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学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

本を読むことの暗黒面/ショウペンハウエル『読書について』を読む

はじめに

世の中のほとんどの読書論は「本は読まないよりも読んだ方がいい」、「本を読んだ方が教養が身につき考えも深く豊かになっていく」という考え方、言わば読書に対するある種の性善説を前提にしてきました。
 
僕もそういう考え方に従い、今までそれなりにたくさんの本を読んできました。「本を読むことで、いつかは自分も世間一般の人があまり考え着かないようなことを考え着くことができるようになるはずだ」。「いつかは自分も…」そう自分に言い聞かせながら自分なりの読書道を歩んできました。けれども、そういう考えに対して真正面から直滑降で向かってくる影があります。これは身構える必要がありそうです。
 
ショーペンハウエルの『読書について』は、読書が持つ昼の顔、つまり読書の効用については正面からは何一つ述べようとはしません。むしろ著者がこの本の中で何よりもまず読者の注意をうながそうとしているのは、本を読むことの暗黒面、読書がもたらす「害毒」の部分です。この本はよくある「読書のすすめ」のようなものではありません。むしろ、《いかに本を読まずにすませるか》を説いた本なのです。
 
 
 
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本を読むことの暗黒面

本を読むこと自体が読者にもたらす害毒、それは多読の害です。よく「本を読めば頭が良くなる」と言いますが、ショーペンハウエルはそのような意見には断固反対します。

読書は、他人にモノを考えてもらうことである。
だから、
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でモノを考える力を失って行く。
これはつまり、人は読書によって利を得ると同時に毒をも得る、ということです。確かに、本をたくさん読むことで、他の人があまり知らないようなことを知ることができるという利点はあるでしょう。けれども、そうした利を得ると同時に「自分でモノを考える力を失って」しまうという毒もまた回るのだということです。
 

速読に適さない本について

《人生の限られた短い時間の中でいかにたくさんの本を読むか》は読書家にとって永遠の課題でしょう。書店には本まるまる一冊を5分もかからずに読むことができると豪語する速読術についての解説書がたくさん並んでいますが、現代の忙しい読書家たちのそういうニーズを反映したものでもあるのでしょう。確かに、一週間に一冊しか読めないよりは、毎日一冊の本を読めた方がいいに決まってます。
 
例えば、我が家の本棚に並んでいるポール・シーリィのフォトリーディング解説書『あなたもいままでの10倍速く本が読めるには監訳者の神田昌典さんの手による速読がいかに素晴らしいものであるかを描き出した印象深いエピソードが載っているのですが、その部分を読んで見ましょう。
 
先日、私は、田町の書店で本を何冊も買った。
次の下車駅まで、三駅あったので、その間、フォトリーディングで本を読んだ。
ペラ、ぺラ…。
一秒一ページのペースである。
そのとき、私の隣に座った人も本を読んでいた。
彼の目は、ページの上に停まっていた。動かない。
かわいそう
悪いと思ったが、私は、そう感じてしまった。想像してみてほしい。この違いは、将来、どんな差になるんだろう。
一年後。三年後。五年後、そして十年後。
それは、あなたの人生にどれだけの違いを生むのか
私は、感謝した。
この知識に出会ったことに…。
 
当時、この本を読んだ僕は、フォトリーディングがもたらすこの夢のような世界に惹かれ、すぐにこの本に書かれている方法を実行にうつしました。「みかん集中法」はすぐに出来るようになりました。しかし、何度試しても左右に開いたページのあいだに著者が言うような「ソーセージのようなページ」をなかなか見つけることができず、僕は結局、速読術の習得を断念したのでした。
 

速読を否定しておいて多読は否定しないという欺瞞

速読術では、一冊の本のはじめから終わりまでを同じテンポで読んだりはしません。自分の関心をそそらない退屈な部分はドンドンすっとばして読んでも一向にかまわない。冗長な説明、くどくどしい描写や作者の考察、どうでもよい小話の類は抜かして読んだところで、別に誰も見ていないんだから叱られることもありません。だから、本に対して速読を仕掛ける読者というのはロラン・バルトが言うように「舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客」に似ています。
 
