学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

ブログ名の由来/はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

8ヵ月以上ブログを更新していません。最後に書いたのは手コキについてのエントリーで、
このまま更新をさぼっていると品性を疑われかねないので、取り急ぎ更新致します。

今月の11月7日でちょうど5周年を迎えるはてなブログが、キャンぺーンをやっていたのでそれに乗っかることにしました。

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

1.はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

このブログは読んだ本の感想を書き貯める備忘録としてスタートしました。国会図書館で読んだ本についてのEvernoteのメモ書きを一つのまとまった文章に書き起こしたのが最初の記事です。当時のブログ名は確か『断片』という名前で、特に具体的な誰かを宛先にして書くという訳でもなく、(読んだ本の内容をすっかり忘れているであろう)未来の自分に宛てて書いていました。数あるブログサービスの中で特にはてなブログを選んだ理由は、それ以前からはてなブックマークを愛用していたので、はてなのサービスに愛着があったからです。

2.ブログ名の由来を教えて!

ブログ開設当初は、読んだ本の内容を短く要約して一言感想を述べるだけで満足していました。けれども、何度か更新を繰り返すうちに、どれだけたくさんの本を読んでいても、その著者に対する批判なしにただ漫然と読んだのでは、きちんと本を読んだことにはならないのだと考え直し、理解と批判とがピッタリ一体となった読書感想文を心がけるようになりました。『魔法少女まどか☆マギカ』を巡る東浩紀の一連のツイートについてまとめた『女の子同士の不可能な出産』は、そういう批判的な姿勢を交えて書いた最初のエントリーです。

「批判的」と言うと、何か攻撃的で野蛮な、何にでもケチをつけて非難するような、そういう印象を持つ人もいるかもしれません。しかしながら、ここで「批判」と言うのは、単なる"非難"の意味ではなくて、《その著者の思考のプロセスをきちんと吟味しながら読む》というぐらいの意味です。

ブログ名を『学者たちを駁して』に変更したのもこの頃で、ヘレニズム期のギリシアで懐疑家[σκεπτικός]として活動したセクストゥス・エンペイリコスの著書『Πρός μαθηματικούς』[学者たちへの論駁]から盗りました。

「学者たち[μαθηματικοί]」(マテマティコイ)とは、古代・中世の基礎学級の教師たちの事で、具体的には、論理学者や弁論家や文法学者、並びに天文学幾何学・数論・音楽の教師たちの事を言います。「学者たち」とは要するに、その昔西欧において自由七学科[septem artes liberales]と呼ばれたもの、すなわち、リベラルアーツの教師たちを指す言葉です。

もともと「数学(mathematics)」の語源であるギリシア語の「マテーマ」は、「学ぶ」と言う意味の「マンタノ」から来ている。つまり、「数を学ぶ」ことが、すなわち学問を意味したのだ。
ユークリッド原論』の注釈者として知られるプロクロスによれば、ピュタゴラス派では、「マテーマ」を、まず数と量の二つに分け、それが静止しているか、運動しているかでさらに二つに分け、計四つに分類した。すなわち、静止している数が「数論」、運動している数が「音楽」、静止している量が「幾何学」、運動している量が「天文学」というふうに〔…〕。
ここから「数論」「音楽」「幾何学」「天文学」の四科(puadrivium)という学問の基礎科目が生まれ、これをベースに、「文法学」「修辞学」「論理学」が加わって、「リベラルアーツ(liberal arts)」と呼ばれた中世以降のヨーロッパの大学での教養カリキュラム「自由七学科」が形成される。〔…〕「リベラル・アーツ」ということばには、「人間の精神を自由にするための教養」という意味が込められている。
-浦久俊彦『138億年の音楽史』P212-213

ところが、これら自由七学科の「学者たち」には、誰もがそれぞれ自分の教えているものこそが他の何にも増して重要だと言い立てる傾向がありました。セクストゥスにとって「学者」とは、今の言葉で言えば「〜主義者」、既に前もって権威づけられた何らかの"立場"からしかモノを言えないドクマティスト[δογματικός](=独断論者)を意味していたのです。

「学者たち」は既に権威づけられた或る任意の"立場"からモノを言うことで、自分自身を無敵のもの・不死身なものとみなそうとします。ところがそれに対してセクストゥス・エンペイリコスのような懐疑家は、そうした"立場"の硬直性と恣意性に対して抵抗を試みます。「学者たち」は、自分たちのモノの見方を何にでも適用できると強弁し、一切のものの間に引かれた境界線を消し去ろうするのですが、懐疑家はそのような振る舞いに断固として抗うのです。

懐疑家[σκεπτικός]と聞くと、ただ疑うためだけに疑おうとする疑り深い人々、相対主義的で軟体動物的なめんどくさい人物をイメージしがちです。けれども、懐疑[σκέψις]にはもともと、鵜呑みにせずに実際に「調べてみる」こと、「境界線に眼を向ける」と言う意味があり、懐疑家とは本来、境界線を吟味する人たちのことを言うのです。ブログ名の『学者たちを駁して』には、以上に述べたような意味での懐疑家たらんとする意志が込められています。

3.自分のブログで一番オススメの記事

ジャック・デリダのハイデガー論を『テニスの王子様』の必殺技に結びつけて論じた『哲学にとってタブーとは何か』、柄谷行人の占い師としての側面を際立たせて取り出した『柄谷行人と占星術』も捨て難いですが、一つだけオススメを挙げるとすれば、マックス・ウェーバーの古代資本主義論について書いた↓の記事です。

rodori.hatenablog.com

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

  • このブログを書いてなかったら絶対に知りえなかったような面白いブログを発見できたこと。
  • 親切な人たちにブクマやツイッターを通じて色んな事を教えてもらったこと。

5.はてなブログに一言

「学び」のサブカテゴリーに哲学・思想・批評・リベラルアーツのカテゴリーを作って欲しい。

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

参考

学者たちへの論駁〈1〉 (西洋古典叢書)

学者たちへの論駁〈1〉 (西洋古典叢書)


138億年の音楽史 (講談社現代新書)

138億年の音楽史 (講談社現代新書)

上海护证紛失記 第二話 「打飛機」

「そうだ、今日は奥さんもいないことだしセックスの話をしましょう。私の知る限り、日本のセックス産業は大きく言って三つに分かれます。」 

 
 2015年5月14日木曜日。約一年半ぶりに再会した中国の朋友は、蘇州から上海のホテルへと戻る車の中で僕に向かって唐突にこう切り出した。彼の名はチェンさん(仮名)。数年前に四川省の観光地を巡る現地ツアーで知り合って以来、これまでずっと夫婦ぐるみでお付き合いさせていただいてきた。しかしながら、男同士の友情を真の意味で深めるには古今東西エロ話だと相場は決まっている。小うるさい妻たちのいないこの絶好の機会に日中の猥談でチェンさんとの旧交を温めよう。突然の話題転換に戸惑いつつもそんな風に思い直し、僕はチェンさんの自説開陳にジッと耳を傾けた。
 
「一つ目は口でスル、もう一つは膣でスル、そして最後に、胸でシテクレル店が日本にはたくさんあると…。」
 
「口でスル」とはピンサロのことを言ってるのだろう。「膣でスル」とはソープのことを言ってるのだろう。だが、「胸でシテクレル」巨乳専門のお店は歌舞伎町でさえそれ程多くはないし、少なくともピンサロやソープのように一つのジャンルとして確立されたとは言い難い。したがって、膣/口/胸の三分法で日本の風俗を語るのはさすがに無理がある。そう思った僕はチェンさんの言葉を丁重に遮り若干の修正を施した。
 
「せっかくの熱弁を遮るようで恐縮ですが、チェンさん、あなたは日本のAVの観すぎです。胸でスルことを日本語でパイズリ[波推]と言いますが、パイズリには最低でもDカップは必要だと言われてます。ところが、日本人女性のおっぱいの平均サイズはたしか限りなくBに近いCカップ。つまり、胸でスルことができる女性は多くはない。そういう店は日本でもレアなんです。僕の奥さんを思い出してください、誰もが蒼井そらみたいな巨乳の持ち主ではないんですよ、残念ながら…。」
「キョニュウ…胸の大きな女性のことを日本語でキョニュウと言うのですか?」
「そうです。そして、キョニュウ族は日本でもそう多くはない…。」
「中国の男はみんな日本のAVを観て育ちます。想像してたのと違う。なぜ…。」
 
 そう呟いた彼の語調は鈍かった。先の僕の発言はひょっとすると、海を隔てた異国の地にいながら日本産のAVを観て“キョニュウの国ジパング"に思いを馳せてきたチェンさんのような中国人にとって、聞き捨てならない言葉だったのかもしれない。だが僕は彼の「なぜ」をスルーしてなかば独り言のように畳み掛けた。
 
「口でスル店をピンサロと言い、膣でスル店をソープと言います。ただ、それに続く第三の勢力は"胸でスル店"ではありません。実は東京では手でスル店が最近増えていて、そのようなプレイのことを日本語で手コキと言うんです。そして、その重要な一角を日本に住む中国の方々が担っています。」 
「テコキ?ヒコーキと発音が似てますね。実は中国語でも手でスルことを飛行機と言うんですよ。中国と同じだ。実に不思議ですね(笑)。」
 
 彼によると「手コキ」は中国語で打飛機[ダーフェイジー]と言い、上海を訪れた日系企業のエロオヤジが真っ先に覚えるエロ単語の一つらしい。
 
「すると上海にも手コキがあるわけですか?」
「ありますよ。相場は200から300元ぐらいで…。」
 
 珍しくもなんともないという口調で彼は上海の手コキ事情について語り出した。上海在住の朝鮮族であるチェンさんは若くして中国語・韓国語・日本語・英語の4ヶ国語を自在に操る語学の天才。話はその後、日中韓のライト風俗の比較エロ社会学的考察に移行した後さらに脱線し、中韓のカラオケと日本のカラオケが単に言葉が同じだけで似て非なるものであること、上海の裏路地で時折見かけるピンク色に輝くあの怪しげな床屋の正体など、妻たちの手前それまでは話題にできなかった様々な事柄について時間を忘れて熱く語り合った。そして僕はついに、これまでずっと気になっていた上海のファミマ[全家]にまつわる或る謎についてチェンさんに尋ねることができたのだった。
 
