で食べ歩くために買った本だが、新大久保や高田馬場池袋北口にある“現地系”の中華料理店を開拓する際の手引きとしても使えるので重宝してる。本書を読む限り、四川料理は辛さだけでも6種類の辛さ*1を識別し、料理ごとに使い分けているらしく、たいへん奥が深い。ぐるなびではなく、本書や大众点评を片手に東京を歩いていると、ゆっくりと中国化していくもう一つの東京の姿が見えてくる。

⑵渡邉義浩『人事の三国志

人事の三国志 変革期の人脈・人材登用・立身出世 (朝日選書)

人事の三国志 変革期の人脈・人材登用・立身出世 (朝日選書)

三国時代の人脈形成のメカニズムをピエール・ブルデューの概念を用いて説明しようと試みた労作。諸葛亮孔明が徐州に所有する自分の土地を離れて、荊州の地で儒教的教養を基盤に"臥龍"の「名声」を確立していく様子が「文化資本」の概念を用いて描かれている。乱世においては、跋扈する賊からの攻撃に対して維持することが難しく持ち運びにも難がある大土地所有(=経済資本)よりも、身につけた文化を基盤にした名声(=文化資本)の方が、維持も持ち運びも簡単だったからである。渡邉先生の本にハズレなし!

⑶木澤佐登志『ニックランドと新反動主義

内容については既に紹介済み。リズムの良い文体が読んでて心地よく、雑誌やネットで著者の文章を目にするとつい読んでしまう。連載中のエッセイ『失われた未来を求めて』も面白いです。

2019年に読んだ本(全22冊)
著者 タイトル レート
ハイデガー ハイデッガー選集第7 哲学とは何か ★★★☆☆
市田良彦 ルイ・アルチュセール - 行方不明者の哲学 ★★★☆☆
神崎繁 フーコー ★★★★☆
神崎繁 魂(アニマ)への態度 ★★★☆☆
神崎繁 ニーチェ ★★★★☆
小林昭文 アクティブラーニング入門2 ★★★☆☆
木澤佐登志 ニックランドと新反動主義 ★★★★☆
佐藤俊樹 社会科学と因果分析:ウェーバーの方法論から知の現在へ ★★★☆☆
渡邉義浩 三国志 運命の十二大決戦 ★★★☆☆
渡部昇一 ドイツ参謀本部 ★★★☆☆
陳寿 正史三国志5 蜀書 ★★★★☆
中川正道・張勇 涙を流し口から火をふく、四川料理の旅 ★★★★☆
渡邉義浩・田中靖彦 世界歴史の旅 三国志の舞台 ★★★☆☆
渡邉義浩 人事の三国志 ★★★★☆
渡辺精一 知れば知るほど面白い「その後」の三国志 ★★★☆☆
さくら剛 三国志男 ★★★☆☆
高野秀行+清水克行 世界の辺境とハードボイルド室町時代 ★★★☆☆
青井硝子 雑草で酔う ★★★★☆
清水麻里絵・宇都宮仁 最先端の日本酒ペアリング ★★★☆☆
ピエール・ブルデュー ハイデガーの政治的存在論 ★★★☆☆
映画秘宝編集部 新世紀ミュージカル映画進化論 ★★☆☆☆
安田峰俊 さいはての中国 ★★★☆☆
2019年に読んだマンガ(全26作品)
著者 タイトル 進捗
とよたろう ドラゴンボール超 9/11巻
田畠裕基 ブラッククローバー 20/23巻
西森博之 今日から俺は!! 全38巻
石塚真一 BLUE GIANT SUPREME 8/9巻
山本崇一朗 からかい上手の高木さん 11/12巻
沙村広明 波よ聞いてくれ 6/7巻
芥見下々 呪術廻戦 7/7巻
押切蓮介 ハイスコアガール 全10巻
縞野やえ 服を着るならこんなふうに 1/9巻
高橋のぼる 劉邦 5/6巻
山本崇一朗 それでも歩は寄せてくる 1/2巻
おかざき真里 阿吽 9/10巻
近藤笑真 あーとかうーしか言えない 2/2巻
智弘カイ・カズタカ デスラバ 1/6巻
岩明均 ヒストリエ 11/11巻
遠藤達哉 SPY×FAMILY 1/2巻
藤本タツキ チェンソーマン 4/4巻
河添太一 不徳のギルド 4/巻
藤本タツキ ファイアパンチ 全8巻
ゆうきまさみ 新九郎、奔る! 2/巻
岩明均 寄生獣 全10巻
宇佐崎しろ アクタージュ 8/9巻
宮下英樹 センゴク一統記 全15巻
ゆでたまご キン肉マン 68/69巻
宮下英樹 センゴク権兵衛 17/17巻
所十三 疾風伝説 特攻の拓 全27巻