ところがそれに対して、僕が好んで読むような本、例えばジャック・デリダの『真実の配達人』のような本で、速読のようなことをやろうとすると、これはもう全くどうにもなりません。『真実の配達人』を「5分もかからずに」読んで分かることなんて、せいぜい「確かラカンを批判してたな」ということぐらいのモノでしょう。現代の哲学書は急いでとばし読みすることができないようにできているからです。そういう本を好んで摂取してきた自分にとって速読術は、相容れない別世界の何かのように感じてしまったのです。
 
だから結局、一度は速読に興味を持ったものの身につけることが出来ずに終わってしまい、電車の中で本の頁と長い時間にらめっこしているような人たちを「かわいそうに」と憐れむような人類の高みに登りつめることはついに出来なかったのですが、それでも僕は、速読術は使わないにしてもできるだけたくさんの本を読めるようになりたいという多読に対する憧れのようなものは以前と変わらずに持ち続けて来たのでした。
 

多読の害

ところが、ショーペンハウエルに言わせれば、そもそも「本をたくさん読むこと」自体が無用であるばかりか、害毒を垂れ流すものでさえあるというのです。というのも、多読を誇っているような人間というのは、「いつでもただちに本に向かうという生活を続け」た結果、「精神から弾力性をことごとく奪い去」られて自分でモノを考えることをやめてしまった人間、不必要なことでいつも頭がパンパンな単なる「馬鹿」だからです。多読家のような「馬鹿」をマネる必要など全くないのだと彼は断言します。たくさんの音楽を聴いたからといって、耳が良くなるわけでは必ずしもないように、たくさんの本を読んだからといって頭がよくなるわけではありません。それどころか、多読をつつしまなければ、人間は知識だけの「馬鹿」になってしまうのだ、と本書は警告します。これは速読を否定しつつも多読には憧れを抱いてきた僕にとっては目から鱗の箴言でした。
 
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」。だから、自分の頭で考えようとする人にとって、多読ほど有害なものはありません。自分の頭でモノを考える人たちは、客観的に把握したこと以外は言葉として表そうとしません。彼らは「自説をまず立て、その後で初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び自説の強化に役立てようとするにすぎ」ません。
 
それに対して、多読を誇る人間がやることと言えば、せいぜい「いろいろな人の言葉や意見、さらにまたそれに他の人が加えた反論などを報告する」ことぐらいのものです。それはさながら、旅行ガイドブックを何冊も読んで、その土地の通になった人のようなものです。「こういう人は報告すべき材料をいろいろと持ちあわせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も、明瞭な基礎知識も欠いてい」るのが普通です。これらは全て僕にも当てはまることであり正直読んでいて身につまされる思いがします。
 
 
 
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 『読書について』に対する現代の多読家たちの反応

現代の著名な読書家たちの書評サイト、例えば、2000年からスタートし今や1533冊目に突入している松岡正剛の千夜千冊や、1時間で10冊の本が読め年間5000冊もの戦闘力を誇る小飼弾さんの404 Blog Not Foundなどは、『読書について』の著者の目には、次のように映ることでしょう。
そのすべては古ぼけた観念、買いあさった古道具にすぎず、複製品をさらに複製したようにすり切れて色つやも失せている。型どおりのいかにも陳腐な文句に流行語を織り交ぜた彼らの文体は、さながら正真正銘の貨幣を通貨として使用する小国のおもむきを呈する。自分の力で何一つ鋳造しないからである。
 この辛辣な言葉は、多読家たちの努力を無化するどころではありません。自分の頭では何一つ考えずに『読書について』の箴言をコピペしただけで何かを考えたつもりになっている僕にとってもずいぶんと耳の痛い言葉です。
 
それでは、その生涯を読書に費やしてきた現代の多読家たちは、『読書について』にどんな反応を示しているのでしょうか。非常に気になるところですが、
 
松岡正剛さん
小飼弾さん
 
の順に見て行きましょう。
 
松岡正剛さんの場合
 
松岡正剛さんは2006年12月8日の1164夜ショーペンハウエルを取り上げているのですが、『意志と表象の世界』の話題とデカンショ節の思い出話に終始し、『読書について』には一言も触れていません。多分ガチで殴り合うのを避けて敵前逃亡したか、自分が殴られていることにさえ気づいていないのでしょう。
 
