学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

午前三時の思想/ドゥルーズ『消尽したもの』を出発点に。

立っているよりは座っている方が、座っているよりは寝転んでいる方がくつろげるし気分がいい。去年の10月、ジャック・デリダとロラン・バルトを比較しながら姿勢について書いた時

 
に加えて、
 
  • 横になること、寝転ぶこと
 
という第三の姿勢があるのでは…という疑念がフッと頭を掠めた。ただその時はもう夜中の二時三時だったので、それ以上展開はできずに力尽きて寝てしまったのだが、今にして思うと、やはり姿勢については夜を徹してとことんまで踏査する余地が残っていたように思う。僕がそういう感想を持つに至ったのは、サミュエル・ベケットのテレビ作品について書かれたドゥルーズの小論『消尽されたもの』を読んだことがきっかけだった。
 
                  ◆
 
あの時の自分と同様、ドゥルーズもまた、「立っているよりは座っている方が、座っているよりは」横たわって「寝転んでいる方が」気分がいいというテーゼから出発する。けれども、彼にとって「横たわることは決して終わりや殺し文句ではなく、終わりの直前であり」、横たわる者には、起き上がったり、寝返りを打ったり、あるいは這いまわったりする可能性がまだ残っている以上、一切を終わらせることができずに、十分な休息をとって回復し、のうのうと生き延びてしまう可能性がなお残っている。つまり、横たわる姿勢、寝転ぶ姿勢は、消尽する者(=もう手遅れの者)よりもむしろ、疲労する者(=まだリカバリー可能な者)にこそふさわしい。
 
では一体、ありとあらゆる可能性と訣別した消尽する者にふさわしいのはどういう姿勢なのか?それはベケットが『夜と夢』の中で描き出す姿勢であり、「学習机に座ったまま、うなだれた頭は手の中にやすらい、両手はテーブルの上、頭は手に支えられてテーブルとすれすれの高さにある」ような姿勢である。
 
これは座ったまま、起き上がることも横になることもできず死をを待つのみというもっとも恐るべき姿勢である。
おそらくベケットにおいて横たわった作品と座った作品(これだけが最終的なものだ)を区別しなければならない。座った状態の消尽と、横たわり、這いつくばり、あるいは釘付けになった状態の疲労との間には本性上の違いがある。
ドゥルーズ『消尽したもの』

 横たわる者には、四肢を動かし、這い回って逃げ惑い、体勢を立て直して反撃できるチャンスがまだ残っている。佐藤十兵衛のように。だが、『夜の夢』の登場人物は、横になることもできず、夜が来てもテーブルの前に腰掛けたまま、萎えた頭は囚われた両手の上に置かれている。

夜テーブルの前に腰掛け、頭は両手の上…死んだ手を見るため、死んだ頭をあげた…

 閉じた暗い所で板切れの上にはただ頭蓋骨が置いてあるだけ…

 両手と頭は一つの小さな塊になり…

ベケット『夜と夢』 

 こうなってしまえばもはや《為す術なし》であり、座ったままそこから立ち上がることはもうないだろう。疲れ果てて前のめりに倒れ込んだ者は、単にモハヤ何モ実現スル事ガ出来ナイだけに過ぎない。ところが、消尽した者は、モハヤ何一ツ可能ニスル事サエ出来ナイのだ。『夜と夢』に登場する呪われた人物は、あらゆる疲労の彼方で「さらに終わるために」一切の可能事に向かって絶縁を宣告する。

 
                                        ◆
 
『夜の夢』において、登場人物は、縮こまった両手に虚ろな頭を置きカッと目を見開いてただ座っている。そして夜。彼は夢を見るのだが、その夢は眠っている時に見る夢ではなく、かといって真昼のまどろみの中で見る白昼夢というわけでもなく、夜の闇の中で目をカッと見開いたままで見る不眠症者の夢である。
人はしばしば、白昼夢や覚めたまま見る夢と、睡眠中の夢とを区別することだけで満足する。しかしそれは疲労と休息の問題にすぎない。こうして人は第三のおそらくもっとも重要な状態をとらえ損なうのだ。それは〔…〕不眠の夢(それは消尽にかかわる)である。消尽したもの、それは目を見開くものである。われわれは眠りながら夢を見ていたが、いまや不眠のかたわらで夢を見る
ドゥルーズ『消尽したもの』

 人は疲れるものであり、だからこそ眠ることができる。逆に言えば、疲れを知らない消尽した者は眠ることができない。もしそうだとすれば、疲労と消尽とが「本性上」異なるものである以上、疲労の果てに眠りの中で見る夢と、消尽した者が不眠のかたわらで見る夢の「本性上の違い」を見届けた上でなければ、このエントリーを真の意味で「終わらせる」ことはできないことになるだろう。