マンガは『チェンソーマン 』『アクタージュ』『あーとかうーしか言えない』を貪るように読んだ。『ハイスコアガール』が最終回を迎えて寂しい。
その他、仕事で出版が決まって原稿書いたり、同人誌に寄稿したり香港民主化デモのとき近くにちょうど居合わせたり、孔明の北伐のルートを辿り直したり、台風19号が成田に直撃したせいで出張先のハワイで帰宅難民と化したりと、何かと落ち着かない動きの多い一年だった。

*1:①麻辣(マーラー)…しびれる辛さ。②煳辣(フーラー)…油で焦げる唐辛子の辛さ。③香辣(シャンラー)…油で引き出した花椒と唐辛子の辛さ④鮮辣(シェンラー)…キダチ唐辛子や青唐辛子の辛さ⑤糟辣(ザオラー)…糟漬け唐辛子の辛さ。⑥酸辣(スアンラー)…酢っぱさ+辛さ

青井硝子『雑草で酔う』

サボテンやアサガオなど、手近な草花を手当たり次第に吸引し、それによって心身に生じる微細な変化を観察した本。酔いとは何か、「ハイになる」とはどういうことかを探求したボードレールの『人工楽園』みたいな本なので、「へえ、雑草でも酔えるんだ」などと、日々の酒代を浮かせようと軽い気持ちで手に取った読者はトンデモないところに連れて行かれることになるだろう。

雑草で酔う~人よりストレスたまりがちな僕が研究した究極のストレス解消法~
 

冒頭のバジルから、ローズマリースイレンクサノオウと続き、アジサイを吸った辺りから何やら雲行きが怪しくなってくる。

そんなある日の夜11時。自分が何をしていたかはもう忘れたけれども、彼女が突然「し、心臓が…」と言い出して、すわ停止かと思ったら、

「我はアマテラスであるぞ」

などと言い出した。完全にトランスしちゃってるようで、1人2役で芝居(にしか見えない)を始めた。

これは多分ドッズが『ギリシア人と非理性』の中で「アポロン的脱魂」として描き出した神憑り状態だろう。さらにアヤワスカ*1の項では、

飲んでから50分(人によって違うけど自分はいつも50分なんだこれが)でカルチェラタンのステンドグラスのような曼荼羅模様が出てきて、目に来たのはそれでおしまい。あとは目を介さず直接脳に、それも想像力の方にがっつり来て、イメージが精密さを増して暴走する。

より具体的には、意識の底が抜ける。

自分の精神が黒い箱の中に体育座りで入っていると思ってくれていい。その箱の底が、突然抜ける。抜けたら膨らんでいって、風船のようにまるくなる。自分の意識さんはと言うと、箱の壁伝いに膨らんだ方へとにゅるにゅる進んでいき、その風船を内側から見ることになる。

そして原色。

驚くばかりの美しい世界。

青磁のような、あるいはアヴァロンのような美しい青、そして団欒を思わせる優しいオレンジや赤色が敷き詰められ、ちりばめられ、宇宙船や気球船のような様相を呈している。

それはジョン・ブライブリットさんの描く原色の世界が近い。

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もうこの辺りになってくると、本書の目指すところも朧げながら明らかになってくる。どうやら「外丹法。ドラッグヨガ。歴史の闇に葬られた外法の技」を現代に復活させようとしているらしい。

そんな本筋とは無関係に個人的に興味を引いたのは、『弁証法的理性批判』執筆当時のサルトルに霊感を与えたメスカリンの幻覚効果についての記述*2である。ひょっとすると20世紀のフランスの著名な思想家のほとんどは幻覚剤の摂取体験を軸にそれぞれの思索を展開していたのでは?そんな邪な考えが頭をよぎる。

思えば、ロラン・バルトは1977年の講義*3で「麻薬としての意識」についてやけに熱心に分析していたし、ミッシェル・フーコーも1975年5月のデスヴァレーでのLSD体験を「わが人生最大の経験」として賛美し、それが『性の歴史』当初のプロジェクトを白紙に戻すきっかけにさえなっている*4。そう言えば、ジル・ドゥルーズもトリップする方法はいくらでもあるんだからわざわざ旅行になんか行かなくてもいいんだという迷言*5を残している。

