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学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

悪の凡庸さについて/映画『ハンナ・アーレント』を観る

政治 映画 哲学
ハンナ・アーレント』という映画を神保町の岩波ホールで観た。平日の昼間なのでどうせそんなに客は入っていないだろうとタカをくくっていたら、思いのほか劇場は中高年のカップルで満席。上映前にチケットが売り切れてしまうほどの反響だった。
 
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イェルサレムのアイヒマン

映画は、ユダヤ系哲学者のハンナ・アーレントが著した『イェルサレムのアイヒマン』というレポートを巡る騒動の一部始終を描いている。物語は、1960年、中南米に逃れていた元ナチス党員アドルフ・アイヒマンをイスラエル当局が捕縛するシーンから始まる。彼は、ナチス政権下のドイツにおいてホロコーストの指導的役割を果たした人物として指名手配中だったのだ。アイヒマンは、イスラエルの首都エルサレムに移送され収監される。アーレントは、アイヒマンの裁判を傍聴するため、エルサレムに向かう。
 
アイヒマンはエルサレムにおいて現地のユダヤ人たちから「野獣」と呼ばれていた。「檻」に入れられているのは600万人もの同胞を殺戮した「野獣」である。アーレントも少なからずそう思っていたー実際にアイヒマンを見るまでは。しかし、彼女が法廷で見たアイヒマンは、彼女が想っていたものとまったく違っていた。アイヒマンは、「野獣」ではなく、平凡などこにでもいる「普通の人」だったのだ。
 
法廷において、アイヒマンは弁明する。自分はただ単に、総統の、上からの命令に従っていただけで、担当する案件を事務的に処理していただけだ。強制収容所で起こったことについて、自分はいかなる積極的な関与もしていない。自分は直接手を下していないのだから、罪の意識もない。ただひたすら上からの命令に従っていただけなのだ。要するに、彼は単なる役人にすぎないのだ。
 
その上、アイヒマンには反ユダヤ的な感情もない。自分は当時、命令に対する義務感と良心の両極を揺れ動いていたのだと、彼は言う。上に逆らっても仕方がない。上からの命令に反抗したところでどうせうまく行くはずもない。アイヒマンにはそういうシニカルな世界観が「叩き込まれていた」。総統の命令に反抗することを可能にするような「市民の勇気」などというものは、当時のナチス親衛隊の「ヒエラルキー」には存在しなかったのだ、と彼は言う。
 

悪の凡庸さについて

アーレントはアイヒマンの裁判を傍聴しながら強制収容所の事態を次のように診断した。当時、アイヒマンの「思考」は停止していた。彼は「思考不能」に陥っていた。強制収容所の悪の実行犯であるはずのアイヒマンの悪には深さがない。アイヒマンが為した深さを欠いた悪を、アーレントは「悪の凡庸さ」と名づける。
 
エルサレムでの傍聴を題材にアーレントは『イェルサレムのアイヒマン』の執筆に取り掛かる。テーマは「悪の凡庸さ」である。『イェルサレムのアイヒマン』は報告する。アイヒマンは、異常者でもなければ、「野獣」でもなく、平凡などこにでもいる「普通の人」である。したがって、悪の原因をアイヒマン個人に求めることはできない。古来、西欧では、悪とは利己心によるものだと思われてきた。ところが、20世紀において、600万人ものユダヤ人を殺戮した強制収容所の悪とは、特定の個人の利己心がもたらしたものではまったくなかった。強制収容所の悪とはそのようなものではなくて、人間を無用の存在にしてしまうような悪である。強制収容所という機構において、アイヒマンは、善悪の判断をなすことができる「人間」というよりもむしろ、上からの命令を粛々と事務的に処理する機械のような存在である。そのような機械に転化していたアイヒマン個人の責任を問うことは、責任の所在を特定の個人に帰属させてスッキリすることしかもたらさず、そのような解決は、強制収容所の悪の意味を哲学的に思考するアレントにとってはほとんど意味をなさない。彼女は言う。強制収容所とは「無意味が生まれる所」である、と。
 