 
不眠の夢ー「この夢は、作り出さなければならない。」不眠症者の夢は、欲望の深みでひとりでに生まれる睡眠中の夢の如きものではない。不眠の夢は、イメージのように何もないところから新しく作り出され、制作されなければならない。ところが夢=イメージを作り出すのはそう簡単にはいかない。何かや誰かを単に思い浮かべるだけではまだ十分ではない。ドゥルーズの考えでは、夢=イメージを作り出すには、横にならずに目をカッと見開き、座ったままで寝ずの番をする「暗い精神」のある種の「緊張」状態、すなわち『夜と夢』の登場人物が強いられているような不眠状態の強度[intensio]が必要不可欠となる。ドゥルーズにとって不眠とはある特異な目覚め(=覚醒)がもたらす徹夜の警戒態勢*1のことであり、疲れを知らぬ精神の緊張、一時も注意を怠らぬ寝ずの番の緊張状態のことなのだ。
 
そして、十中八九は失敗するほどに困難な夢=イメージの制作作業にみごと成功した暁には、これ以上ないほどの至高のイメージが脳=スクリーンの中へと侵入することになるだろう。だが、それは輪郭の定かではない人の顔や物の姿であり、噴射するや否や微かな残り香だけを残して霧散する香水の匂いのように、「たった一息で」たちまち消え失せる束の間のものでしかない。おそらく、
イメージは、それ自身の消滅や散逸の過程と不可分なのだ。その過程が時期尚早にせよ、そうでないにせよ。イメージとは一つの呼吸、息吹であるが、それは消滅の途上で吐き出されるものだ。イメージは消えるもの、己れを使い果たすもの、すなわち失墜である。それはその高さ、すなわち零以上のその水準によってそれ自体定義されるような純粋な強度であり、強度は、ただ落下することによってその水準を描くのだ
ドゥルーズ『消尽したもの』

 イメージとは消えゆくもの、消尽するもの、「すなわち失墜である」。あるいはただ落下することによってのみその強度を測定しうるような『崩壊』と言い換えてもいい。《人生とは崩壊の過程である》という書き出しで始まるスコット・フィッツジェラルドのエッセイほど不眠症者の生み出すイメージ=夢についてのドゥルーズの考えを要約しているものは他にない。

 
                   ◆
 
事実、ドゥルーズが最もリスペクトした小説家の一人でもあるフィッツジェラルドは、齢27歳にして不眠症を患い、後年『眠っては覚め』という見事なエッセイを残している。
もしも不眠症が属性の一つになるとするならば、それは三十代の後半に現れ始める。あの七時間という貴重な睡眠時間は、突然二つに分裂する。幸運な人であれば夜になって最初に訪れる甘美な眠りと朝方の最後の深い眠りとがあるわけだが、この二つの中間に、不吉な絶えず拡がってゆく間隙が生まれる。
フィッツジェラルド眠っては覚め
甘美な夜と朝方の薄明かりの間に拡がるこの不吉な間隙こそが、他でもない、不眠症患者フィッツジェラルドに固有の活動時間である。
ぼくはたいてい寝酒を飲んでベッドに入るー同時にやる仕事として、かなり堅苦しい読書をいくらかやる。そういう主題の、比較的薄い本を選び、最後の葉巻を吸いながらうとうとするまで読み続ける。いよいよあくびが出始めたところで、しおりを挟んで本を閉じ、煙草を暖炉に捨て、電気のボタンを押す。最初は左を下にして横になる。そうすると心臓の鼓動が落ち着くと聞いたことがあるからだ。すぐに昏睡
フィッツジェラルド『眠っては覚め』
真夜中から二時半まで。そこまでは何事もなく万事快調に進む。ところが、時計の針が午前三時を指すや否や、「本物の夜、最も暗い時間が始ま」るのだ。
 
