学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

上海护证紛失記 第一話 「檻」

ゴールデンウィークを利用して上海に来ている。と言っても、このエントリーを書いている今日はもう2015年5月13日水曜日であり、こう言うと直ちに「ゴールデンウィークって言ったって、そんなものはとっくの昔に終わってるじゃないか。」というツッコミが返って来ることはわかっている。おっしゃる通りで、返す言葉もなく、連休はとうに終わっているにもかかわらず、僕はまだ上海にとどまっている。要するに、やるべき仕事を気のいい同僚に丸投げし、“東洋の魔都”上海の雑踏を寄る辺なくブラついている。先週末、不覚にもパスポート[护证]を紛失してしまい、上海の入管で思わぬ足止めをくっているのだ。
 
パスポートをなくしたことに気がついたのは、先週木曜日の午後2時半頃、上海市内からタクシーを飛ばして30分ほど進んだところにある上海野生動物園のサファリバスに搭乗して程なくのことだった。何やら胸騒ぎがして、カバンの中を確認すると、あるはずのものがそこにない。パスポートとホテルのルームキー、それに人民元400元*1が入ったパスポートケースごとなくなっている。最後にカバンを開けたのはその日の12:00頃、地下鉄9号線の打浦橋駅構内にあるケンタッキーフライドチキン[肯徳基]で昼食をとった時のことだった。おそらく店内に置き忘れてしまったのだろう*2。一刻も早く探しに戻りたいのだが、サファリバスはもう動き出している。言わば檻の中に閉じ込められてしまった状態だ。
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*上海野生動物園の餌やりつきのサファリバス。窓が状になっている。
 
取り乱した僕はすぐ様「降ろしてください!」と運転手に懇願したのだが、聞き入れてくれない。運転手の言い分はある意味もっともで、バスはすでに、ライオンやトラ、ワニやクマの如き猛獣たちが蠢く危険なエリアに差し掛かっていた。降りたところで飢えた猛獣たちに食われてしまうのがオチであり、パスポートをなくすことよりもっと酷いこと(=死)が待っている。
 
やむなくバスを降りることを諦めた僕はもと居た席に着き、サファリバスが園内をぐるりと一周してゴールに辿り着くまで歯噛みしながらジッと待つことにした。乗客たちは一連の醜態を見て、不審そうに僕を見つめている。恥ずかしい。今すぐここから逃げ出したいが逃げ出せない。
 
今にして思えば、『上海 裏の歩き方』などという胡散臭い本を読み、そこで目にした
 
  • 「ライオンに生きた鶏を与える餌やりバス」
  • 「ほとばしるクマの唾液、Tシャツに鶏の血痕が」
 
などと言う野蛮きわまりない殺し文句に惹かれて上海野生動物園*3までノコノコやってきた自分のバカさ加減が恨めしい。なぜ普通の『歩き方』ではなく、『裏の歩き方』なのか。どうしてアクセスのよい上海動物園で愛くるしいパンダを観るだけで満足しようとしなかったのか。完全に裏目であり、ここに来てからというもの、骰子を振っても逆の目ばかりが出てしまう。いい加減ウンザリだ。
 
狭い檻(=バス)の中に閉じ込められてこの上なく混乱していたせいか、中でのことはあまり覚えていない。何やら中国人観光客たちの甲高い歓声が車内のあちこちから聴こえていたような気がするがほとんど記憶がない。ライオンやトラが鶏の生き血をすするという餌やりの決定的瞬間はすべて見逃してしまい、僕の手許には餌を食べに車両に近づいてくるキリンを撮った写真がたった一枚残っているだけだ。
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*命の次に大切なものを代償にして得た唯一つの収穫がこの写真。はっきり言ってビミョーすぎる。
 
息を弾ませながらバスから駆け下りて動物園の入り口まで戻ると、最寄の地下鉄の駅*4まで急いでタクシーを走らせた。タクシー代として運転手から100元を要求されたが、予備の人民元400元をパスポートもろとも落としてしまったため、ポケットに入っている持ち金は全部で84元であり、どうやってもあと16元足りない。「財布をなくしてしまったのでこの80元で許してください」と事情を話して運賃の値引き交渉が成立。カッコ悪いが仕方がない。中川家(弟)によく似た運転手に泣いてもらうことで何とかタクシーを降りることができた。
 
だが、これで持ち金はもう4元しか残っていない。正確にはカバンの中に緊急事態用の日本円が4万円ほど入っているのだが、《パスポートがないので両替することができない》。つまり、使える持ち金はこの4元だけしかなく、日本円換算で77円ほどしか持っていないことになる。コカコーラ1本買えば一文無しになってしまう金額だ*5。この金で地下鉄に乗り、日本国領事館がある伊犁路駅まで何としてでも辿り着かなければならない。ところが伊犁路駅までの地下鉄の運賃は5元であり、あと1元足りないのだ。領事館は5時に閉まるがもう4時だ。タイムリミットが迫っている。5時を過ぎれば自分は一体どうなってしまうのか。ここに来る前に読んだロケットニュース24の記事が脳裏をよぎる。
 