彼らは皆、人間の自我や意識を一つの異常性として、狂った何かとして取り扱う点で奇妙にも足並みを揃えていた。その背景には何か共通する限界=体験のようなものがあったのではないか。

一連の酔いの研究の果てに本書が見出す↓のテーゼもまた、それを別の角度から裏付けている。

「人の脳みそはシラフではいられない。」

常に何かに酔っていなくてはならないのだ。

"フランス現代思想"は先行するアメリカ西海岸のヒッピーカルチャーと多分どこかで繋がっているーそんなかすかな予感が確信に変わった一冊。

カントに従うならば、私たちは権利上まとも=理性的であり、事実上、多少なり狂う=理性的でなくなるときもあるにすぎない。ドゥルーズの場合は、全く逆なのだ。私たちは、権利上はつねにすでに狂っているー酔っている、薬中〔ジャンキー〕であるーと考えるべきであり、事実上、多少まともになる時もあるに過ぎない。認識のレベルでも、倫理のレベルでもそうなのである。

ー千葉雅也『動きすぎてはいけない』P47

関連記事

参考
人工楽園 (角川文庫クラシックス)

人工楽園 (角川文庫クラシックス)

 
ギリシァ人と非理性

ギリシァ人と非理性

 

 

*1:南米ペルーのアマゾン奥地で儀式として使用される幻覚茶。

*2:弁証法的理性批判』を1日でも早く仕上げるため、サルトルはコリドラン〔アンフェタミン製剤〕を大量に服用していた。過剰摂取の代償として、血液の流れや心臓のリズムに長期にわたり悪い影響が出た。

*3:中性について』。

*4:詳細については現代思想2019年11月に収録の木澤佐登志『気をつけろ、外は砂漠が広がっている』を参照のこと。

*5:「私がじっとしているとしても、旅行に出かけないとしても、みんなと同じようにその場にいながらにして旅(トリップ)をしていることに変わりはないんだ。(…)それにホモやアルコール中毒者や麻薬中毒者に対する私の関係なんて、この際どうでもいいはずだ。別の手段によって、彼らと同じ成果があがるなら、それでいいじゃないか。」 - 『記号と事件』P28。1973年。

フルーツに日本酒を。/千葉麻里恵・宇都宮仁『最先端の日本酒ペアリング』

日本で唯一のアシッドジャズが流れる日本酒バーで、メロンの真ん中をくり抜き水府自慢を注いで食べたことがある*1。これが意外と美味だった。確かその時流れていたのはYoung DisciplesのGet Yourself Together Pt1 & Pt2だったと思う。Talkin' Loudレーベル1991年の名盤の冒頭を飾る一曲だ。けれども、その組み合わせをどうして美味しく感じるのか、その理由はよくわからないでいた。そんな不可解な経験をもっと突っ込んで考える気にさせてくれたのがこの本だ。

 

最先端の日本酒ペアリング

最先端の日本酒ペアリング

 

 

仙禽に桃を合わせたり、花陽浴をメロンの代用として使ったりと、フルーツに日本酒を合わせるレシピがごく当たり前のように載っている。長野県の笑亀酒造みたいに最近はクエン酸やリンゴ酸のようなフルーティな酸にこだわる蔵が増えたので、フルーツの酸に日本酒の酸を合わせるようなことも手軽にできるようになっているらしい。甘酸っぱい味わいには甘酸っぱいお酒を、という風に、食材と似た味や香りのお酒を用いることで「ピタリと合う」のだと本書は言う。その理由は、似たもの同士を合わせているからだ。

 

他にも、讃岐くらうでぃとラムカレーをかけ合わせてラッシーの味わいを再構築したり、卵サンドと花巴山廃仕込みで焼き立てのフレンチトーストを口内組成したりと、何だかいい意味でクレイジーなことをやっている。本書でフューチャーされている恵比寿のGEM by motoにも機会があれば立ち寄ってみたいと思った。

 