アーレントによれば、「思考」とは、人間に善と悪の分別、つまり、モラルをもたらすはずのものである。ところが、全体主義は人間を「思考不能」に陥らせてしまった。
 

ハイデガーナチス入党

しかし、なぜアーレントは、強制収容所の悪の原因を、人間の「思考不能」に求めたのか?キーになるのはおそらく、物語に断片的に挿入されるハイデガーについての回想シーンである。映画の中でハイデガーは、(明らかに不穏なBGMと共に)「思考」についての哲学的思索を展開する。物語の中でハイデガーは、アーレントを本当の「思考」へと導いてくれた師として描かれている。ところが、彼女が考える全体主義の真の恐ろしさとは、自分に真の「思考」を教えてくれたハイデガーその人の「思考」さえも、「不能」に陥らせてしまった点にある。周知のように、ハイデガーは、1933年の総長就任講演『ドイツ大学の自己主張』を境に、ナチスに入党し、反ユダヤ主義にも加担していた。師であり恋人でもあったハイデガーの愚かな振る舞いにアーレントは動揺を隠せない。あのハイデガーの「思考」さえも不能にしてしまう全体主義の本質とはいったい何なのか?そこにこそ強制収容所の悪の秘密があると彼女は重く受け止める。全体主義が持つ思考停止機能こそが、ホロコーストの悲劇をもたらしたのだ。
 

ユダヤ人指導者たちによるホロコーストへの協力

エルサレムのアイヒマン』は、アイヒマンの凡庸な悪を指摘するだけでは終わらない。当時のユダヤ人指導者層が、実は、強制収容所に協力していたという事実を暴露した。当時のユダヤ人社会は、この記述に対して、アイヒマンを弁護するだけでは飽き足らず、同胞をも傷つけたと猛反発し、アーレントのもとにクレームが殺到する。友人たちは次々と彼女のもとを去って行く。家族同然の付き合いだった友人ハンスさえもがアーレントに対してこう告げる。「もう君とは笑えない」。彼女は苦悩する。
 

アーレントの弁明

映画のクライマックスは、周囲から浴びせられた非難に対するアーレントの弁明シーンだ。彼女は大学の講堂で次のように弁明する。まず第一に、自分はけっしてアイヒマンを弁護などしていない。それは根拠のない中傷にすぎない。アイヒマンを理解することと、アイヒマンを許すことは別の問題。自分はアイヒマンを理解するために、彼の凡庸さと、悪を結びつけたが、彼を許してなどいない。だから、私は彼の死刑には賛成である。
 
続いて、ユダヤ人指導者による協力について。当時、ユダヤ人の指導者たちがナチスに協力していなければ、強制収容所の悲劇は何百万単位の悲劇には拡大しなかったはずだ。当時の彼らには別の仕方で対応する選択もあったはずだと、彼女は主張=肯定する。問題は、当時のユダヤ人指導層のモラルが、ナチズムにだらしなく加担してしまうまでに、壊滅していたことにある。要するに、強制収容所の悲劇とは、加害者であるドイツ人と被害者であるユダヤ人(指導者層)の共同作業によって史上空前の規模にまで拡大されたものなのだ。したがって、強制収容所の問題を考える上でもっとも重要なことは、全体主義が、加害者のモラルのみならず、被害者であるユダヤ人のモラルさえも崩壊させることに成功した点にある。それゆえ、強制収容所の悪とは、ユダヤ人に対する悪ではない。言うまでもなく、ドイツ人もユダヤ人も同じ人間である。強制収容所の悪とは、ユダヤ人に対する悪というよりはむしろ、人類全体に対する悪なのだ。そのような人間の思考を不能に陥らせるような悪から決して目をそむけないこと、そのような新たな悪について思考することを始めることが、今こそ必要なのだ。
 
大学講堂でのアーレントの弁明演説は、聴衆の大喝采で幕を閉じる。しかし、それは同時に学生時代からの無二の親友ハンスとの絶交をも意味していた。被害者であるはずのユダヤ人同胞もまた悲劇に加担していたというアーレントの主張=肯定をあくまで自分がユダヤ人であることにこだわるハンスは受け入れることができない。「君は傲慢な人間だ」と訣別の言葉が告げられる。同胞であるはずのユダヤ人社会にさえ妥協しようとしないアーレントの孤独は深まる。
 