「そう言えば、ずっと疑問に思っていたのですが、上海のコンビニ[便利店]の店頭にはなぜバイブレーターが平然と置いてあるんですか?日本だとせいぜいコンドームが薬局に置いてあるぐらいで、バイブみたいな夜の営みの道具がああいう健全な店に無造作に置かれていることはまずないのでビックリしたのですが…。」
「えっ?日本のコンビニでは売ってないんですか?不便ですね。バイブがコンビニで売ってる理由ですか?それはもちろん、便利だからです。」
 
 師曰く、中国のコンビニのレジ横にバイブが並んでいる理由は「便利だから」ー何というドライさ!ジェレミー・ベンサムも真っ青の無味無臭の功利主義がこの国にはある。おそらく中国人にとってセックスとは何かスポーツのようなもので、日本人がセックスに対して抱いているような暗く隠微なニュアンスを含むようなものではないのかもしれない。と、そんな事をぼんやりと考えながら車を降り、次の再会を約束してチェンさんに別れを告げた。
 

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 *1
 
                   ◆
 
 
 妻を喪い、パスポート[护证]を喪い、財産のほとんどを失い、そして事と次第によっては仕事さえ失う可能性まで出てきた僕にとって、チェンさんとの一泊二日の蘇州旅行*2はかけがえのない想い出と相成った。この数ヶ月で失ったものは数知れず、損失はもはや莫大だ。明日はいよいよ一連の仮パスポート発行手続きの最後の詰めの日で、失敗は絶対に許されない。《失ウコトカラ全テハ始マル。正気ニテハ大業ナラズ。武士道ハ死狂イナリ。》そう自分に言い聞かせながら奥古徳*3を口の中に目一杯そそぎ込んだ。
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仮パスポート発行手続ToDoリスト
  1. 滞在先のホテルを管轄する公安で事案発生証明[报案证明]を入手。←達成!
  2. 中国出入境でパスポート紛失証明[护证报失证明]を入手。     ←達成!
  3. 日本国総領事館で紛失したパスポートを失効させる。        ←今ココ
  4. 日本国総領事館で「帰国のための渡航書」を入手。
  5. 滞在先のホテルで「臨時宿泊登記書」を入手。
  6. 中国出入境で出国審査をパスし、ビザの発給を受ける。
 
(続く)
 
過去記事
参考リンク 

ameblo.jp

参考文献 
上海 裏の歩き方

上海 裏の歩き方

 

 

漂白される社会

漂白される社会

 
 注

*1:上海市内のコンビニの店頭に陳列されたバイブレーター。ローションやコンドームと一緒に置かれている。写真は上海市内で最大のシェアを誇るファミリーマート[全家]の店内で撮影した。

*2:

 

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蘇州市盘门景区。『三国志演技』でお馴染みの呉の孫権がお母さんのために建てたお寺らしい。城門の上に登って庭園全体を一望できるようにもなっているので、三国志ファンにはオススメかも。僕が訪れた時は残念ながら修繕中だった。

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蘇州近郊の湖で食べた川の幸。あっさりとした優しい味付けでぜんぜん中華料理っぽくないが、美味しい。

*3:ちょっと高めの青島ビールの銘柄。

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午前三時の思想/ドゥルーズ『消尽したもの』を出発点に。

立っているよりは座っている方が、座っているよりは寝転んでいる方がくつろげるし気分がいい。去年の10月、ジャック・デリダとロラン・バルトを比較しながら姿勢について書いた時

 
に加えて、
 
  • 横になること、寝転ぶこと
 
という第三の姿勢があるのでは…という疑念がフッと頭を掠めた。ただその時はもう夜中の二時三時だったので、それ以上展開はできずに力尽きて寝てしまったのだが、今にして思うと、やはり姿勢については夜を徹してとことんまで踏査する余地が残っていたように思う。僕がそういう感想を持つに至ったのは、サミュエル・ベケットのテレビ作品について書かれたドゥルーズの小論『消尽されたもの』を読んだことがきっかけだった。
 
                  ◆
 
あの時の自分と同様、ドゥルーズもまた、「立っているよりは座っている方が、座っているよりは」横たわって「寝転んでいる方が」気分がいいというテーゼから出発する。けれども、彼にとって「横たわることは決して終わりや殺し文句ではなく、終わりの直前であり」、横たわる者には、起き上がったり、寝返りを打ったり、あるいは這いまわったりする可能性がまだ残っている以上、一切を終わらせることができずに、十分な休息をとって回復し、のうのうと生き延びてしまう可能性がなお残っている。つまり、横たわる姿勢、寝転ぶ姿勢は、消尽する者(=もう手遅れの者)よりもむしろ、疲労する者(=まだリカバリー可能な者)にこそふさわしい。
 
では一体、ありとあらゆる可能性と訣別した消尽する者にふさわしいのはどういう姿勢なのか?それはベケットが『夜と夢』の中で描き出す姿勢であり、「学習机に座ったまま、うなだれた頭は手の中にやすらい、両手はテーブルの上、頭は手に支えられてテーブルとすれすれの高さにある」ような姿勢である。
 
これは座ったまま、起き上がることも横になることもできず死をを待つのみというもっとも恐るべき姿勢である。
おそらくベケットにおいて横たわった作品と座った作品(これだけが最終的なものだ)を区別しなければならない。座った状態の消尽と、横たわり、這いつくばり、あるいは釘付けになった状態の疲労との間には本性上の違いがある。
ドゥルーズ『消尽したもの』

 横たわる者には、四肢を動かし、這い回って逃げ惑い、体勢を立て直して反撃できるチャンスがまだ残っている。佐藤十兵衛のように。だが、『夜の夢』の登場人物は、横になることもできず、夜が来てもテーブルの前に腰掛けたまま、萎えた頭は囚われた両手の上に置かれている。

夜テーブルの前に腰掛け、頭は両手の上…死んだ手を見るため、死んだ頭をあげた…

 閉じた暗い所で板切れの上にはただ頭蓋骨が置いてあるだけ…

 両手と頭は一つの小さな塊になり…

ベケット『夜と夢』 

 こうなってしまえばもはや《為す術なし》であり、座ったままそこから立ち上がることはもうないだろう。疲れ果てて前のめりに倒れ込んだ者は、単にモハヤ何モ実現スル事ガ出来ナイだけに過ぎない。ところが、消尽した者は、モハヤ何一ツ可能ニスル事サエ出来ナイのだ。『夜と夢』に登場する呪われた人物は、あらゆる疲労の彼方で「さらに終わるために」一切の可能事に向かって絶縁を宣告する。

 
                                        ◆
 
『夜の夢』において、登場人物は、縮こまった両手に虚ろな頭を置きカッと目を見開いてただ座っている。そして夜。彼は夢を見るのだが、その夢は眠っている時に見る夢ではなく、かといって真昼のまどろみの中で見る白昼夢というわけでもなく、夜の闇の中で目をカッと見開いたままで見る不眠症者の夢である。
人はしばしば、白昼夢や覚めたまま見る夢と、睡眠中の夢とを区別することだけで満足する。しかしそれは疲労と休息の問題にすぎない。こうして人は第三のおそらくもっとも重要な状態をとらえ損なうのだ。それは〔…〕不眠の夢(それは消尽にかかわる)である。消尽したもの、それは目を見開くものである。われわれは眠りながら夢を見ていたが、いまや不眠のかたわらで夢を見る
ドゥルーズ『消尽したもの』

 人は疲れるものであり、だからこそ眠ることができる。逆に言えば、疲れを知らない消尽した者は眠ることができない。もしそうだとすれば、疲労と消尽とが「本性上」異なるものである以上、疲労の果てに眠りの中で見る夢と、消尽した者が不眠のかたわらで見る夢の「本性上の違い」を見届けた上でなければ、このエントリーを真の意味で「終わらせる」ことはできないことになるだろう。

 
不眠の夢ー「この夢は、作り出さなければならない。」不眠症者の夢は、欲望の深みでひとりでに生まれる睡眠中の夢の如きものではない。不眠の夢は、イメージのように何もないところから新しく作り出され、制作されなければならない。ところが夢=イメージを作り出すのはそう簡単にはいかない。何かや誰かを単に思い浮かべるだけではまだ十分ではない。ドゥルーズの考えでは、夢=イメージを作り出すには、横にならずに目をカッと見開き、座ったままで寝ずの番をする「暗い精神」のある種の「緊張」状態、すなわち『夜と夢』の登場人物が強いられているような不眠状態の強度[intensio]が必要不可欠となる。ドゥルーズにとって不眠とはある特異な目覚め(=覚醒)がもたらす徹夜の警戒態勢*1のことであり、疲れを知らぬ精神の緊張、一時も注意を怠らぬ寝ずの番の緊張状態のことなのだ。
 
そして、十中八九は失敗するほどに困難な夢=イメージの制作作業にみごと成功した暁には、これ以上ないほどの至高のイメージが脳=スクリーンの中へと侵入することになるだろう。だが、それは輪郭の定かではない人の顔や物の姿であり、噴射するや否や微かな残り香だけを残して霧散する香水の匂いのように、「たった一息で」たちまち消え失せる束の間のものでしかない。おそらく、
イメージは、それ自身の消滅や散逸の過程と不可分なのだ。その過程が時期尚早にせよ、そうでないにせよ。イメージとは一つの呼吸、息吹であるが、それは消滅の途上で吐き出されるものだ。イメージは消えるもの、己れを使い果たすもの、すなわち失墜である。それはその高さ、すなわち零以上のその水準によってそれ自体定義されるような純粋な強度であり、強度は、ただ落下することによってその水準を描くのだ
ドゥルーズ『消尽したもの』