この本もそうだが、どうも最近は自分のからだを実験台に使って感覚を解き放とう、もっと五感を研ぎ澄ませて生活を楽しもう系の本ばかり読んでる気がする。タナカカツキさんの『サ道』とか青井硝子さんの『雑草で酔う』みたいな。単に疲れているだけなのか、ずいぶん前に熱心に読んでいた井筒俊彦の神秘哲学の本が今更のように効いてきているのか…。その辺のことについては、稿を改めて考えてみよう。

 

参考

マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(1) (モーニング KC)

マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(1) (モーニング KC)

 
雑草で酔う~人よりストレスたまりがちな僕が研究した究極のストレス解消法~
 

*1:

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木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』の感想

本書で紹介されているピーター・ティールやカーティス・ヤーヴィン、ニック・ランドやマーク・フィッシャーらによる"ネオ終末論的歴史神学"とでも呼ぶべき過激思想は、一言で言えば政治的異端である。彼らにとって、後期資本主義社会は悪夢であって、地獄そのものである。地獄を改良することなど定義上できるはずもない。できるのはせいぜい資本主義の大聖堂(カテドラル)に加速主義や新反動主義という爆薬を仕掛けることだけだ。

彼らは、資本主義のプロセスを極限まで推し進めることでその「外部」に突き抜けることを試みる。

プロセスから身を引くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェが言っていたように、「プロセスを加速すること」
- ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス

というのも、資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、抵抗することでも、批判することでも、資本主義が自己矛盾によって崩壊していくのを待つことでもないからだ。

かつてマルクスが指摘したように、資本主義、より正確に言えば、資本主義が推し進める市場経済自由貿易のメカニズムには、資本主義社会それ自体を破壊する革命的な契機が含まれている。

一般的には、今日では保護貿易主義は保守的である。これにたいして自由貿易制度は破壊的である。それは古い民族性を解消し、ブルジョアジープロレタリアートのあいだの敵対関係を極限にまで推し進める。一言で言えば、通商の自由の制度は社会革命を促進する。この革命的な意義においてのみ、諸君、私は自由貿易に賛成するのである。
- カール・マルクス自由貿易についての演説」『マルクスエンゲルス全集第4巻』

したがって、必要なことは、資本主義における労働者の疎外・脱領土化・脱コード化の諸傾向を加速することである。彼らにとって資本主義の促進は、その破壊と同義なのだ。だとすれば、そのプロセスを単に加速しさえすればいい。要するに、事態は《悪くなればなるほど良くなる[the worse,the better]》のである。

そして、国民国家や民主主義をはじめとする既存のシステムの解体を徹底的に推し進めたその先には或る未知のX、既存のスキームを逸脱する新たな何かが出現するだろう。そのXは、スティーブ・ジョブズが僭主=CEOとして君臨し、統治=経営する「企業のように運営される」参入離脱の自由な都市国家だったり(新官房学)*1、人類に友好的な知性を備えたスーパーコンピュータに意識をアップロードすること*2で肉体が朽ち果てた後も人間が知性的かつ霊的存在として永遠の生を獲得する「シンギュラリティ以降の社会」だったりする。彼らが思い描く未知のXの具体的なイメージは、ニール・スティーヴンスンの『ダイヤモンド・エイジ』アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』を読めばわかるらしい。

とは言え、この本の魅力は、以上で手短にまとめた新反動主義者や加速主義者たちの極端な主張がどれだけ常軌を逸しているかを確認するだけに留まらず、さらに進んで、これら極端な主張がそれ自体どのようにして歴史的に形作られてきたかをも手際よく追跡した点にある。例えば、ベルクソンからドゥルーズガタリらのフランス現代思想を経て思弁的実在論に至るカント主義批判の流れや、ジャングル/ドラムンベースからダブ・ステップを経てヴェイパー・ウェイヴに至るイギリスのダンスミュージックの流れが、ニック・ランドと彼が組織するCCRUの思想にどう影響したかを詳述した後半部の記述がそうだ。

とりわけ印象に残ったのは、加速主義や新反動主義の先駆者としてニーチェを挙げている箇所だ。この点については、少し前に流し読みしたノルベルト・ボルツの『脱魔術化された世界からの脱出~両大戦間の哲学的過激主義~*3という本を思い出した。アドルノの批判理論の歴史的背景を探るために、その前史であるゲオルグ・ルカーチカール・シュミットエルンスト・ブロッホヴァルター・ベンヤミンといったワイマール期のドイツの過激思想を追いかけた本なのだが、『ニック・ランドと新反動主義』と同様、ボルツもまた、極端な論理の中に脱魔術化された近代からの脱出の手段を発見した思想家の先駆としてニーチェを挙げている*4

