学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

上海护证紛失記 第二話 「打飛機」

「そうだ、今日は奥さんもいないことだしセックスの話をしましょう。私の知る限り、日本のセックス産業は大きく言って三つに分かれます。」 

 
 2015年5月14日木曜日。約一年半ぶりに再会した中国の朋友は、蘇州から上海のホテルへと戻る車の中で僕に向かって唐突にこう切り出した。彼の名はチェンさん(仮名)。数年前に四川省の観光地を巡る現地ツアーで知り合って以来、これまでずっと夫婦ぐるみでお付き合いさせていただいてきた。しかしながら、男同士の友情を真の意味で深めるには古今東西エロ話だと相場は決まっている。小うるさい妻たちのいないこの絶好の機会に日中の猥談でチェンさんとの旧交を温めよう。突然の話題転換に戸惑いつつもそんな風に思い直し、僕はチェンさんの自説開陳にジッと耳を傾けた。
 
「一つ目は口でスル、もう一つは膣でスル、そして最後に、胸でシテクレル店が日本にはたくさんあると…。」
 
「口でスル」とはピンサロのことを言ってるのだろう。「膣でスル」とはソープのことを言ってるのだろう。だが、「胸でシテクレル」巨乳専門のお店は歌舞伎町でさえそれ程多くはないし、少なくともピンサロやソープのように一つのジャンルとして確立されたとは言い難い。したがって、膣/口/胸の三分法で日本の風俗を語るのはさすがに無理がある。そう思った僕はチェンさんの言葉を丁重に遮り若干の修正を施した。
 
「せっかくの熱弁を遮るようで恐縮ですが、チェンさん、あなたは日本のAVの観すぎです。胸でスルことを日本語でパイズリ[波推]と言いますが、パイズリには最低でもDカップは必要だと言われてます。ところが、日本人女性のおっぱいの平均サイズはたしか限りなくBに近いCカップ。つまり、胸でスルことができる女性は多くはない。そういう店は日本でもレアなんです。僕の奥さんを思い出してください、誰もが蒼井そらみたいな巨乳の持ち主ではないんですよ、残念ながら…。」
「キョニュウ…胸の大きな女性のことを日本語でキョニュウと言うのですか?」
「そうです。そして、キョニュウ族は日本でもそう多くはない…。」
「中国の男はみんな日本のAVを観て育ちます。想像してたのと違う。なぜ…。」
 
 そう呟いた彼の語調は鈍かった。先の僕の発言はひょっとすると、海を隔てた異国の地にいながら日本産のAVを観て“キョニュウの国ジパング"に思いを馳せてきたチェンさんのような中国人にとって、聞き捨てならない言葉だったのかもしれない。だが僕は彼の「なぜ」をスルーしてなかば独り言のように畳み掛けた。
 
「口でスル店をピンサロと言い、膣でスル店をソープと言います。ただ、それに続く第三の勢力は"胸でスル店"ではありません。実は東京では手でスル店が最近増えていて、そのようなプレイのことを日本語で手コキと言うんです。そして、その重要な一角を日本に住む中国の方々が担っています。」 
「テコキ?ヒコーキと発音が似てますね。実は中国語でも手でスルことを飛行機と言うんですよ。中国と同じだ。実に不思議ですね(笑)。」
 
 彼によると「手コキ」は中国語で打飛機[ダーフェイジー]と言い、上海を訪れた日系企業のエロオヤジが真っ先に覚えるエロ単語の一つらしい。
 
「すると上海にも手コキがあるわけですか?」
「ありますよ。相場は200から300元ぐらいで…。」
 
 珍しくもなんともないという口調で彼は上海の手コキ事情について語り出した。上海在住の朝鮮族であるチェンさんは若くして中国語・韓国語・日本語・英語の4ヶ国語を自在に操る語学の天才。話はその後、日中韓のライト風俗の比較エロ社会学的考察に移行した後さらに脱線し、中韓のカラオケと日本のカラオケが単に言葉が同じだけで似て非なるものであること、上海の裏路地で時折見かけるピンク色に輝くあの怪しげな床屋の正体など、妻たちの手前それまでは話題にできなかった様々な事柄について時間を忘れて熱く語り合った。そして僕はついに、これまでずっと気になっていた上海のファミマ[全家]にまつわる或る謎についてチェンさんに尋ねることができたのだった。
 
「そう言えば、ずっと疑問に思っていたのですが、上海のコンビニ[便利店]の店頭にはなぜバイブレーターが平然と置いてあるんですか?日本だとせいぜいコンドームが薬局に置いてあるぐらいで、バイブみたいな夜の営みの道具がああいう健全な店に無造作に置かれていることはまずないのでビックリしたのですが…。」
「えっ?日本のコンビニでは売ってないんですか?不便ですね。バイブがコンビニで売ってる理由ですか?それはもちろん、便利だからです。」
 
 師曰く、中国のコンビニのレジ横にバイブが並んでいる理由は「便利だから」ー何というドライさ!ジェレミー・ベンサムも真っ青の無味無臭の功利主義がこの国にはある。おそらく中国人にとってセックスとは何かスポーツのようなもので、日本人がセックスに対して抱いているような暗く隠微なニュアンスを含むようなものではないのかもしれない。と、そんな事をぼんやりと考えながら車を降り、次の再会を約束してチェンさんに別れを告げた。
 

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 *1
 
                   ◆
 
 
 妻を喪い、パスポート[护证]を喪い、財産のほとんどを失い、そして事と次第によっては仕事さえ失う可能性まで出てきた僕にとって、チェンさんとの一泊二日の蘇州旅行*2はかけがえのない想い出と相成った。この数ヶ月で失ったものは数知れず、損失はもはや莫大だ。明日はいよいよ一連の仮パスポート発行手続きの最後の詰めの日で、失敗は絶対に許されない。《失ウコトカラ全テハ始マル。正気ニテハ大業ナラズ。武士道ハ死狂イナリ。》そう自分に言い聞かせながら奥古徳*3を口の中に目一杯そそぎ込んだ。
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仮パスポート発行手続ToDoリスト
  1. 滞在先のホテルを管轄する公安で事案発生証明[报案证明]を入手。←達成!
  2. 中国出入境でパスポート紛失証明[护证报失证明]を入手。     ←達成!
  3. 日本国総領事館で紛失したパスポートを失効させる。        ←今ココ
  4. 日本国総領事館で「帰国のための渡航書」を入手。
  5. 滞在先のホテルで「臨時宿泊登記書」を入手。
  6. 中国出入境で出国審査をパスし、ビザの発給を受ける。
 
(続く)
 
過去記事
参考リンク 

ameblo.jp

参考文献 
上海 裏の歩き方

上海 裏の歩き方

 

 

漂白される社会

漂白される社会

 
 注

*1:上海市内のコンビニの店頭に陳列されたバイブレーター。ローションやコンドームと一緒に置かれている。写真は上海市内で最大のシェアを誇るファミリーマート[全家]の店内で撮影した。

*2:

 

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蘇州市盘门景区。『三国志演技』でお馴染みの呉の孫権がお母さんのために建てたお寺らしい。城門の上に登って庭園全体を一望できるようにもなっているので、三国志ファンにはオススメかも。僕が訪れた時は残念ながら修繕中だった。

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蘇州近郊の湖で食べた川の幸。あっさりとした優しい味付けでぜんぜん中華料理っぽくないが、美味しい。

*3:ちょっと高めの青島ビールの銘柄。

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