真理と霊性/ミシェル・フーコー『主体の解釈学』1982年1月6日の講義のメモ
ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82)
- 作者: ミシェル・フーコー,廣瀬浩司,原和之,Michel Foucault
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/01/20
- メディア: 単行本
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『主体の解釈学』 1982年1月6日の講義
『主体の解釈学』は、ミシェル・フーコーが1982年に行ったコレージュドフランスでの講義録です。近代以前の人々にとって真理は主体に幸福をもたらすはずのものでした。ところが、近代以後、真理はそのままでは人間を幸福にすることができなくなってしまいます。どうしてこのような変化が生じたのでしょうか?この講義の第一講においてフーコーは霊性[spiritualite]をキーワードに真理を求める主体のあり方の歴史的変遷を記述しています。
前近代的な主体が真理に到達する条件
近代以前の人々にとって、主体は、そのままでは真理に到達する権利も能力もないものとみなされていました。確かに主体は生まれながらに物事を認識する能力を持っています。ところが、真理に到達するには認識だけでは十分ではないというのが当時の人々の常識でした。真理に到達するために主体がなすべき事、それは、自らを修正し、変形を加え、当初の自分とは別のものに変身することです。主体が真理に到達するために自らに加えるこうした諸々の変形作業の総体がフーコーの言う霊性[スピリチュリテ]です。
主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性[スピリチュアリテ]」と呼ぶことができるように思われます。
禁欲・魂の浄化・自己の放棄・まなざしの転換・経験の修正など、霊性[spiritualite]には多様な形態があり、主体はこうした霊的諸実践を通じて自分を変形することにより、はじめて真理に到達することができるのです。霊性とは言わば真理に到達する際に主体が支払わなければならないコストのようなものでした。そして、自己を変容させることに成功し、真理に到達することができた主体は、それまでに支払った対価と引き換えにさまざまな恩恵に預かることができました。自らを変形する労苦と引き換えに真理に達した主体が得ることができるこうした恩恵のことをフーコーは「真理の反作用」と呼んでいます。
真理とは主体に天啓を与えるものです。それは主体に至福を与えるものです。それは魂の平穏を与えるものなのです。
近代以降の主体が真理に到達する条件
かつて、真理に到達した時に主体が得ることできる諸効果、すなわち「真理の反作用」は、それに到達するために主体が支払った費用をはるかに上回るものでした。真理には、主体を幸福にし、救うことができる力がありました。ところが、やがて時が経ち、近代に入るとともに、真理と主体の関係もまたそれ以前とは異なるものに変容してしまいます。人々は今や「真理に到達することを可能にするのは認識であり、ただ認識だけである」と考えるようになります。主体は、他には何も要求されることなく、自らの存在を修正したり変容させたりする必要もなく、ただ自らの認識のみによって真理に到達することができると考えられるようになりました。
あの霊感の地点、あの完成の地点、主体が自らについて認識した真理の反作用によって変容するあの瞬間、主体の存在を変形させ、横断し、変容させるあの瞬間、こうしたすべてはもはや存在しえなくなりました。
近代以降の人々にとって、認識は、ただひたすらけっして完成することも終わることもない「進歩」の次元へと開かれました。近代の主体はもはやそれ以前のように霊性という費用を支払い、その見返りとして「真理の反作用」がもたらす啓示や魂の平穏といった至福を得ることもなくなります。人々が真理を認識することによって得る利益とは、せいぜい真理を見出すためにさんざん苦労したあげく、ようやく幾分なりともそれを見つけた際に生ずる取るに足らない心理的・社会的な利益にすぎなくなってしまいます。「真理は近代以降、そのままでは主体を救うことができなくなった。」ことが指摘され、第一講は締めくくられます。