本書のサブタイトルでは「哲学的過激主義」という言い方をしている。本書で分析した思想家たちはみな、全体を目指している。彼らはみな、簡単に妥協しないし、討論を交わす気などない。彼らは世界時計の時間を読み取り、その時間・時代を思想として捉えようとしている。彼らにとっては、思想がラディカルであることのほうが、論理的帰結より重要だったのである。
ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』P8

それ以外にも、「脱出[Ausgang、exit]」という啓蒙主義の術語*5をキーワードとして挙げている点や、ド・メーストルやドソノ・コルテスのようなカトリック保守主義や黙示録主義との隠れた関連を指摘している点でも本書とボルツの本は互いによく似ていると思う。というよりはむしろ、率直に言って、加速主義者や新反動主義者らの理論は、ワイマール期のドイツの歴史哲学をデザインだけ変えて反復(再生)しているだけのように見える。一見そう見える。

資本主義が自然の法則に従って崩壊に向かって進展することは不可避である。しかしその進展が解放へと転換することは、運命の定めではない。世界がなだれ落ちる滝に向かって進んでいることを止めることはできない。
「もし何かがひとたび問題となった場合には、それを救いうるものは、問題となっている事柄を極度に先鋭化することによってのみ、つまり徹底的に終局まで突き進むことによってのみ、生じてくるものである。」
資本主義の破局を、保守的に押しとどめるのではなく、その方向を転換するために、破局に最後まで付き従うのである。
ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』P14

引用箇所は、トーマス・マンの小説『魔の山』に作中人物ナフタとして登場するルカーチの語りの解説だが、《資本主義のプロセスを加速せよ》という加速主義のテーゼは、100年前のナフタ=ルカーチの理論を機械的に繰り返しているだけにしか思えず、あまり新鮮味を感じなかった。過去の哲学のこうした反復もまた「日本のシティポップの海外での再発見」と同様、「”時間の蝶番が外れてしまった”現在が、失われた未来の亡霊に際限なく取り憑かれていることの証左」ではないのか。もしかすると、本来異なっているはずのものが同じものに見えるのは単に目が悪いだけなのかもしれないが、少なくとも本書を一読した限りでは、↓に引いた東浩紀の最近のツイートと似たような感想を持ったので、機会があれば原典に当たって確かめてみようと思う。

https://twitter.com/hazuma/status/1145198813025460224
https://twitter.com/hazuma/status/1145200992457150465

過去記事


参考

批判理論の系譜学〈新装版〉: 両大戦間の哲学的過激主義 (叢書・ウニベルシタス)

批判理論の系譜学〈新装版〉: 両大戦間の哲学的過激主義 (叢書・ウニベルシタス)

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

  • 作者: 千葉雅也,河南瑠莉,S・ブロイ,仲山ひふみ,N・ランド,R・ブラシエ,H・ヘスター,水嶋一憲,木澤佐登志,樋口恭介
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2019/05/27
  • メディア: ムック
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現代思想 2019年1月号 総特集=現代思想の総展望2019 ―ポスト・ヒューマニティーズ―

現代思想 2019年1月号 総特集=現代思想の総展望2019 ―ポスト・ヒューマニティーズ―

*1:「国家=企業のトップに就くCEOは具体的にどのような人物が適しているのか。言い換えれば、その専制全体主義と暴力に傾斜していかないという保証が、その専制君主一人の意志に依存しているというのは、いかにも不安定で危ういシステムなのではないか。もちろん、宇宙人や超知性的なコンピュータであれば話は別であろうが・・・。この点についてもヤーヴィンの記述は十分に積極的であるとは思えない。というのもヤーヴィンは、国家=企業のトップに最も適している人間は、議論の余地なくスティーヴ・ジョブズ(!)に他ならないと断言しているからである(最近ではジョブズの代わりにイーロン・マスクを推しているようだ。」 - 木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』P86)」

*2:マインド・アップローディング

*3:邦題は『批判理論の系譜学

*4:「金属のような人物たち。真実性を極端にまで追いつめていった唯一の人物、あるいはまさに悲劇性そのもの、芸術、信仰、愛を極端にまで追いつめていった人物、一言で言えば極端な人間たちが必要なのである。…われわれの本質的な貧困は、ラディカルなものに乏しいこと、化学的に純粋な元素であるような人間に乏しいことである。」- Nietzche,SW Bd 12,S.510.Vgl.R.Schneiders Notiz in,Winter in Wien'Gesammelte Werke Bd.10,S.287.