 イメージとは消えゆくもの、消尽するもの、「すなわち失墜である」。あるいはただ落下することによってのみその強度を測定しうるような『崩壊』と言い換えてもいい。《人生とは崩壊の過程である》という書き出しで始まるスコット・フィッツジェラルドのエッセイほど不眠症者の生み出すイメージ=夢についてのドゥルーズの考えを要約しているものは他にない。

 
                   ◆
 
事実、ドゥルーズが最もリスペクトした小説家の一人でもあるフィッツジェラルドは、齢27歳にして不眠症を患い、後年『眠っては覚め』という見事なエッセイを残している。
もしも不眠症が属性の一つになるとするならば、それは三十代の後半に現れ始める。あの七時間という貴重な睡眠時間は、突然二つに分裂する。幸運な人であれば夜になって最初に訪れる甘美な眠りと朝方の最後の深い眠りとがあるわけだが、この二つの中間に、不吉な絶えず拡がってゆく間隙が生まれる。
フィッツジェラルド眠っては覚め
甘美な夜と朝方の薄明かりの間に拡がるこの不吉な間隙こそが、他でもない、不眠症患者フィッツジェラルドに固有の活動時間である。
ぼくはたいてい寝酒を飲んでベッドに入るー同時にやる仕事として、かなり堅苦しい読書をいくらかやる。そういう主題の、比較的薄い本を選び、最後の葉巻を吸いながらうとうとするまで読み続ける。いよいよあくびが出始めたところで、しおりを挟んで本を閉じ、煙草を暖炉に捨て、電気のボタンを押す。最初は左を下にして横になる。そうすると心臓の鼓動が落ち着くと聞いたことがあるからだ。すぐに昏睡
フィッツジェラルド『眠っては覚め』
真夜中から二時半まで。そこまでは何事もなく万事快調に進む。ところが、時計の針が午前三時を指すや否や、「本物の夜、最も暗い時間が始ま」るのだ。
 
突然、病患とか体の変調、異常に鮮やかな夢、暑さや寒さの気候の変化などのために目が覚めてしまう。もちろん睡眠の継続が間違いなく保たれるという空しい希望をもって手早く対策がなされるのだが、その全ては徒労に終わる。明かりをつけ、睡眠薬を一錠飲み、彼は再び本を開くことになる。そして、
起きて散歩をする。寝室から廊下を通って書斎へ行き、また寝室に戻る。もし夏であれば裏のヴェランダへ出る。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』
そうこうしているうちに、睡眠薬がかすかに効き始めるので、ベッドに入り体を丸めて横になり眠ろうとする。挫折の夢、戦争の夢…etc。フィッツジェラルドは、眠りを誘おうとして、さまざまな夢=イメージを作り出すことを試みる。
戦争の夢。日本人が至る所で勝利を収めーぼくの師団は支部五裂し、ぼくは隅々まで知り尽くした土地であるミネソタ州の片隅で守勢にまわっている。そのころ会議を開いていた司令部員と大体指揮官たちは、一発の砲弾によって殺された。フィッツジェラルド大尉が指揮をとることになる。堂々たる威厳をもって…。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 ーしかし、それまでのこと。この夢もまた何年もの使用で薄くすり減ってしまったせいで何の効果もない。不眠症者は眠りを誘発するあらゆる可能性を尽くした後、結局また

裏のヴェランダに戻り、精神の激しい疲労と神経の異常な緊張のせいでー震えるヴァイオリンを奏でる毛の切れた弓のようにー屋根の上に、夜いっぱいのタクシーの甲高い警笛の音や家路を辿る放蕩者の歌声の中に本物の恐怖が広がってゆくのが分かる。恐怖と浪費とー
 
浪費と恐怖ーぼくがそうだったかもしれないし、したかもしれないもの、つまり失われ、使い果たされ、過去のものになり、霧の晴れるように跡形もなくなって、二度と捕らえられないもの。たとえばこんなことを自制し、臆病だったのを大胆に、無分別なのを慎重に、そういうふうに行動することだって出来たはずだ。
 
ぼくはあんなふうに彼女を傷つけなくてもよかった。
ぼくは彼にこんなことを言わなくてもよかった。
壊れないものを壊そうとして、自分自身を壊さなくともよかった。
恐怖は嵐のように襲いかかったー今夜が死後に訪れる夜の前兆だとすればどうだー以来ずっと奈落にのぞむ断崖で震え続けるとすれば、自己の中にある下劣で邪悪なものが人を前進させ、世間の下劣と邪悪が目の前にあるとすればどうだ。取捨選択はない、道はない、希望はないー薄汚ない、悲劇じみたものの反復があるばかりだ。さもなければ、通過することも後退することもできずに永遠に境界線に立ち尽くすことだろう。
 
時計が四時を打つころには、ぼくは一個の幽霊になっている。
ベッドの傍らで、ぼくは両手に頭を埋める。やがて静寂ーそして静寂ーそして突然ーあるいは後になって思い出すとそうなのかもしれない。ー突然ぼくは眠っている

 眠りー本当の眠り、いとしきもの、秘められたもの、子守歌。ぼくを包み、平和や無の中に導いてくれるベッドと枕とは、とても深く暖かいーやがて暗黒の時間に浄化されたあとに、ぼくのが訪れる。

フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 《人生とは崩壊の過程であ》り、空高く舞い上がり、落下することによってのみその高さが測られるような強度である。

生は、つまり、そんなものだった。忘却の瞬間に、生は高く舞い上がり、突然、枕の中に深く落ちて、落ちてゆく
逆らい難い力で訪れ、虹のように輝く-オーロラだ-新しい夜明けだ。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 

                   ◆

 
一見すると何一つ共通項がないように見えるサミュエル・ベケットスコット・フィッツジェラルドだが、実は両者は不眠の一語によって分かち難く結ばれていたのである。
 
ヘミングウェイの『身を横たえて』に抗して書かれたフィッツジェラルドの『眠っては覚め』は、ベケットの『夜と夢』の卓越した解説としても読むことができる。フィッツジェラルドにとって不眠とは、体を丸めて横になりながらも、なおも緊張を解かない身体、すみずみまで張りつめ、じっと瞳を凝らすことであり、危険を覚悟しながらも、日の出と共にようやく与えられる眠りに胸を踊らせることに他ならない。それは、夜を徹する見張りの緊張状態であり、ドゥルーズフィッツジェラルドの小説に心惹かれた理由は、おそらくこの辺りにあるのだろう。
 
                   ◆
 
サミュエル・ベケットスコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイフランツ・カフカ、コンスタン・ギース、ジル・ドゥルーズエマニュエル・レヴィナスモーリス・ブランショにロジェ・ラポルト…西欧において不眠を患う午前三時の思想家は枚挙に暇がない*2。世界全体が眠りにつく午前三時に彼らだけは仕事を始め、一切を変貌させてしまう。彼らにとって、〈夜を徹して有る〉とは、夜更けを過ぎてからの有り様というよりはむしろ、朝になる以前の有り様、ありとあらゆる日の出に先立つ「幽霊」の再来であり、彼らが描き出す「夕暮れの国=西洋は、プラトン的-キリスト教的な西洋よりも、さらには、ヨーロッパという名で考えられる西洋よりも古い、すなわち、より早期のものであり」*3、より初めにあるような「先立ち」を意味している。そして、ここまで来れば、『夜明けの光を見張って』におけるフーコーの予告を否が応でも引かずにはいられない。
われわれの文化において、「眠らずにいること」、見開かれたまま夜を開き、かつ祓い除ける目が担う栄光の意味を、睡眠を睡眠たらしめ、夢を妄想であると同時に運命の呟きたらしめ、光の中に真実をきらめかせる注意深い忍耐力が帯びる権勢の意味を、いつかは問わなければならいだろう朝の覚醒のうちに、そして夜他者が眠る中で明晰さを保つ徹夜状態のうちに、西洋はおそらく自らの根本的限界の一つを描き出してきた。
フーコー夜明けの光を見張って』1963年
その18年後、『全体的なものと個別的なもの』において、おそらくは午前三時の神秘思想に取り憑かれたドゥルーズの個体化論に照準を合わせながら、フーコーは予告通り次のように語ることになる。
寝ずの番のテーマは重要です。このテーマは、牧人の献身なるものが持つ二つの側面を見せてくれます。第一に、牧人は、十分に食べ物を与えられたあと眠りこんでいる羊たちのために行動し、働き、そして献身します。第二に、牧人は、羊たちの様子を見守ります。群れの羊の一頭たりとも見失うことなく全ての羊に注意を注ぎます。かれは、群れをその全体において、また細部において知ることを求められているのです。
牧人的権力とは、群れのそれぞれの構成員に対する個別的な配慮を前提としている訳です。 
われわれの社会だけが、莫大な数の人々の群れを一握りの牧人が相手にするという不思議な、権力のテクノロジーを発展させてきたのです
フーコー『全体的なものと個別的なもの』1981年  
 関連記事

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 眠れない夜のためのブックリスト

消尽したもの

消尽したもの

 

 ドゥルーズの手によるベケット論『消尽したもの』(1992年)の他、『夜と夢』など、ベケットのテレビ作品の台本が四本収録されています。

 僕の大好きな『眠っては覚め』、『意味の論理学』でドゥルーズが論じた『崩壊』、村上春樹が「A+の傑作」と評する短編『バビロン再訪』を読むことができます。不眠との関連では、『崩壊』三部作の一つ『取り扱い注意』がオススメです。