小飼弾さんの場合
 
小飼弾さんの方は、2009年3月16日付けで『読書について』をガチで論じている文章があるのですが、正直言ってぜんぜん納得のいくものではありませんでした。彼は冒頭で勇敢にも次のように宣言します。
ショウペンハウエルの読書論をまだ読んでいない人は、読書しているとは言えない。それを読んで「ぎくっ」ってなったことがない人も、読書しているとは言えない。

そしてそれに反駁できない人は、ショウペンハウエルを充分知っているとは言えない。

つまり、自分はすでにショーペンハウエルを「反駁」し、心置きなく読書に勤しむ権利を手に入れているのだと。で、実際に小飼さんがどう「反駁」したのかと言うと、要するに『読書について』というのは、自分より本が売れた大嫌いな母親に対する「嫉妬」の情から出た「負け犬の遠吠え」なのだと、だから多読家に対するショーペンハウエルの攻撃の数々はスルーでOK、何も気にせず今まで通り読書に勤しんでもかまわないのだ、というものです*1
 
しかしながら、『読書について』における多読家への攻撃のすべては、ショーペンハウエルによる読書の定義、《読書とは他人にモノを考えてもらうことである》という命題から発しています。ところが、小飼さんはこの命題の真偽について一言も論ずることなく局外においた上で、「母への嫉妬」みたいな下世話な身辺事情をあげつらって光の速さで10カウントを数え上げ、一人で勝手に大勝利を宣言してしまっています。
 
「反駁」とは相手が導き出した結論に対する反論を伴う推論です。ところが、404 Blog Not Foundの記事のどこを探しても、『読書について』でショウペンハウエルが「導き出した結論に対する反論を伴う推論」などありはしません。小飼さんがやっていることは「反駁」ではありません。ショウペンハウエルの『読書について』を「反駁」すると称して、小飼さんが実際にやっているのは、気に入らない論敵のゴシップ記事を書くことで相手の評判を貶め、本の内容そのものから読者の目をそらせるというもので、凡そ論理的な「反駁」とは性質を異にするものです。
 
ところで、小飼さんは著者を取り巻く身辺事情がその著者の作品を本質的に制約すると考えているようですが、ショウペンハウエルは、ある作品とそれを書いた著者の身辺事情との関係についてまさにその反対のことを述べています。
作品著者の精神のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、常に比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だがそれだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間の書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくてためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々に何の興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。
作品は著者の「身辺事情を凌ぎ圧倒」します。作品はそれを書いたものの身辺事情によって制約されるがままになったりはしません。そして、作品にだけ「楽しみを見出し、著者には興味をおぼえないという高度な水準」に達した読者にとって、著者の身辺事情は「何の興味も与えることができ」ません。これは裏を返せば、作品の内容そのものに楽しみを見出すのではなく、著者の下世話な身辺事情を知ることに喜びを見いだすような読者というのは、ショウペンハウエルに言わせれば、読者としては二流の読者だということです。たとえ1時間で10冊本を読めようと、年間で5000冊の読書を達成しようと、二流が二流であることに変わりはないのです。
 
 
 
 
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教養主義に抗うための処方箋

さて、 「できるだけ本を読むな」「多読を控えて自分の頭で考えよ」とショウペンハウエルは勧めるのですが、正直、本で得た知識に頼らずに自分の頭で考えるのは、僕を含めて大多数の人間には勇気がいることです。僕は大学生の頃、何かを研究する時には「まず先行研究がそれについて何を述べているかを調べるように」と教わりました。でも、言われた通りに先行研究を調べているうちに、自分が最初に立てた仮説が先行する研究者のそれに比べていかに思慮が浅く幼稚なものであるかに気づかされて打ちのめされ、自分の知能指数の低さとアイデアの稚拙さを何度も嫌悪したものでした。当時の僕は自分が本物のバカであることが周囲にー何よりも自分自身にーバレるのを恐れていました。「もしかしたら自分のIQは100を割ってるんじゃないか。絶対下の方だ」と常日頃から疑っていたので、あてにならない自分の頭で考えることは極力避け、大量の文献を読み漁ってそれっぽい先行研究を適当にコピーしてレポートにまとめるという単純作業を繰り返しているうちに大学を卒業してしまったのでした。「あの頃、濫読にあてた時間を少しでも頭を使うことに割いていれば…」今思うとホントにもったいないことをしていたなぁと後悔する次第です。
 