*5:カントは『啓蒙とは何か』の中で、「自ら招いた未成年状態から人間が抜け出ること[Ausgang]」として啓蒙[Aufklärung,Enlightenment]を定義している。

『かわいいウルフ』に寄稿しました。

かわいいウルフ』という本に短い文章を寄せました。
タイトルは『「青と緑」を読んで 〜 ウルフの物質的想像力』です。

本書はヴァージニア・ウルフというイギリスの作家を特集した同人誌で、イラストがたくさん入った全部で160ページの立派な雑誌に仕上がってます。明日5/6からは文学フリマでも販売が始まり、ネット通販や全国各地の書店・喫茶店でも手に入れることができるそうです。
詳細は↓をご確認ください。

woolf.ofuton.in

ヴァージニア・ウルフと聞くと、"フェミニストレズビアン自由間接話法を駆使して「意識の流れ*1」を表現するための内的モノローグの文体を開発して入水自殺を遂げた他を寄せ付けない孤高の大作家"みたいな手強いイメージがありますが、この本はそういう一般的なイメージはいったん脇に置いた上で、〈かわいい〉という視点から彼女の作品にアプローチした内容になっています。その結果、

本書の内容はエッセイ、インタビュー、テキスト分析、音楽、料理、創作、翻訳、まんが、イラストと、多岐にわたるものになりました。ウルフの作品を愛読する人から、全く知らない人まで。文芸を愛する、読者の皆様に届きますように。

そんな本書をざっと通読してみて興味を惹かれたのは、以下の5つの記事です。

①おままごとをするウルフ

編者による『ダロウェイ夫人』の20世紀初頭のロンドンの描写についてフォーカスした記事です。「まるでウルフが、ミニチュアのロンドンの中で、人物たちを思い思いに動かして遊んでいるみたい」な描写を〈かわいい〉という観点から『おままごとをするウルフ』と形容しています。

ウルフが「ロンドンという街そのものを描写しようとしている」という指摘を読んでいてふと思い出したのが、ドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』の被知覚態を論じた一節*2です。そう言えば、彼らもまた『ダロウェイ夫人』の凄いところはロンドンという街そのものが主人公になっているところだと語っていました。

形態素解析でみるヴァージニア・ウルフの文章

作品ごとの頻出単語や作品内の人間関係をワードクラウドや共起ネットワーク図を用いて視覚的に表現することを試みた記事です。leafやtree、flowerのような自然界の物質を指す単語の登場頻度がしだいに増加していったことは定量的にも確認できるようです。短篇『青と緑』に登場する単語が他の作品内でどのように分布しているのかも気になるところ。

③〈わがまま〉の中にある普遍性ー西崎憲インタビュー

『ダロウェイ夫人』のような長篇ではなく、あくまで短篇小説の作家、『青と緑』のようなマイナー・ポエットの作家としてのウルフに光を当てたインタビュー記事です。個人的な楽しみ[sef enjoyment]の方が大事だよね、小説なんだから私的なことを書いてもいい、わからなくてもいい、自由気ままにやりたい放題書いてもいいんだというウルフの創作態度にはとっても好感が持てます。いかにも詩を書きそうなウルフが生涯なぜか詩を一篇も書き残さなかったという興味深い指摘もありますが、この点については、拙稿『ウルフの物質的想像力』の内容とも関係しているように思います。

④月曜日あるいは火曜日ー三回言ってみようか

映画『ブレードランナー2049』のパロディ作品です。「真実?」「真実」のリフレインが妙に頭にこびりついてしまい、思わず二度読みしました。

⑤井戸、三葉虫、妹

小説家の水原涼さんによる『書かれなかった長編小説』へのオマージュ作品です。父親にしがみつきながら井戸の中に落下していく妹の描写を昨日の真夜中に読んでいて、寝付けなくなってしまいました。

⑥映画『オルランド』のボリウッドリメイクを妄想する

インドの近現代史ボリウッド映画について貴重な知見を得ることができる内容の濃い記事です。

余談だが、ディスコ音楽には欠かせないバスドラムハイハット(シンバル)はトルコの軍楽隊に起源を持つ。

みたいな情報を大量に浴びたせいで、ただでさえ役に立たない知識でパンパンだった頭がもうすぐ破裂しそうになってます。もうお腹いっぱいです。

内容の紹介は以上です。

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その他お料理のレシピがあったり、マンガが載ってたりと盛りだくさんの内容が詰まった楽しい本になってますので、本屋さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。どうぞよろしくお願いします。