 フーコーの初期の文芸評論を集めた本です。ブランショの弟子ロジェ・ラポルト著『夜を徹して』(1963年)の書評『夜明けの光を見張って』(1963年)が収録されています。タイトルの『夜を徹して』の一語が喚起する「徹夜」「夜警」「見張り」「不眠」「覚醒」などの諸テーマは、言うまでもなく、『監視と処罰』における一望監視装置の分析や、晩年の牧人司牧型権力の分析へと接続することができるでしょう。

 本文の最後で引用した『全体的なものと個別的なもの』(1981年)が収録されたフーコー晩年の論文をまとめた本です。

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

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  《存在と不眠》について考え続けたユダヤ系哲学者の小論です。

寝ずの番 (講談社文庫)

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 著者は不眠症ではありませんが、過眠症を患っていたと言われています。本書にかぎらず『今夜、すべてのバー』でなどの作品においても、眠りについての興味深い記述を発見することができます。

過去記事 

rodori.hatenablog.com

 

*1:警戒[vigilance]は「眠らずにいること」「眠らずに警戒し続けること」を意味するラテン語vigilantiaを語源とする。

*2:パスカル『パンセ』

「イエスは世の終わりに至るまで苦悶するだろう。その間、われわれは眠ってはならない。」

*3:「早く逝きし者が下降して到達するくにが、夕べのくにである。トゥラークルの詩を凝集させている場所の、場所としての性質は、隔絶した寂寥の地の隠れた本質なのであり、「夕べのくに」[Abendland]〔すなわち、西の国、西欧〕と呼ばれる。この夕べのくには、プラトン的-キリスト教的なくに、さらには、ヨーロッパという名で考えられるくによりも古い、すなわち、より早期のものであり、従って一層有望なくにである。というのは、隔絶した寂寥の境とは、高まりつつある世界年[Welt-Jahr]の「原初」であって、頽落の果ての深淵ではないからである。」

ハイデガー『詩における言葉』(1952年)

酔っ払いのついた嘘/太宰治『グッド・バイ』の感想

太宰治の遺作『グッド・バイ』を読み終えた。残念ながら連載13回目にして未完のまま中途半端に終わってしまっているのだが、毎回続きが気になる面白い作品だった。本を閉じた後、どういう訳かそれまでは一向に気にならなかったこの作者の生涯に興味が湧いてしまい、少しの間それについてググってみた。

 
太宰治。本名、津島修治。1909年6月19日生まれの双子座。1948年6月13日死没。享年39歳。心中だった。彼の死に際して、おそらくその最良の理解者の一人であろう、飲み友達の坂口安吾は次のように語っている。
 
文学ごときで人が死ぬものか。太宰の自殺は文学のせいなんかじゃない。肺病を患って体が弱っていたせいだ。さもなければ、酒の飲み過ぎだ。何が“死によってみずからの文学を完成する”だ。お前のはただの芥川の猿真似だろうが。笑わせるな。卑しくもマイ・コメディアン(略してM・C)を自称するものが、二日酔いのまま舞台に上がるなどもってのほかだ。そんなだらしの無い生活をしているから酔った勢いで調子に乗って自殺などやって、文学という舞台の上でスベって恥を掻くんだ。
 
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太宰の遺書は、体をなしていない。メチャクチャに酔っ払っていたようだ。十三日に死ぬことは、あるいは内々考えていたかも知れぬ。ともかく、人間失格、グッドバイ、それで自殺、まァ、それとなく筋は立てておいたのだろう

坂口安吾『不良少年とキリスト』

 生前からイタズラ好きで有名だった太宰は死に臨んでもなおイタズラをして文壇と言う小さな世間を騒がせた。死んだ日が13日。遺作となった小説のタイトルが『グッド・バイ』で、これは13回目で絶筆。不吉な「13」をズラリと並べてバイバイ=死というわけだ。内輪ウケを狙った筋書きとしてはよくできているような気もするが、安吾は太宰のつけたオチ=自殺の不手際を非難してこう罵っている。

本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっとすぐれたものになったろうと私は思っている。

坂口安吾『不良少年とキリスト』

 「人間失格」「グッドバイ」「13」なんて、いやらしい。ゲッ。他人がそれをやれば、太宰は必ず、そう言う筈ではないか。

坂口安吾『不良少年とキリスト』

  手厳しい。太宰があの時もしも玉川上水で死にそこなって生き返りでもすれば、前の日の酒の席での醜態を恥じて二日酔いの苦悶の中で書いたであろうようなことを安吾は淡々と綴っていて、ただひたすらに手厳しい。その手厳しさは、芥川の自殺に際して、谷崎が残したあの身も蓋もないコメントを想わせる。

芥川君は〔…〕小説を書くには不向きな人だった。

谷崎潤一郎『饒舌録』

 

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                                                             ◆
 
 
だが、それにしても…小説というのはどうも性に合わない。大学を卒業してからどんどん小説を読まなくなっている気がする。去年、最後に読んだ小説はなんだったか。思い出せない。今年に入ってから心機一転、谷崎潤一郎を体系的に読み直そうとしたのだが、かろうじて読めたのは、エッセイなのか小説なのか定かではないような『吉野葛』だけで、それ以外のものはすべて中途で投げ出した。
 
フィクション全般がダメなわけじゃない。マンガやアニメ、ゲーム、映画やテレビドラマにはいつも楽しませてもらっている。フィクションを受け付けないのではなく、ある種の小説が後生大事に抱えている“リアリズム”を僕の体が生理的に受け付けないのかも知れない。
 
 
                                       ◆
 
 
小説家の想像力は、現実よりもさらに現実的なもの、「現実の、より一層完全なヴィジョン以外のものではあり得ない」。作家は、自分自身を掘り下げて書く。もし、或る作家が作り出したキャラクターが“生きている”ように見えるとすれば、それは、そのキャラクターが複数化された作家自身の分身に他ならないからだ。それが小説のリアリズムというもので、“現実をありのままに写生する”こととは似ても似つかぬ営みだ。
この世に、同じ形をした二粒の砂はない、同じ二つの蝿もいない、全く同じ手もない、鼻もない、という事を知り給え。
乾物屋なり、門番なりを描くなら、他のいかなる乾物屋とも門番とも違うと思わせるように描いてくれ。而も、これを表現するには、たった一つの言葉しかない。これを動かすには、たった一つの動詞、これを形容するには、たった一つの形容詞しかない事を知り給え。
そう言って、フローベールは小説家のあり得べき理想を指し示す。乾物屋を“ありのままに”書き写すのではなく、この世に「二つ」とない乾物屋を描き出すこと、「他のいかなる乾物屋とも違う」乾物屋を作り上げること。その対象についてその対象だけに当てはまるようなたった一つの「言葉」、それがただそのものだけにしか当てはまらないために、それがなおも一個の「言葉」であると辛うじて言い得るか得ないかのような「言葉」を綴ること。対象と「言葉」のあいだのこの一致こそが「内的差異」であり、フローベールの理想とするものだ。
 
フローベールのこの理想を踏まえた上で、その弟子のモーパッサンは『ピエールとジャン』の序文の中で、自分はリアリストと呼ばれるよりも、イリュージョ二ストと呼ばれる方がよほどマシだ、と主張する。彼の言う「イリュージョ二スト」とは要するに手品師のことであり、すぐれたリアリストとは、イリュージョニスト、すなわち、「現実のイリュージョンを、現実そのものよりも完全なイリュージョン」として読者に見せることが出来る手品師のことだ。
 
読者にたやすく手品のタネを見破られるようでは小説家=イリュージョニストは務まらない。だから、小説家は誰しも、自分の作り出したイリュージョンを読者に無理矢理にでも信じ込ませることのできる熟練の手品師でなければならない。
 
別の言い方をすれば、小説家は上手に嘘をつくことができなればならない。晩年のロラン・バルトが、『新たな生』を求めて小説を書こうとしてなかなか書けずに悩み、それに自ら答えて「私には嘘がつけないからです」と言った時、彼は未来の小説家としてモーパッサンと同じ問題に向き合っていたのだろう。
 
 
                   ◆
 
 
小説を書くことは嘘をつくことをその内に含んでいる。小説は言ってみれば「真と偽の混合物」であり、予告なしに両者を混ぜ合わせる。視点を転じて読者の側から言えば、小説を読むことは、作者のついたとりとめもない嘘を受け容れること、「偽なるもの」を許容することを意味している。ところが、混じり気のあるものが嫌いな僕はと言えば、小説家のつく見え透いた嘘や回りくどい嘘、総じて出来の悪い嘘を許すことができない。ちょっとでも不出来な嘘を目にすると忽ち萎えて本を投げ出してしまう。堪え性がないのだろう。哲学書を読みすぎたせいで「偽なるもの」や「嘘」、〈不純なもの〉に対する感受性が日に日に衰えている気がする。哲学の毒にやられてしまっているのかもしれない。
 
だが、そんな僕でも『グッド・バイ』は久しぶりに面白く読めた小説だった。“リアリズム”という名前のついた二日酔いのイリュージョン、出来損ないのわざとらしいイリュージョンがないからだろう。出来の悪いイリュージョンとして坂口安吾が批判したのは、あくまで“文学作品としてみた場合の太宰治の人生”だ。それに対して、短いとは言え『グッド・バイ』は立派な小説であり、未完とはいえ小説は小説だ。久しぶりに一篇の小説を投げ出さずに読み切ることができたのはめでたいことだ。今年の年末は小説を読んで実家で静かに過ごすことにしよう。荒木町で酔っ払うのは止めにしよう。リハビリがてら長篇は避け、短篇や中篇(レシ)から少しずつ読んで行こう。坂口安吾の『不連続殺人事件』なんてどうだろう?あれだけこっぴどく太宰をやっけるのだからさぞかし立派な嘘(=小説)をついているのだろうと嫌が応にも期待が高まる。もしかすると、気分を変えて海外の推理小説に当たってみるのもいいかもしれない。と、そんなことを考えながら、パトリシア・ハイスミスの短編集『女嫌いのための小品集』を手に入れた。
「〔…〕まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に心配になって来た。女に惚れられて、死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽の極みだね。誰も同情しやしない。死ぬのはやめたほうがよい。うむ、名案。すごい美人を、どこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引き下がる。どうだ、やってみないか。」
太宰治『グッド・バイ』