突然、病患とか体の変調、異常に鮮やかな夢、暑さや寒さの気候の変化などのために目が覚めてしまう。もちろん睡眠の継続が間違いなく保たれるという空しい希望をもって手早く対策がなされるのだが、その全ては徒労に終わる。明かりをつけ、睡眠薬を一錠飲み、彼は再び本を開くことになる。そして、
起きて散歩をする。寝室から廊下を通って書斎へ行き、また寝室に戻る。もし夏であれば裏のヴェランダへ出る。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』
そうこうしているうちに、睡眠薬がかすかに効き始めるので、ベッドに入り体を丸めて横になり眠ろうとする。挫折の夢、戦争の夢…etc。フィッツジェラルドは、眠りを誘おうとして、さまざまな夢=イメージを作り出すことを試みる。
戦争の夢。日本人が至る所で勝利を収めーぼくの師団は支部五裂し、ぼくは隅々まで知り尽くした土地であるミネソタ州の片隅で守勢にまわっている。そのころ会議を開いていた司令部員と大体指揮官たちは、一発の砲弾によって殺された。フィッツジェラルド大尉が指揮をとることになる。堂々たる威厳をもって…。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 ーしかし、それまでのこと。この夢もまた何年もの使用で薄くすり減ってしまったせいで何の効果もない。不眠症者は眠りを誘発するあらゆる可能性を尽くした後、結局また

裏のヴェランダに戻り、精神の激しい疲労と神経の異常な緊張のせいでー震えるヴァイオリンを奏でる毛の切れた弓のようにー屋根の上に、夜いっぱいのタクシーの甲高い警笛の音や家路を辿る放蕩者の歌声の中に本物の恐怖が広がってゆくのが分かる。恐怖と浪費とー
 
浪費と恐怖ーぼくがそうだったかもしれないし、したかもしれないもの、つまり失われ、使い果たされ、過去のものになり、霧の晴れるように跡形もなくなって、二度と捕らえられないもの。たとえばこんなことを自制し、臆病だったのを大胆に、無分別なのを慎重に、そういうふうに行動することだって出来たはずだ。
 
ぼくはあんなふうに彼女を傷つけなくてもよかった。
ぼくは彼にこんなことを言わなくてもよかった。
壊れないものを壊そうとして、自分自身を壊さなくともよかった。
恐怖は嵐のように襲いかかったー今夜が死後に訪れる夜の前兆だとすればどうだー以来ずっと奈落にのぞむ断崖で震え続けるとすれば、自己の中にある下劣で邪悪なものが人を前進させ、世間の下劣と邪悪が目の前にあるとすればどうだ。取捨選択はない、道はない、希望はないー薄汚ない、悲劇じみたものの反復があるばかりだ。さもなければ、通過することも後退することもできずに永遠に境界線に立ち尽くすことだろう。
 
時計が四時を打つころには、ぼくは一個の幽霊になっている。
ベッドの傍らで、ぼくは両手に頭を埋める。やがて静寂ーそして静寂ーそして突然ーあるいは後になって思い出すとそうなのかもしれない。ー突然ぼくは眠っている

 眠りー本当の眠り、いとしきもの、秘められたもの、子守歌。ぼくを包み、平和や無の中に導いてくれるベッドと枕とは、とても深く暖かいーやがて暗黒の時間に浄化されたあとに、ぼくのが訪れる。

フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 《人生とは崩壊の過程であ》り、空高く舞い上がり、落下することによってのみその高さが測られるような強度である。

生は、つまり、そんなものだった。忘却の瞬間に、生は高く舞い上がり、突然、枕の中に深く落ちて、落ちてゆく
逆らい難い力で訪れ、虹のように輝く-オーロラだ-新しい夜明けだ。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 

                   ◆

 
一見すると何一つ共通項がないように見えるサミュエル・ベケットスコット・フィッツジェラルドだが、実は両者は不眠の一語によって分かち難く結ばれていたのである。
 
ヘミングウェイの『身を横たえて』に抗して書かれたフィッツジェラルドの『眠っては覚め』は、ベケットの『夜と夢』の卓越した解説としても読むことができる。フィッツジェラルドにとって不眠とは、体を丸めて横になりながらも、なおも緊張を解かない身体、すみずみまで張りつめ、じっと瞳を凝らすことであり、危険を覚悟しながらも、日の出と共にようやく与えられる眠りに胸を踊らせることに他ならない。それは、夜を徹する見張りの緊張状態であり、ドゥルーズフィッツジェラルドの小説に心惹かれた理由は、おそらくこの辺りにあるのだろう。
 