関連リンク

ヴァージニア・ウルフ短篇集 (ちくま文庫)

ヴァージニア・ウルフ短篇集 (ちくま文庫)

*1:「意識というものは、断片的に細切れで現れるものではない、意識が最初の段階において現れる様を描写するには「鎖」とか「連結」という言葉ではしっくりこない。意識はつながれているのではない。流れているのだ。それを記述する最も自然な比喩は「川」や「流れ」である。今後意識のことを語る際には、これをもしくは意識の流れ、あるいは主観的生の流れと呼ぶことにしよう。」- ウィリアム・ジェイムズ『心理学』 意識の流れという概念は、ヴァ-ジニア・ウルフやジェイムズ・ジョイスのようなイギリスの小説家たちだけでなく、フッサール現象学における「地平」の概念の成立にも影響を与えている。

*2:「小説はしばしば被知覚態〔ペルセプト〕に達している。例えばハーディにおける、荒野の知覚ではなく、被知覚態としての荒野。メルヴィルの海洋の被知覚態。ヴァージニア・ウルフにおける都市の被知覚態、あるいは鏡の被知覚態。風景が見るのだ。一般的に言って、作家が或る日の時間を、或る瞬間の温度を、それ自体において保存するそれらの感覚存在(たとえば、フォークナーの丘、トルストイステップ地帯、あるいはチェーホフのそれ)を創造することができなかったとするなら、どうして彼は偉大な作家と言われえようか。被知覚態、それは、人間の不在における人間以前の風景である。」 -ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』P283

小林昭文『アクティブラーニング入門2』の感想

 

アクティブラーニング入門2〔DVD付〕

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 仕事でセミナーの講師を務めることが増えてきたので手に取った本。高三の頃にマルクスを読んで安保闘争のデモに参加し、火炎瓶を投げて浪人した上に、大学に入ってからも(空手にハマって)三年留年したという、ある意味よくある経歴の持ち主が書いた本のせいか、平易な文章の中に「唯物論弁証法」とか「量質転化」みたいなマルクス主義の述語が唐突に出てきてギョッとする(2017年発行の本です)。

 本書の特徴は、かつての学校の授業のような先生から生徒への一方通行型の講義ではなく、対話[dialog]を重視した講義に焦点を当てた点にある。

私は「対話」はダイアローグ[dialog]の訳語と理解しています。この言葉に人数のニュアンスは含まれていません。その簡単な意味は「一人ではたどりつけないアイデアや結論にたどり着くプロセス(多田孝志)」です。

 「対話的な学び」を促進するために、問題を「一人では解けないしくみ」をあえて作ることさえしているらしい。

 対話や弁証法を重視したアプローチとしてまず第一に思い浮かぶのはカウンセリングやコーチングの技法だが、カウンセリングはあくまで先生と生徒、医師と患者のような「一対一」の関係を前提とした対人関係技法である。それに対して、セミナーの講師は「一対多」が基本だから、カウンセリングの諸技法を杓子定規に講義で実践しようとするとどうしても支障が出てきてしまう。

 そこで、著者が注目するのが、構成的グループエンカウンター*1、非構成的グループ、Tグループ*2、MLT*3GWT*4といったグループダイナミクスの諸技法だ。中でも特に、レグ・レバンスが発明し、ワシントン大学のマーコード教授が体系化したマーコード方式のアクションラーニングセッション(ALセッション)が本書の特権的な参照項となっている。

 ALセッションの特徴は、セミナーの参加者全体に《質問で介入する》ことで「対話的な学び」を促進することにある。質問自体はパターン化され、介入のタイミングさえもパターン化されている(「定例介入」という)。詳細は本書にゆずるが、この点に関する本書の実践的な記述は、セミナー参加者全体に対して質問を投げかけることで参加者を巻き込んでいくタイプのセミナー、講義の最中に参加者からの質問が飛び交うようなコール&レスポンス型のセミナーを目指していく上で大いに参考になった。

*1:SGE

*2:感受性訓練、ST訓練

*3:マイクロ・ラボラトリー・トレーニン

*4:グループワークトレーニン