 

グッド・バイ (新潮文庫)

グッド・バイ (新潮文庫)

 

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*2

 参考

 

作家の随想 (6)

作家の随想 (6)

 

  

ピエールとジャン (新潮文庫)

ピエールとジャン (新潮文庫)

 

 

日本探偵小説全集〈10〉坂口安吾集 (創元推理文庫)

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女嫌いのための小品集 (河出文庫)

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

 
関連記事

rodori.hatenablog.com

 リンク

tabelog.com

太宰治坂口安吾など、当時の文豪たちが通っていた銀座のバーです。

 

Bar Lupin Ginza

銀座ルパンの沿革を知ることができるページです。

 

*1:銀座のルパンで酔っ払う太宰治。めっちゃ楽しそう。

*2:坂口安吾と酒を飲む太宰治。めっちゃ楽しそう。

P・M・シュル『機械と哲学』について。

古代ギリシャの社会は大雑把に言って二種類の人間から成り立っていた。一つは余暇[schole]のうちに生きる自由人であり*1、もう一つは、単なる機械にすぎない奴隷である。
 
奴隷を「もっぱら一つの機械と見なされた人間*2と定義したアリストテレスは、奴隷制が「自然」であり「必然」であるとさえ主張した。ただし、彼の言う"奴隷制の必然性"は、あくまで条件付きの必然性であり、もし実現が可能なら奴隷制の廃棄を可能にするはずの興味深い例外を含んでいる。
 
その例外とはこうである。
もしも道具がいずれも人に命じられるか、あるいは合図を受けるだけで、そのなすべき仕事を完成することができるなら、…職人の親方は下働人を必要とせず、また主人は奴隷を必要としないだろう
アリストテレス『政治学』第1巻第4章
この世でただ一つ「人に命じられるか、あるいは合図を受けるだけで、そのなすべき仕事を完成することができる」道具だけが奴隷制を廃棄することができる。換言すれば、古代ギリシア鍛冶の神ヘファイストスが用いたと言われるような、自分で動くことができ、ひとりでに神々の集いにやって来たあの不思議な鼎のようなもの、今日の言葉で言えばロボットだけが、奴隷制の廃棄を可能にするのである。

 

政治学 (岩波文庫 青 604-5)

政治学 (岩波文庫 青 604-5)

 

 

 

                   ◆
 
 
 
ところが、古代人にとってロボットは、ヘファイストスの如き神々でなければ実現不可能な夢物語、言わば神話の世界に属するものだった。それどころか、古代の奴隷制は、自らを除去する方向に進みうるただ一つの道であるロボットの発明を可能にするような機械的技術に対する侮蔑を、あらゆる方途で生み出していた。

この点に関するディドロとダランベールの報告を引いておく。
 機械的技術を実践することは、あるいは研究することさえも、その探求は骨折り多く、その省察は、下賤であり、それについての説明は困難、それと関わりを持つことは不面目、その数は尽きることなく、そしてその価値は取るに足らぬような事柄にまで身を落とすことであると、信じさせられるようになっていた。
ーディドロ、ダランベール『百科全書』P297

 

機械的技術の働きに依存し、一種の伝承的手法の、この語を私が使ってよければ、奴隷となっているため、人間の中で偏見のために最下層の階級に置かれている人々に委ねられてきたのである。
ーディドロ、ダランベール『百科全書』P59-60
 
  
百科全書―序論および代表項目 (岩波文庫)

百科全書―序論および代表項目 (岩波文庫)

 

 

                   

                  ◆

 

 

さて、古典期ギリシア思想の研究者であるP・M・シュルは、その著書『機械と哲学』の中で、「論理的には、すでに古代から機械の発達が可能であった」にもかかわらず、「この方向への発展を阻害した」ものは何なのかを問うている*3

 
この問題に著者はみずから答えて、奴隷制がもたらす機械的技術に対する侮蔑が「反機械的な」メンタリティを形成し、このメンタリティが古典古代における機械的技術の発展を阻害したと結論しているのだが、彼の主張は、奴隷と機械の間の意外な関係を明らかにしていてとても興味深い。
機械と哲学 (1972年) (岩波新書)

機械と哲学 (1972年) (岩波新書)

 

  

 

                  ◆ 

 

 

『機械と哲学』を読みながら、ふと最近読み終えたばかりの藤村シシン著『古代ギリシァのリアル』の中で、《なぜヘファイストスはひどい扱いを受けるのか》を巡ってまるまる1章が割かれていたことを想い出した。確かに、鍛冶の神、要するに職人的技術の神であるヘファイストスは、美しいオリンポスの神々の中で、「例外的に外見をボロクソに言われるほど醜く、また足も不自由で杖を付い」た姿で描かれている。例えばこうである。

 

この私(ヘラ)の産んだ子ときたら、あらゆる神々の中で虚弱で、脚の悪いヘファイストスだった。私はあの子の両手をつかんで海に放り投げてやったわ。

アポロン讃歌(讃歌第3番)』

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なぜヘファイストスはかくも酷い扱いを受けるのか?この問題に対する『古代ギリシャのリアル』の答えはこうだ。
それは貴族的なギリシャ神話の世界観の中で、鍛冶屋の地位が低かったことを反映しています。鍛冶屋は職人として利用されますが、そこまでの尊敬をもって接せられる存在ではなかったのです。古代ギリシャの中では、ヘファイストスをオリンポス十二神の中に数えていないアルカディアのような地方もあるくらいです。

 

古代ギリシャのリアル

古代ギリシャのリアル

 

 

 

                   ◆

 

  

P・M・シュルが提起する「反機械的」メンタリティの概念は、奴隷制を廃棄し、人類に真の自由をもたらすはずの機械=ロボットを作ることができる神、すなわち、《職人的技術の神ヘファイストスがなぜオリンポスの神々の中で最下級の地位に甘んじなければならないのか》を別の側面から説明してくれている-と、そんなことを考えながら『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』を観始めた。

 

danmachi.com

 

参考文献

(1)P・M・シュル『機械と哲学』

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 (2)林達夫林達夫セレクション〈3〉精神史』

林達夫セレクション〈3〉精神史 (平凡社ライブラリー)

林達夫セレクション〈3〉精神史 (平凡社ライブラリー)

 

 同書収録のエッセイ『古代思想史の課題』の中で『機械と哲学』が言及されています。

(3)ハイデガー『技術への問い』

技術[τεχνη]の本質を突き詰めて考えた場合、因果性の問いに行き着くのですが、本書は技術を出発点に因果性と自由の絡み合いについて考察したものです。

過去記事

*1:アリストテレスは『政治学』の中で、人間が人間でいるためには労働ではなく暇[schole]こそが重要だと述べている。古代ギリシアの市民は、大抵の場合2人~4人の奴隷を所有していたため、自分で働く必要がなかった。そのせいもあって労働は、「自由人らしくないこと」と見なされ、軽蔑の対象となっていた。

*2:なお、人間の機械的側面に注目した哲学者としてはライプニッツを挙げることができる。彼は「われわれはわれわれの行動の四分の三では自動人形である」と書いている。

*3:興味深い例外としては、シラクサを包囲したマルケルス指揮下のローマ艦隊を撃退した兵器「アルキメデスの装備」を挙げることができるだろう。

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岩明均『ヘウレーカ』P51。

お引っ越し/ブノワ・ペータースの『デリダ伝』を読みながらふと思ったこと。

6月以降、このブログを一行たりとも更新することができていない。上海でのパスポート紛失事件以来、遅れに遅れた仕事に忙殺されてしまい、ブログを書くことに時間を割けなかったということもあるだろうが、一番の理由はおそらく引越しだろう。

 
長いあいだ住み慣れた日暮里を泣く泣く離れ、新宿区の四谷に引っ越してからもう4ヶ月になる。通勤は以前と比べて段違いに便利になり、盛り場の新宿も近くて刺激も多いので、その点では満足しているのだが、どこか落ち着かず心が宙に浮いた感じになっている。
 
ここに越して来てからというもの、本を読むより飲みに行く時間の方が多くなり、買った本を最後まで読み切ることができなくなって来ているし、一度読んだ本をもう一度読み返すこともほとんどなくなってしまった。ゴールデン街や荒木町で酒に酔いながら本を読むことなど物理的に不可能なのだから当然である。エンゲル係数もやばいことになっていて、もしかすると僕にとって四谷という土地柄は、読書をするにはあまりいい環境ではないのかもしれない。
 
だが、他方でまた、せっかく重い腰を上げてはじめたブログを書くというこの習慣をこのまま止めてしまうのはあまりに勿体ないとも思っている。もちろん、麻布十番で書けなかった人が、軽井沢でならスラスラ書けるということはあるだろう。けれども、僕の場合、四谷から引っ越すことは当分の間できないのだから、ケーニスベルクから一歩も外に出なかったカントのごとく、この場所から一歩も動かずに書く術を何とかして探し出さなければならない。
 