                   ◆
 
サミュエル・ベケットスコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイフランツ・カフカ、コンスタン・ギース、ジル・ドゥルーズエマニュエル・レヴィナスモーリス・ブランショにロジェ・ラポルト…西欧において不眠を患う午前三時の思想家は枚挙に暇がない*2。世界全体が眠りにつく午前三時に彼らだけは仕事を始め、一切を変貌させてしまう。彼らにとって、〈夜を徹して有る〉とは、夜更けを過ぎてからの有り様というよりはむしろ、朝になる以前の有り様、ありとあらゆる日の出に先立つ「幽霊」の再来であり、彼らが描き出す「夕暮れの国=西洋は、プラトン的-キリスト教的な西洋よりも、さらには、ヨーロッパという名で考えられる西洋よりも古い、すなわち、より早期のものであり」*3、より初めにあるような「先立ち」を意味している。そして、ここまで来れば、『夜明けの光を見張って』におけるフーコーの予告を否が応でも引かずにはいられない。
われわれの文化において、「眠らずにいること」、見開かれたまま夜を開き、かつ祓い除ける目が担う栄光の意味を、睡眠を睡眠たらしめ、夢を妄想であると同時に運命の呟きたらしめ、光の中に真実をきらめかせる注意深い忍耐力が帯びる権勢の意味を、いつかは問わなければならいだろう朝の覚醒のうちに、そして夜他者が眠る中で明晰さを保つ徹夜状態のうちに、西洋はおそらく自らの根本的限界の一つを描き出してきた。
フーコー夜明けの光を見張って』1963年
その18年後、『全体的なものと個別的なもの』において、おそらくは午前三時の神秘思想に取り憑かれたドゥルーズの個体化論に照準を合わせながら、フーコーは予告通り次のように語ることになる。
寝ずの番のテーマは重要です。このテーマは、牧人の献身なるものが持つ二つの側面を見せてくれます。第一に、牧人は、十分に食べ物を与えられたあと眠りこんでいる羊たちのために行動し、働き、そして献身します。第二に、牧人は、羊たちの様子を見守ります。群れの羊の一頭たりとも見失うことなく全ての羊に注意を注ぎます。かれは、群れをその全体において、また細部において知ることを求められているのです。
牧人的権力とは、群れのそれぞれの構成員に対する個別的な配慮を前提としている訳です。 
われわれの社会だけが、莫大な数の人々の群れを一握りの牧人が相手にするという不思議な、権力のテクノロジーを発展させてきたのです
フーコー『全体的なものと個別的なもの』1981年  
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 眠れない夜のためのブックリスト

消尽したもの

消尽したもの

 

 ドゥルーズの手によるベケット論『消尽したもの』(1992年)の他、『夜と夢』など、ベケットのテレビ作品の台本が四本収録されています。

 僕の大好きな『眠っては覚め』、『意味の論理学』でドゥルーズが論じた『崩壊』、村上春樹が「A+の傑作」と評する短編『バビロン再訪』を読むことができます。不眠との関連では、『崩壊』三部作の一つ『取り扱い注意』がオススメです。

 フーコーの初期の文芸評論を集めた本です。ブランショの弟子ロジェ・ラポルト著『夜を徹して』(1963年)の書評『夜明けの光を見張って』(1963年)が収録されています。タイトルの『夜を徹して』の一語が喚起する「徹夜」「夜警」「見張り」「不眠」「覚醒」などの諸テーマは、言うまでもなく、『監視と処罰』における一望監視装置の分析や、晩年の牧人司牧型権力の分析へと接続することができるでしょう。

 本文の最後で引用した『全体的なものと個別的なもの』(1981年)が収録されたフーコー晩年の論文をまとめた本です。

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

 

  《存在と不眠》について考え続けたユダヤ系哲学者の小論です。

寝ずの番 (講談社文庫)

寝ずの番 (講談社文庫)

 

 著者は不眠症ではありませんが、過眠症を患っていたと言われています。本書にかぎらず『今夜、すべてのバー』でなどの作品においても、眠りについての興味深い記述を発見することができます。

過去記事 

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*1:警戒[vigilance]は「眠らずにいること」「眠らずに警戒し続けること」を意味するラテン語vigilantiaを語源とする。

*2:パスカル『パンセ』

「イエスは世の終わりに至るまで苦悶するだろう。その間、われわれは眠ってはならない。」

*3:「早く逝きし者が下降して到達するくにが、夕べのくにである。トゥラークルの詩を凝集させている場所の、場所としての性質は、隔絶した寂寥の地の隠れた本質なのであり、「夕べのくに」[Abendland]〔すなわち、西の国、西欧〕と呼ばれる。この夕べのくには、プラトン的-キリスト教的なくに、さらには、ヨーロッパという名で考えられるくによりも古い、すなわち、より早期のものであり、従って一層有望なくにである。というのは、隔絶した寂寥の境とは、高まりつつある世界年[Welt-Jahr]の「原初」であって、頽落の果ての深淵ではないからである。」

ハイデガー『詩における言葉』(1952年)