ずいぶん後になってから気づいたことですが、どうやら当時の自分と似たようなことを感じていた人たちは世界にはたくさんいるようです。例えば、ジル・ドゥルーズという20世紀のフランスの哲学者は、『口さがない批評家への手紙』の中で次のような想いを吐露しています。
私の世代は、哲学史によって虐殺されたにひとしい最後の世代だといえる。哲学史というものが哲学における抑圧の機能をはたしているのは明らかだ。はっきり言って、あれは哲学におけるオイディプスだ。「あれこれ読んで、あれについてのこれを読まないうちから、まさか君は自分の名において語るつもりじゃあないだろうな」というわけだ。私の世代にはうまく切り抜けることのできなかった者もたくさんいる。
 「◯◯を読んでないうちからまさかお前は自分の名において△△を語るんじゃないだろうな?」という抑圧的で教養主義的な無言の圧力は、当時の文系の世界ではありふれたものでした。でも、先行研究の歴史の重圧によって押し潰されてしまうぐらいなら、『読書について』の9ページにある次の美しい一節を胸に秘めつつ、自分の名において何かを語るという邪なことに手を染めた方がまだマシなのではないでしょうか。
だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、 一つの洞察も、他人の著わした本をのぞきさえすれば、みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。-ショーペンハウアー『読書について』P9
《自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる》。この言葉には哲学史というオイディプスに敢然と戦いを挑み続ける純度の高い闘争心が込められています。哲学史に虐殺されて心が挫けてしまった者の口からはこういう大胆で堂々とした勇ましい言葉は聞けないものです。

哲学史というものを始めたのはヘーゲルです。そして、ショウペンハウエルは当時のドイツを支配していたヘーゲル哲学のことを「法螺吹き」と呼び、その荘厳な体系に対して猛然と挑みかかりました。それにもかかわらず、世間一般のイメージではショウペンハウエルは世を拗ねた「厭世家」ということになっています。誰かの肩越しに『読書について』を読むのではなく、彼の言葉に耳を傾けてみて欲しい。多分この著者に対して与えられた「厭世家」という肩書きが的外れなものであることに気づくはずです。 

『読書について』は上で述べたこと以外にも有益な考察を数多く含んでいます。それらはすべて重要なものです。
 
 
 
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読書がもたらす利と毒

考えてみれば当たり前のことですが、何事にも良い面と悪い面があります。読書も同じで、本を読むことにも良い面と悪い面の両方があると考えるのはきわめてまっとうな考え方であって、読書がもたらす良い面ばかりをあげつらい、悪い面を言わない凡百の読書論と言うのは、それだけでもうダメな証拠のように思えてきます。

ショーペンハウエルの『読書について』はそうした嗤うべき素朴さとは全く無縁であり、通常そうした素朴さに加えられる罰を免れています。というのも、この本の著者は、読書がもたらす良いものと悪いもの、その効果=結果を完璧に熟知していたからです。
 
僕も含めて読書に少なくない時間をかける読書家という人種にとって、本を読むことはもはや人生の一部のようになってしまっています。そして、『読書について』の箴言の数々はそういう人間をターゲットにして書かれているため、感心はしても心のどこかではどうしても反発を覚えてしまいがちです。自分の人生にとってかけがえのないものを否定されたように感じるからです。しかし、多読がいかに自分の人生にとって不可欠なものであったとしても、それにもかかわらず、多読が偽であるという命題は成立し得ます。なぜなら、麻薬常習者にとっても麻薬が偽であることに変わりないように、その人の人生にとって多読が不可欠なものであるということと、それが真であるかどうかということは、本来なんの関係もないものだからです。
 
数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。ーショーペンハウアー『読書について』

 

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

*1:本当はその後に「これからも献本よろしくお願いします」とばかりに献本先に媚びへつらう記事が続いているのですが、ここで貴重な時間を割いてまでこれ以上この安っぽい記事を論評するつもりはありません。