                   ◆
 
 
したがって、場所よりも姿勢の方が、僕が今後このブログを細々と書き継いでいくに当たっておそらく大切になってくるだろう。そのことに気づかせてくれたのは、朝に読んだジャック・デリダの評伝『デリダ伝』の一節だった。どういう姿勢の時に執筆のアイデアが浮かんで来るかについてデリダは次のように語っている。
横になりながら書いたり、夢から覚めた起きぬけにノートを取ることが私にはあります。〔…〕座って執筆しているとき、わたしは思考、イデア、思考の運動を管理しているのですが、そうしたものは常に、わたしが立ち上がっているときや、別のことをしていたり、歩いたり、ランニングをしたりしている最中にわたしにやってくるものなのです。最も組織だった物事、アイデアがわたしにやってくるのは、ランニングをしていた頃(今はやめています)でした。メモするためにポケットにメモ用紙を入れてランニングに行くこともありました。それから、わたしは机に向かい〔…〕走っている最中に決まってわたしにやってくる物事、ひそやかで、手短で、しかし時にはきらめきを放つようなことを管理し、活用していたものです。ごく早くからわたしは意識していたのですが、何かよいことがわたしに起こるのは、たいてい立っているときなのです。
ー ブノワ・ペータース『デリダ伝』P594
デリダとは何者か?彼は何よりもまず、常人ではほとんどフォローしきれないほどの大量の文章を書き残した人である。そんな彼が至る所で書き残したひそやかで「時にはきらめきを放つような」アイデアの数々は、実は、彼がおとなしく「座って」執筆活動をしている時ではなく、「立っているとき」、とりわけ「歩いたりランニングをしていた」時に生み出されたものだったのだ。
 
                  ◆
 
また、別の意味で興味深いのは、彼が「最も組織だった物事、アイデアがわたしにやって」来たのは、「ランニングをしていた頃」だったと述べていることである。どういうことか。評伝によればデリダがランニングを自らの日課としていたのは、「カルフォルニア滞在のときから」1980年代にかけてであり、同時期に発表された文章は以下の通りである。
 
1980年 『絵葉書Ⅰ』『絵葉書Ⅱ』
1982年 『他者の耳
1984年 『Otobiographies.L’enseignement de Nietzsche et politique du nom propre』
1985年 『視線の権利』、
1988年 『Memories ー pour Paul de Man』
 
「最も組織だった物事、アイデア」が詰め込まれていると彼が自画自賛する以上の著作リストの中に、『声と現象』や『グラマトロジーについて』や『エクリチュールと差異』のような、論文や書物といったアカデミックな体裁をかろうじて守り、それ自体を独立して読むことができるような初期の名高い著作群は含まれていない。
 
上記のリストには、むしろ、『絵葉書』を始めとして、明瞭さが徹底して避けられ、別の文章への暗黙の参照や引用、論述の意図的中断や迂回によって極度に断片化され重層化されているせいで、もはやそれぞれを独立した論考として読むことができないような難解な著作が並んでいる。
 
デリダの文章は難しい。だが、『絵葉書』のようなテクストの難解さは、『グラマトロジーについて』のように内容のレベルでの問題ではなく、学問的で論理的な手続きに測る読者を意図的に排除し、読者に対してほとんど暗号解読に近い責め苦を負わせるような彼のあの「奇妙な」書き方に宿っている。
 
東浩紀は、『絵葉書』に代表されるこの時期の難解な文章の数々に関して、その

難解さはもはや内容にのみ関わるのではない。それはむしろスタイルに、より正確に言えば、そのようなスタイルが選択されたことの動機に関わる。そもそも、何故デリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?

東浩紀存在論的、郵便的

 60年代の理論的作業、『声と現象』や『グラマトロジーについて』のような高い評価を得た仕事とスタイルを、何故彼は棄てねばならなかったのか?

東浩紀存在論的、郵便的

 などと問うているが、この素朴な疑問に対する答えは、僕の知る限りでは今なお出ていない。

アカデミックな著述のスタイルから大きく逸脱したこの時期のデリダの「奇妙な」著作群と「カルフォルニア滞在」以来の彼のジョギングの習慣とが時期的に大きく重なり合っているのは単なる偶然に過ぎないのだろうか。おそらく…いや、きっと、デリダならば
「偶然ではない」
「ジョギングと私の書き方とは決して無関係ではありえない」
と当然のごとく答えたことだろう。というのは、例えば「ヘーゲルハイデガーの性生活」とかジャック・デリダの「ジョギングの習慣」のような哲学者のプライベートかつ伝記的なエピソードを伝統的哲学が組織だって蔑ろにしてきたことを執拗に告発したのが他ならぬデリダ自身だったからだ。
ご承知のように、伝統的哲学は伝記を排除してきました。伝記は何か哲学の外部にあるものと考えられているのです。アリストテレスについてのハイデガーの定言が思い出されるでしょう。「アリストテレスの人生とはどのようなものだったのか?」さてその答えは、たった一文で表されます。「彼は生まれ、考え死んだ」です。そして、他のすべてのあらゆることは純然たる逸話にすぎないというのです。
ー ブノワ・ペータース『デリダ伝』P7
わたしは彼らが自分たちの性生活について語るのを聴きたい。ヘーゲルハイデガーの性生活はどのようなものであったか。〔…〕それというのも、それこそ彼らが語らないなにかだからです。どうして哲学者たちは自分の作品の中で、性を持たない*1存在者であるかのように自らを表現するのでしょう。どうして哲学者たちは自らの著作から私生活を消し去るのでしょう。どうして彼らは個人的なことについては決して語らないのでしょう。
ー ブノワ・ペータース『デリダ伝』P8

したがって、デリダのこの時期の著作に関してジョギングの日課が果たした役割を標定するというこのささやかな企てを、デリダ自身の発言から正当化することは十分に可能だと僕は考える。立つことと座ること、あるいは、考えることと書くこと、より正確に言えば、「机」から「立ち上がり」家の外に出て走りながら考えることと、家に戻って「机に向かい」「座って」書くこととは、日々ジョギングに励んでいたあの時期のデリダの脳内で一体どのようにして結びついていたのだろうか。謎である。 

 

                   ◆

 
話が逸れてしまった。僕にとって、ブログを書く上で重要なのは、書く場所を確保することよりもむしろ、書くためのアイデアが浮かぶ良い姿勢を見つけることの方だという話だった。
 
ブログを書けないというこの状況を好転させるために住む「場所を変える」ことは確かに重要だ。けれども、僕のようにパスポートをなくして上海という悪い場所から一歩も抜け出せなくなってしまったり、誤って不適切な環境に引っ越してしまった場合、総じて、さまざな事情から「場所を変える」ことが容易ではない人は数多く存在する。
 
悪い場所に嵌まり込んでそこから「移動」できなくなってしまった人たちに対して一体どういうアドバイスをすればいいのか。少なくとも東浩紀のように、そこから自由になるには
場所を変える。それだけです。
東浩紀弱いつながり
とシンプルに答えたり、あるいはイケダハヤト師のように、高知に移住してそこで採れた新鮮なトマトをムシャムシャ貪りながら、
まだ東京で消耗してるの?
などと挑発することは、ほとんどナンセンス、いやむしろ、そこでそのままのたれ死ねと言っているに等しい。移動できずに困ってる人に対してそういう言い方はないだろう。
 
一般的に言って、場所や環境をフレキシブルに変えることができるのは一部の余裕のある人間だけであり、大抵の人間にそこまでの余裕があるはずもない。かつて提唱されたパーマネントトラベラー(PT)が広く一般には定着しなかったように、ノマドワーカーはまもなく絶滅危惧種となるだろう。場所ノ移動は今なお一部の特権階級の贅沢品であり続けているし、いくつかの解決困難な構造的問題を抱えているせいで経済状況がなだらかに悪化する一方のこの国にあって、ノマドはとうてい持続可能なライフスタイルではないからだ。
 
                  ◆
 
誰か或るつまらぬ人間が、神によって地獄に堕ちたならば、神は、その人間に逢いに、地獄に赴かなければならないだろう、そして、地獄は、彼にとって、天国のごときものとなるだろう
ー マイスター・エックハルト
だが、まことに残念なことにその神はもういない。つまらぬ不注意で地獄に堕ちてしまった人間が、転じてそこを天国に変えるには、場所ではなく自分の姿勢を変える必要がある。さらに抽象化して言えば、立ち上がって歩き出し、あるいは走りながら考える必要がある。そうすればデリダのように、アイデアの繊細な「きらめき」がどこからともなくやって来て、それを管理・活用することで機嫌よく一日を終えることができるようになるだろう。
 
デリダの場合、「座って」いる時ではなく「立っている」時、とりわけ「ランニングをして」いる時に、アイデアの「きらめき」はやって来た。
 
自分自身の過去の経験を振り返ってみても、デリダが語る上記の経験則は間違っていないように思えてくる。例えば、なぜかこのブログでもっともアクセスがある『奴隷制がダメである8つの理由』は、通勤電車の中で立っている時に少しずつ書き足して出来たものだし、前回の記事『上海パスポート紛失記』は、ホテルにおとなしく籠って座りながらではなく、上海市内をくまなく走り回った経験が活きている
 
上海でパスポートを紛失し、一切の移動の自由を奪われた僕は、最終的には市営地下鉄に乗ることさえできなくなった。命の次に大切なものを失ってビクビクしていたせいか不審人物に見えたのだろう。駅で切符を買っていると、いつも決まって公安の人間が現れて職務質問され、パスポートの提示を求められたのである。
 
高速鉄道はそもそもパスポートがなければ利用することができない。地下鉄に乗れば必ず公安の怖い人がやって来る。タクシーは金がかかるのに人民元の交換を制限されている。したがって、滞在期間が読めない中で可能な限り金を使わずに手っ取り早く市内を移動するには自分の足を使うしかないという訳である。
 
そんなわけで、不法に上海に滞っていた間は、雨の日を除いてほぼ毎日ランニングをして暇を潰すことになり、上海市街を西へ東へ、これが観光だったらまず行かないような路地や横丁を隅から隅まで走り抜けることができて大変に満足している。
 
 
                   ◆ 
 
 
またしても話が逸れてしまった。デリダにとって、アイデアの閃光はいつも決まって「立っている時」にやって来るという話だった。しかしながら、「これだ!」と思わず叫ぶことができるようなアイデアの繊細な閃き、いわゆる〈ピンと来る=ティルトする〉ことを巡っては、同じフランス人でありながら、上述のデリダとは別の文脈で一連の問いを提起したもう一人の人物がいる。ロラン・バルトのことである。彼は『明るい部屋』において、ティルト(ピンと来ること)のメカニズムについての反省をはるか遠くまで推し進めている。
 