悪は根源的なものではない。

映画のラスト。親友ハンスとの訣別をもたらすことをあらかじめ知っていたとしても『イェルサレムのアイヒマン』を発表したかと尋ねる夫に対して、アーレントは答える。たとえ結果をあらかじめ知っていたとしても、それでも自分は、あのレポートを書き発表しただろう。強制収容所の真実を追求することを、本当のことを言うことを自分はけっしてやめなかっただろう。ハンスは友である、されど…、真理はそれ以上の友であり、
いやしくも真理を全うするためには、親しい者をも棄てるほうが一層よいことであり、またそうすべきだ、と考えられるであろう、とくに知を愛する人間である以上は。なぜなら、真理と友のいずれも親しいものではあるが、友以上に真理に尊敬の念をいだくことは敬虔なことなのだから。
*1
 そして、最後にかすかに希望のようなものが示されて映画は幕を下ろす。彼女は言う。悪は、それ自体が『全体主義の起源』であり、強制収容所の大量虐殺をもたらすところの凡庸な悪は、けっして根源的なものではないのだ。根源的なものは、善だけであり、悪は根源的なものではないのだーと。*2
 
ところで、人間にとって、根源的なものはただ善だけであり、《悪は根源的なものではない》という『ハンナ・アーレント』の命題は、悪についてプラトンが下した結論と同じものであると僕は思う。プラトンの考えはこうである。何人たりとも、自らすすんで悪をなすものはいない。自分の行っていることが自分にとって悪いことであると知りながら、なおも不正を行おうとする者は一人もいない。むしろ、人が悪を為すのは、彼がその行いが自分には善いことだと誤って信じているからである。プラトンの考えでは、《誰でも、怒りや・報復や・快楽などの感情に惑わされて、その知識に反する行いをするものである》という世の常識は全くの誤謬である。誰ひとりとして進んで悪くなる者などいない。悪は人間にとって本質的なものではない。それでは、なぜ人は悪をなすのか?悪の原因は何か?プラトンに従えば、悪の原因は無知にある。何が正しくて何が善いことであるかについての知識が欠けていること、それが悪の源泉なのである。《無知は悪の源泉である》。私たちは《正しさとは何であるか》、《何が善きことであるか》についてよく考えなければならない。善についての知識は、必ずや善き行為を結果として生じさせることになるだろう。知は、善き行いの条件であり、逆に言えば、たとえその行為が善意によってなされたものであったとしても、それが知を欠いてなされるならば、それはつねに悪を招き寄せる可能性をはらんでいるということになるのである。
 
悪についての以上の考えは、ニーチェによって、後には、アーレントに哲学することを教えたハイデガーによって徹底的に批判されている。悪は、『ハンナ・アーレント』によれば、人間の現存在にとって根源的なものではない。それは本当だろうか?ハイデガーの『シェリング講義』を思い出そう。そこではむしろ、悪こそが人間の本質をなすものだと考えられている。動物は悪を為すことができないが、人間は悪を為すことができる。人間的自由の本質には悪が帰属し、そのことによって人間は、動物以下の存在に落ちることができる。ハイデガーは悪をなしうることこそが人間を人間たらしめる所以だと考えていた*3。それに対して、『ハンナ・アーレント』は、『人間の条件』から悪を除外しようと企てている。つまり、悪が人間(的自由)の本質に帰属するか否かを巡ってこの師弟は真っ向から対立しているのである。一体どちらが正しいのか?それは今なお目下係争中の難問であり、その真偽については慎重に判断しなければならない。この映画の意義は、むしろそれとは別のところにある。すなわち、ホロコーストという最悪のものが、けっして異常な人間によってではなくて、どこにでもいるような「普通の人」によって、生み出されたものであるという問題を改めて提起したことがそれである。その意味でこの映画は、僕も含めて、ホロコーストとか反ユダヤ主義とか全体主義のような問題を心のどこかで対岸の火事のように感じている人たちにとっては、はじめてハンナ・アーレントの著作に向き合ういいきっかけになるのではないだろうか。
ハンナ・アーレント [DVD]
 

関連記事 

↑の記事では、ハイデガーの『シェリング講義』について触れています。

参考

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

 

  

シェリング講義

シェリング講義

 

 

アーレント=ハイデガー往復書簡

アーレント=ハイデガー往復書簡

 

 注

 

*1:アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻第6章1096a14

*2:「悪が事物の本質に属することはあり得ない。悪はただちに、有らぬものとしての正体を明らかにする。悪から逃れ、その境遇を変えようとする衝動は、悪からは決して切り離すことができないものだ。悪の内に、われわれは現実における矛盾を感じている。まことの本質だけが、純粋な意味で善く、かつ完全なものである。」

*3:同じような考え方を、『差異と反復(上)』のドゥルーズにも認めることができる。ドゥルーズによれば、人間だけが愚か=創造的になることができる。「愚かさは、動物性ではない。」動物は、自らを「愚かな存在にさせないそれ特有の形式〔本能=思考パターンの有限性〕によって保護されている。」