 
こんなところでホームレスになるわけには行かない。やむ無く領事館に電話して、事情を説明し、領事館までタクシーで乗り付けてその場で領事に運賃を立て替えてもらうことで窮地をどうにか乗り切った。
 
上海世貿ビルの13Fにある在上海日本国総領事館*6の邦人救護班の方から今後の手続きについて一通りの説明を受け、最後に
 
「何かお困りのことはありませんか?」
「何でも言ってくださいね。」
 
と優しく聞かれたので、思わず消え入りそうな声で「何か食べ物を買いたいのですが、お金がもう残ってないんです…」などと泣き事を言うと、カンパンやサンマの缶詰など、非常食一式を支給してもらえた。これでこの異国の地で飢え死にせずに済む。《地獄に仏》とはまさにこのことを言うのだろう。ありがたくて涙が出るが、惨めだった。
 
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*上海の領事館でもらった非常食。この恩は一生忘れない。
 
 
                            ◆
 
 
さて、目下帰国の手続きでお世話になっている領事のTさんは、大事なものを喪って難民同然となり、暗く沈んでいる僕を奮い立たせるようにこう告げた。
 
「他の国ならいざ知らず、共産圏の国々、特に中国でパスポートをなくすのは非常に危険なことです。」
「この国でパスポートをなくした場合、帰国までにはふつう2週間〜4週間ぐらいかかります。」
「あとあと気持ちが折れないように今から厳しいことを言っておきますが、この国でパスポートをなくした場合、手続きは非常に煩雑、かつ厄介です。意味不明と言ってもいい。役人の私が言うのもアレですが、中国の役所の対応の酷さは日本とは比べものになりません。かなりのストレスになることは最初から覚悟しておいたほうがいいですよ。」
 
ー僕はいつ頃帰れるんでしょうか?
「私からは何とも言えないです。と言うのも、出国審査の裁量権はすべて中国側にありますからね。基本的に(日本の)領事館は口を挟めません。もっともあなたが日本人だということで、手続き上、当局から不当な差別を受けたというのなら、領事館としても断固戦いますが…。」
 
海外旅行に行くのは年に1・2回ぐらいで、どちらかというとよく行く方だとは思うが、パスポートを紛失したのは今回がはじめてだ。そんな僕でも、中国に限らず、一般的に言って、海外でパスポートをなくしたら非常に面倒なことになることぐらいは知っていた。だが、帰国までに2週間もかかるというのは初耳で、僕は頭が真っ白になり目の前が真っ暗になった。勤め先にどう説明すればいいものか…。
 
ー(帰国までに)そんなにかかるものなんですか?
「中国は特別なんですよ。他の国ならそこまでかかることはありません。例えば韓国でパスポートをなくしても2・3日で帰れます。(あなたは)なくした場所が悪かった…。」
 
パスポートは命の次に大切なもの、肌身離さず持ち歩いていなければならないもので、絶対に失ってはいけない。とりわけ中国では失ってはいけない。なくせばもちろん、その後のスケジュールは全て台無しになるし、家族や職場の同僚にも多大な迷惑がかかることになる。絶大な信用力を持つ日本のパスポートは、流れに流れて中南米のような犯罪が多発する地域で悪用されるリスクもあると言う。その失ってはいけないはずの大事なものを僕は失ってしまった。
 
 
                             ◆
 
日本からいちばん手軽に、パスポートもなしでゆけるところといえば、満州と上海だった。いずれ食いつめものの行く先であったとしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった。私の年長の前野孝雄のように、袴羽織で満蒙へ出かけて行った浪人たちは、しきりに日本の捨石になる覚悟を公言したが、上海組は行ったり来たりをくり返して、用あり気な顔をしながら、なにもせず半生を送る人間が多かった。上海の泥水が身に沁みこむと、日本へかえってきも窮屈で落付かないのだ。
金子光晴『どくろ杯』
戦前の上海、金子光晴が居た頃の“魔都”上海のように「手軽に、パスポートもなしで」とはいかないまでも、2015年現在、日本人はビザなしで中国に渡航することができるようになっている。だが、それはけっして当たり前のことではなく、先人たち、とりわけ外務省の方々の積年に渡る絶え間ない努力の賜物だ。僕が自らの不注意ゆえに引き起こした今回のようなトラブルが後を絶たないのなら、中国政府が対応を変えて、他国人と同じように日本人もまた、中国への渡航のためにビザが必要だった時代へ逆戻りしてしまうことにもなりかねない。直接ではないにせよ、パスポートの紛失は日中間の通商問題と絡み合っている。家族や友人、職場の同僚ばかりでなく、国にまで多大な迷惑をかけてしまっている自分が情けない。
 