同書において彼が観察するいくつかの写真は、どういうわけか、揺さぶられ、扇動させられ、同時にまた、「これだ!」と覚醒させられるような唐突な感覚を引き起こす。
こうした写真は、突然私のもとにやって来て、私を活気づけ、私はその写真を活気づける。それゆえ、その写真を存在させる魅力を活気づけと名づけなければならない。
いくつかの写真と同様、晩年のバルトが愛着を注いだ日本の芸術、すなわち俳句もまた〈ピンと来る(=ティルト)〉ものだった。
俳句はピンと来るもの、短く、ただ一度鳴る一種の澄んだ鈴の音であり、それは〈何かによって私はこころ揺さぶられたところだ〉と告げる。
このようなティルトによる突然の〈悟り〉が具体的な形となって現れるのは、縮約された〈点〉という形態においてである。ティルトは「矢のごとく」現れてバルトを不意打ちし、鋭利な切っ先で彼を鋭く「貫きにやってくる」。
 
どこからともなくやって来たティルトの〈点〉による衝撃は、バルトの心にある種の動揺を生み出し、母を喪った悲しみに伴う粘つく無気力を回避することを可能にする。そして、それらはやがてバルトを「人が考えもしなかっただろうこと、考えられもしなかっただろうこと」へと導いていく。
 
そして、同時にまた、ティルトの引き起こすこの振動(動揺)は、亡くなった母との精神感応の基礎となり、官能と情動への開口部となる。『明るい部屋』の作家は、亡き母がかつて少女だった時代に、冬の庭のガラス張りの天井の下で撮影された写真の衝撃を通して、彼女を官能的に「見出す」のだ。
 
                  
                   ◆
 
 
では一体、これほどまでに貴重なティルトについて、どんな場合にも拒絶することなくそれを自らの元に「迎え入れる」姿勢は果たして存在するのだろうか。「立っている」こと、すなわち、直立することをもってその答えとしたデリダとは異なり、バルトは、禅と道教とに共通する姿勢である〈座禅〉、すなわち「座ること」を推奨する。
キリスト教徒の姿勢:跪くこと
ファシストの姿勢 :立つこと
アジアの姿勢   :座ること
ロラン・バルト〈中性〉について』 

まず第一に、バルトにとって「座ること」は、ファシストが好む直立不動の「立つ」姿勢が呼び込むある種の傲慢さと硬直性を回避するためのものである。

座ること=瞑想すること=何も深く考えないこと
ロラン・バルト『〈中性〉について』 
第二に、 座ることは、禅的実践の核をなす〈瞑想〉と固く結びついている。〈瞑想〉は「座ること」と一体であり、〈瞑想〉はこの姿勢において徹底的に探求されている。そして、〈座禅〉を通じて、何も深くは考えず、何ものにもとらわれない柔軟な精神が育まれ、バルトは次第にある種の非自発的な受動性、〈無為(不活動性)〉、要するに「何もしないこと」の讃歌へと導かれていく。
座ることは、利害を離れる〈無所得〉という考えに結びついている:利害を離れること、捕まえようと欲しないこと
ロラン・バルト『〈中性〉について』 
第三に、座ることにおいては、何も捕獲=把握しないことが肯定される。座ること、それはすわなち、利害を離れることであり、同時にまた、把握を望まないことでもある。バルトの倫理において把握=捕獲を決して欲しないというこの否定的な欲望が重要な位置を占めていたことは周知の通りである。彼が何も把握しないのは、何ものにも把握されないためである。捕獲されないものは捕獲されることを拒むものであり、このように捕獲という名の支配を全面的に放棄することは、あらゆる把握=捕獲に対する反抗手段を準備することになるだろう。
 
 ⑴あらゆる傲慢さと硬直性の回避
 ⑵無為(何もしないこと)
 ⑶捕獲=把握することの拒否
 
以上に列挙した「座る」姿勢が担い導く三つの帰結。これらは全て、〈悟り〉と呼ばれる一つの境地、要するにティルト[ピンと来る]というあの「束の間の閃き」を「迎え入れる」ことになるだろう。〈悟り(ティルト)〉とは、「通常の見方と決裂すること」であり、
一挙に生じる精神の大変動のようなものである。
ロラン・バルト『〈中性〉について』 
そして、〈悟り(ティルト)〉は、正確には、キリスト教の〈啓示〉とは異なるものである。なぜならそれは、何も解明しない(=照らさない)からだ。〈啓示〉と同じく、〈悟り〉もまた疑いを解消する。けれども、〈悟り〉の場合、それによって救いの確信が得られるわけではない。
いずれにせよ、西洋において、悟りとは、おそらくはロマン主義に近い、束の間のひらめきのことである。
ロラン・バルト『〈中性〉について』 

以上、長々と書いてしまったが、20世紀のフランスを生きた二人の作家、ジャック・デリダロラン・バルトの両名が、アイデアの閃きを「生み出す」とまでは言わないまでも、少なくともそれを「迎え入れる」姿勢に関して、「立つこと」と「座ること」という相互に対消滅する二つの異なる姿勢を推奨していることを確認した。久しく更新が滞っているブログを再開するために、僕自身は結局、立ち上がるべきか、それともおとなしく座っているべきなのか。そういうくだらないことを考えている間にいつの間にやら次の日になってしまったので、判断は保留とし、さっさと筆を置いてベッドに横たわって寝ることにしようと思う。

 

デリダ伝

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*1:性差を持たない=中性的な。ハイデガーが語る現存在の中性的性格を問い詰めた『Geschlecht 性的差異、存在論的差異』においても、同様の主張を確認することができる。

上海护证紛失記 第一話 「檻」

ゴールデンウィークを利用して上海に来ている。と言っても、このエントリーを書いている今日はもう2015年5月13日水曜日であり、こう言うと直ちに「ゴールデンウィークって言ったって、そんなものはとっくの昔に終わってるじゃないか。」というツッコミが返って来ることはわかっている。おっしゃる通りで、返す言葉もなく、連休はとうに終わっているにもかかわらず、僕はまだ上海にとどまっている。要するに、やるべき仕事を気のいい同僚に丸投げし、“東洋の魔都”上海の雑踏を寄る辺なくブラついている。先週末、不覚にもパスポート[护证]を紛失してしまい、上海の入管で思わぬ足止めをくっているのだ。
 
パスポートをなくしたことに気がついたのは、先週木曜日の午後2時半頃、上海市内からタクシーを飛ばして30分ほど進んだところにある上海野生動物園のサファリバスに搭乗して程なくのことだった。何やら胸騒ぎがして、カバンの中を確認すると、あるはずのものがそこにない。パスポートとホテルのルームキー、それに人民元400元*1が入ったパスポートケースごとなくなっている。最後にカバンを開けたのはその日の12:00頃、地下鉄9号線の打浦橋駅構内にあるケンタッキーフライドチキン[肯徳基]で昼食をとった時のことだった。おそらく店内に置き忘れてしまったのだろう*2。一刻も早く探しに戻りたいのだが、サファリバスはもう動き出している。言わば檻の中に閉じ込められてしまった状態だ。
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*上海野生動物園の餌やりつきのサファリバス。窓が状になっている。
 
取り乱した僕はすぐ様「降ろしてください!」と運転手に懇願したのだが、聞き入れてくれない。運転手の言い分はある意味もっともで、バスはすでに、ライオンやトラ、ワニやクマの如き猛獣たちが蠢く危険なエリアに差し掛かっていた。降りたところで飢えた猛獣たちに食われてしまうのがオチであり、パスポートをなくすことよりもっと酷いこと(=死)が待っている。
 
やむなくバスを降りることを諦めた僕はもと居た席に着き、サファリバスが園内をぐるりと一周してゴールに辿り着くまで歯噛みしながらジッと待つことにした。乗客たちは一連の醜態を見て、不審そうに僕を見つめている。恥ずかしい。今すぐここから逃げ出したいが逃げ出せない。
 
今にして思えば、『上海 裏の歩き方』などという胡散臭い本を読み、そこで目にした
 
  • 「ライオンに生きた鶏を与える餌やりバス」
  • 「ほとばしるクマの唾液、Tシャツに鶏の血痕が」
 
などと言う野蛮きわまりない殺し文句に惹かれて上海野生動物園*3までノコノコやってきた自分のバカさ加減が恨めしい。なぜ普通の『歩き方』ではなく、『裏の歩き方』なのか。どうしてアクセスのよい上海動物園で愛くるしいパンダを観るだけで満足しようとしなかったのか。完全に裏目であり、ここに来てからというもの、骰子を振っても逆の目ばかりが出てしまう。いい加減ウンザリだ。
 
狭い檻(=バス)の中に閉じ込められてこの上なく混乱していたせいか、中でのことはあまり覚えていない。何やら中国人観光客たちの甲高い歓声が車内のあちこちから聴こえていたような気がするがほとんど記憶がない。ライオンやトラが鶏の生き血をすするという餌やりの決定的瞬間はすべて見逃してしまい、僕の手許には餌を食べに車両に近づいてくるキリンを撮った写真がたった一枚残っているだけだ。
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*命の次に大切なものを代償にして得た唯一つの収穫がこの写真。はっきり言ってビミョーすぎる。
 
息を弾ませながらバスから駆け下りて動物園の入り口まで戻ると、最寄の地下鉄の駅*4まで急いでタクシーを走らせた。タクシー代として運転手から100元を要求されたが、予備の人民元400元をパスポートもろとも落としてしまったため、ポケットに入っている持ち金は全部で84元であり、どうやってもあと16元足りない。「財布をなくしてしまったのでこの80元で許してください」と事情を話して運賃の値引き交渉が成立。カッコ悪いが仕方がない。中川家(弟)によく似た運転手に泣いてもらうことで何とかタクシーを降りることができた。
 
だが、これで持ち金はもう4元しか残っていない。正確にはカバンの中に緊急事態用の日本円が4万円ほど入っているのだが、《パスポートがないので両替することができない》。つまり、使える持ち金はこの4元だけしかなく、日本円換算で77円ほどしか持っていないことになる。コカコーラ1本買えば一文無しになってしまう金額だ*5。この金で地下鉄に乗り、日本国領事館がある伊犁路駅まで何としてでも辿り着かなければならない。ところが伊犁路駅までの地下鉄の運賃は5元であり、あと1元足りないのだ。領事館は5時に閉まるがもう4時だ。タイムリミットが迫っている。5時を過ぎれば自分は一体どうなってしまうのか。ここに来る前に読んだロケットニュース24の記事が脳裏をよぎる。
 
 
こんなところでホームレスになるわけには行かない。やむ無く領事館に電話して、事情を説明し、領事館までタクシーで乗り付けてその場で領事に運賃を立て替えてもらうことで窮地をどうにか乗り切った。
 
上海世貿ビルの13Fにある在上海日本国総領事館*6の邦人救護班の方から今後の手続きについて一通りの説明を受け、最後に
 
「何かお困りのことはありませんか?」
「何でも言ってくださいね。」
 
と優しく聞かれたので、思わず消え入りそうな声で「何か食べ物を買いたいのですが、お金がもう残ってないんです…」などと泣き事を言うと、カンパンやサンマの缶詰など、非常食一式を支給してもらえた。これでこの異国の地で飢え死にせずに済む。《地獄に仏》とはまさにこのことを言うのだろう。ありがたくて涙が出るが、惨めだった。
 
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*上海の領事館でもらった非常食。この恩は一生忘れない。
 
 
                            ◆
 
 
さて、目下帰国の手続きでお世話になっている領事のTさんは、大事なものを喪って難民同然となり、暗く沈んでいる僕を奮い立たせるようにこう告げた。
 
「他の国ならいざ知らず、共産圏の国々、特に中国でパスポートをなくすのは非常に危険なことです。」
「この国でパスポートをなくした場合、帰国までにはふつう2週間〜4週間ぐらいかかります。」
「あとあと気持ちが折れないように今から厳しいことを言っておきますが、この国でパスポートをなくした場合、手続きは非常に煩雑、かつ厄介です。意味不明と言ってもいい。役人の私が言うのもアレですが、中国の役所の対応の酷さは日本とは比べものになりません。かなりのストレスになることは最初から覚悟しておいたほうがいいですよ。」
 
ー僕はいつ頃帰れるんでしょうか?
「私からは何とも言えないです。と言うのも、出国審査の裁量権はすべて中国側にありますからね。基本的に(日本の)領事館は口を挟めません。もっともあなたが日本人だということで、手続き上、当局から不当な差別を受けたというのなら、領事館としても断固戦いますが…。」
 
海外旅行に行くのは年に1・2回ぐらいで、どちらかというとよく行く方だとは思うが、パスポートを紛失したのは今回がはじめてだ。そんな僕でも、中国に限らず、一般的に言って、海外でパスポートをなくしたら非常に面倒なことになることぐらいは知っていた。だが、帰国までに2週間もかかるというのは初耳で、僕は頭が真っ白になり目の前が真っ暗になった。勤め先にどう説明すればいいものか…。
 
ー(帰国までに)そんなにかかるものなんですか?
「中国は特別なんですよ。他の国ならそこまでかかることはありません。例えば韓国でパスポートをなくしても2・3日で帰れます。(あなたは)なくした場所が悪かった…。」
 
パスポートは命の次に大切なもの、肌身離さず持ち歩いていなければならないもので、絶対に失ってはいけない。とりわけ中国では失ってはいけない。なくせばもちろん、その後のスケジュールは全て台無しになるし、家族や職場の同僚にも多大な迷惑がかかることになる。絶大な信用力を持つ日本のパスポートは、流れに流れて中南米のような犯罪が多発する地域で悪用されるリスクもあると言う。その失ってはいけないはずの大事なものを僕は失ってしまった。
 
 
                             ◆
 
日本からいちばん手軽に、パスポートもなしでゆけるところといえば、満州と上海だった。いずれ食いつめものの行く先であったとしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった。私の年長の前野孝雄のように、袴羽織で満蒙へ出かけて行った浪人たちは、しきりに日本の捨石になる覚悟を公言したが、上海組は行ったり来たりをくり返して、用あり気な顔をしながら、なにもせず半生を送る人間が多かった。上海の泥水が身に沁みこむと、日本へかえってきも窮屈で落付かないのだ。
金子光晴『どくろ杯』
戦前の上海、金子光晴が居た頃の“魔都”上海のように「手軽に、パスポートもなしで」とはいかないまでも、2015年現在、日本人はビザなしで中国に渡航することができるようになっている。だが、それはけっして当たり前のことではなく、先人たち、とりわけ外務省の方々の積年に渡る絶え間ない努力の賜物だ。僕が自らの不注意ゆえに引き起こした今回のようなトラブルが後を絶たないのなら、中国政府が対応を変えて、他国人と同じように日本人もまた、中国への渡航のためにビザが必要だった時代へ逆戻りしてしまうことにもなりかねない。直接ではないにせよ、パスポートの紛失は日中間の通商問題と絡み合っている。家族や友人、職場の同僚ばかりでなく、国にまで多大な迷惑をかけてしまっている自分が情けない。
 
 
                              ◆
 
 
 
参考までに中国でパスポートを紛失した場合に必要な手続きの概要を以下に記す。
 
  1. 滞在先のホテルを管轄する公安*7で事案発生証明[报案证明]を入手。
  2. 中国出入境*8でパスポート紛失証明[护证报失证明]を入手
  3. 日本国総領事館で紛失したパスポートを失効させる。
  4. 日本国総領事館で「帰国のための渡航書」*9を入手。
  5. 滞在先のホテルで「臨時宿泊登記書」を入手。*10
  6. 中国出入境で出国審査をパスし、ビザの発給を受ける*11
 
大雑把に言って、手続きは全部で6つのフェイズに分かれている*12。すべてを同時並行で進めることはできないし、1を飛ばして2に進んだり、4を飛ばして5に進むこともできない*13。一つ一つ順番にクリアして行かなければならない。
 
とは言え、日本の領事館での手続き(3と4)は原則その日のうちに終わるので特に問題はない。肝となるのは中国出入境での手続きで、フェイズ2は受付から起算して2営業日、フェイズ6は原則7営業日かかる*14と言われ、合わせて9営業日、土日も含めると全部で11日も待たされることになる。よく言われる《紛失から帰国まで2週間》と言うのは根も葉もない噂などでは全くない。そして何よりもキツイのが、以上の手続きを全て中国語で進めなければならないことである。僕の語学力はといえば、2・3年前に半年ほどJR上野駅そばにある中国語教室に通っただけで、その後復習は一切していない。要するに片言だ。
 
泣き言を言っても始まらないし、金子夫妻が逍遥していた頃のあの上海、パスポートなしでも気軽に渡れたというアナーキーで猥雑な魅力に満ちた『どくろ杯』の上海に想いを馳せたところでこの惨めな現状を打破できる訳でもない。腹をくくって融通の利かない、よく見るといとうあさこにソックリの出入境の役人を相手に気長に交渉しなければならないだろう。そう考えるだけで気が遠くなりそうだが、仕方がない。拙い中国語で、筆談を交えながら身振り手振りで頑張る他ない。グズグズしていると「上海の泥水が身に沁みこ」んで半生を棒に振ってしまうことにもなりかねない。という訳で、一刻も早くこの地獄を立ち去るべく、けたたましい鳴り物の音が辺り一面に響き渡る初夏の上海を西へ東へ、必要書類を求めてせわしなく走り回る長い戦いの幕が切って落とされた。
地獄とはそんなに恐ろしいものではない。賽の目の逆にばかり出た人間や他人の批難の矢面にばかり立つ羽目になったいじけ者、裏側ばかり歩いてきたもの、こころがふれあうごとに傷しか残らない人間にとっては、地獄とはそのまま、天国のことなのだ
金子光晴『どくろ杯』
(続く)
 

参考

 

上海 裏の歩き方

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どくろ杯 (中公文庫)

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リンク

 
 
 

*1:=約7700円。

*2:中国では基本的に落し物は戻って来ないと思った方がいい。

*3:通称「上野動物園」と言うらしい。

*4:地下鉄2号線の長江高架駅。

*5:上海の物価:ペットボトルのジュース1本=3.5元

*6:住所:上海市延安西路2299号。TEL:021-5257-4766。営業時間:平日 9:00〜17:00。最寄駅は地下鉄10号線の伊犁路駅4番出口から徒歩5分。三菱商事日本通運など、日系企業が数多くオフィスを構える上海世貿ビルの13Fにある。

*7:中国国内にある全ての宿泊施設は登記制度を介して公安=警察の管理下に置かれている。公安の場所についてはホテルのフロントに尋ねれば教えてくれる。

*8:正式名称:上海市公安局出入境管理局。住所:上海市浦東新区民生路1500号。TEL:03-地下鉄10号線の上海科技館駅か9号線の揚高中路駅3番出口から徒歩10分。3Fの3番窓口に申請書を提出。営業時間:

*9:いわゆる“仮パスポート”。日本に帰るためだけに使う片道切符のこと。事前に証明写真を2枚用意しておくこと。料金:140元。

*10:中国政府は外国人観光客に対して、入国から24時間以内に宿泊先を登記するよう義務付けている。違反した場合、500元以下の罰金を科されることもあるらしい。

*11:1F奥にある撮影室で証明写真を撮り、3Fの2番窓口に申請書を提出する。

*12:必要書類や注意事項など各フェイズの詳細については下記PDFを参照のこと。