 
                              ◆
 
 
 
参考までに中国でパスポートを紛失した場合に必要な手続きの概要を以下に記す。
 
  1. 滞在先のホテルを管轄する公安*7で事案発生証明[报案证明]を入手。
  2. 中国出入境*8でパスポート紛失証明[护证报失证明]を入手
  3. 日本国総領事館で紛失したパスポートを失効させる。
  4. 日本国総領事館で「帰国のための渡航書」*9を入手。
  5. 滞在先のホテルで「臨時宿泊登記書」を入手。*10
  6. 中国出入境で出国審査をパスし、ビザの発給を受ける*11
 
大雑把に言って、手続きは全部で6つのフェイズに分かれている*12。すべてを同時並行で進めることはできないし、1を飛ばして2に進んだり、4を飛ばして5に進むこともできない*13。一つ一つ順番にクリアして行かなければならない。
 
とは言え、日本の領事館での手続き(3と4)は原則その日のうちに終わるので特に問題はない。肝となるのは中国出入境での手続きで、フェイズ2は受付から起算して2営業日、フェイズ6は原則7営業日かかる*14と言われ、合わせて9営業日、土日も含めると全部で11日も待たされることになる。よく言われる《紛失から帰国まで2週間》と言うのは根も葉もない噂などでは全くない。そして何よりもキツイのが、以上の手続きを全て中国語で進めなければならないことである。僕の語学力はといえば、2・3年前に半年ほどJR上野駅そばにある中国語教室に通っただけで、その後復習は一切していない。要するに片言だ。
 
泣き言を言っても始まらないし、金子夫妻が逍遥していた頃のあの上海、パスポートなしでも気軽に渡れたというアナーキーで猥雑な魅力に満ちた『どくろ杯』の上海に想いを馳せたところでこの惨めな現状を打破できる訳でもない。腹をくくって融通の利かない、よく見るといとうあさこにソックリの出入境の役人を相手に気長に交渉しなければならないだろう。そう考えるだけで気が遠くなりそうだが、仕方がない。拙い中国語で、筆談を交えながら身振り手振りで頑張る他ない。グズグズしていると「上海の泥水が身に沁みこ」んで半生を棒に振ってしまうことにもなりかねない。という訳で、一刻も早くこの地獄を立ち去るべく、けたたましい鳴り物の音が辺り一面に響き渡る初夏の上海を西へ東へ、必要書類を求めてせわしなく走り回る長い戦いの幕が切って落とされた。
地獄とはそんなに恐ろしいものではない。賽の目の逆にばかり出た人間や他人の批難の矢面にばかり立つ羽目になったいじけ者、裏側ばかり歩いてきたもの、こころがふれあうごとに傷しか残らない人間にとっては、地獄とはそのまま、天国のことなのだ
金子光晴『どくろ杯』
(続く)
 

参考

 

上海 裏の歩き方

上海 裏の歩き方

 

 

どくろ杯 (中公文庫)

どくろ杯 (中公文庫)

 

 

 関連記事

rodori.hatenablog.com

リンク

 
 
 

*1:=約7700円。

*2:中国では基本的に落し物は戻って来ないと思った方がいい。

*3:通称「上野動物園」と言うらしい。

*4:地下鉄2号線の長江高架駅。

*5:上海の物価:ペットボトルのジュース1本=3.5元

*6:住所:上海市延安西路2299号。TEL:021-5257-4766。営業時間:平日 9:00〜17:00。最寄駅は地下鉄10号線の伊犁路駅4番出口から徒歩5分。三菱商事日本通運など、日系企業が数多くオフィスを構える上海世貿ビルの13Fにある。

*7:中国国内にある全ての宿泊施設は登記制度を介して公安=警察の管理下に置かれている。公安の場所についてはホテルのフロントに尋ねれば教えてくれる。

*8:正式名称:上海市公安局出入境管理局。住所:上海市浦東新区民生路1500号。TEL:03-地下鉄10号線の上海科技館駅か9号線の揚高中路駅3番出口から徒歩10分。3Fの3番窓口に申請書を提出。営業時間:

*9:いわゆる“仮パスポート”。日本に帰るためだけに使う片道切符のこと。事前に証明写真を2枚用意しておくこと。料金:140元。

*10:中国政府は外国人観光客に対して、入国から24時間以内に宿泊先を登記するよう義務付けている。違反した場合、500元以下の罰金を科されることもあるらしい。

*11:1F奥にある撮影室で証明写真を撮り、3Fの2番窓口に申請書を提出する。

*12:必要書類や注意事項など各フェイズの詳細については下記PDFを参照のこと。