学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

メガラ派について(1)/アリストテレス『形而上学』第9巻第3章 1046b29-1047a64

形而上学〈下〉 (岩波文庫 青 604-4)

形而上学〈下〉 (岩波文庫 青 604-4)


アリストテレスはその著書『形而上学』の第9巻第3章を論敵との批判的対決によって開始する。その対決はメガラ派に向けられている。

メガラ派について

メガラ派とは何者か。メガラ派は、プラトンアリストテレスの同時代人で、ソクラテスから発した一つの哲学上の流れである。メガラ生まれのエウクレイデス(前450年〜)が創立し、彼らは、ソクラテスのように哲学することをエレア派(パルメニデスゼノン)の教義に結合することを試みた*1

f:id:rodori:20140430142810j:plain

この派の主要な関心事は運動の実在の可能性の問いである。彼らはその実在性を否定するのである。この問題の背後には、「哲学すること」の根本問題が隠れている。それは、ある意味で、有らぬものの有への問いであり、さらに言い換えれば、の本質と有一般の本質の問いでもあるからだ。

メガラ派は次のように言う。ただ《有るもののみが有る》。それに対して《有らぬものは有らぬ》*2。有らぬものが有るように見えるのは、ただ見かけの上でそう見えるだけのことで、本当に有るものではない。さらに、何らかの仕方で否定に触れ、その汚染=混淆を受けている有るものは全て有らぬものである。従って、いまだ有らものとか、もはや有らものは一律に有らぬものである。

それでは、運動の有についてはどうか。メガラ派にとって、運動の内に有るもの、すなわち動かされて有るものは、有るのか有らぬのかどちらなのか。彼らは次のように考える。動かされて有るものは、転化し、或るもの(甲)から他のもの(乙)へと移行する。それゆえ、動かされて有るものは、もはやそれ以前の甲ではないが、だからと言って、いまだ乙というわけでもない。運動の有は、このようにその本質の内に否定を含んでおり、したがって、有らぬものである。それは、一方の甲の側から見れば、常にいまだ有らものであり、他方の乙の側から見れば、常にもはやそれが有ったところのものではない。動かされて有るものは、甲乙どちらの側から見ても、有らぬものである。《有るもののみが有り、有らぬものは有らぬ》。ゆえに、運動の内に有るものは有らぬ。それが有るように見えるのは、ただ見かけの上でそう見えるだけのことにすぎない。メガラ派にとっては、ただ現前するもの、すなわち目の前に有るものだけが有るのである。

メガラ派の教義と『形而上学』第9巻の関係

では、このように運動の実在性を否定するメガラ派の教説は、アリストテレスの主題といかなる連関を持つのか。『形而上学』第9巻の前の二つの章(1章と2章)でアリストテレスが話題にしているのは、能力の本質、それも運動ニ即シタ能力の本質である。前の二つの章でのアリストテレスの定義に従えば、能力とはまさに、「運動オヨビ変化ノ始源」である。つまり、アリストテレスにおいて、能力は、それが始源[αρχη]である限りにおいて、運動と本質的な関係を結んでいるのである。

ところが、メガラ派は、その運動を有らぬものとみなし、その実在性を否定する。運動は有らぬ。もし彼らのこのテーゼを認めれば、運動ノ始源として能力を定義するアリストテレスの思索は元を断たれて根拠を失う格好になってしまう。運動と同じようにその始源であるところの能力もまた有らぬ、ということになってしまう。というのも、運動がそもそも有らぬものであり、それ自体において本質的に有ることが不可能なものであるならば、運動ノ始源として語られる能力もまた、同じように、有ることが不可能なものであるということになるからだ。それ自体において、有ることの出来ないものノ始源などというものは全くのナンセンスである。アリストテレスは、能力をそういう無意味なものノ始源だと定義するのだから、そのような能力は、そもそも有ることが出来ナイもの、すなわち有らぬものだということになってしまう。メガラ派のテーゼがもたらすこの破壊的な結論をアリストテレスとしてはとうてい容認することは出来ナイ。

もしメガラ派が運動の実在性を否定するならば、それによって、運動ニ即シタ能力の本質を究明する第9巻の前の二章は元を絶たれて無効となる。したがって、メガラ派のテーゼは論駁されなければならない。だから、実際に論駁を実行する第3章は、運動*3の本質定義を補足的に確保するためのものであろう。だが、果たして本質定義が問題なのか。すでに冒頭のテクストが私たちに対して何か別のことを告げている。

能力の本質から能力の現実性の問いへ

1046b29-33
しかし、たとえばメガラ派のように、次のように語る人たちがいる。ある能力が現ニ働イテイル[ενεργη]ときにのみ、何かが出来ルということが現に有り、これに対して、その能力が現ニ働イテイナイときは、出来ルということもまた現に無いのである。たとえば、現に建築していない建築家は建築することが出来ナイのであり、これに対して、現に建築している建築家は、建築しているそのときには、建築することが出来ルのである。このことは、他の様々な力についても同じ様に当てはまる。〔メガラ派による〕以上の主張によって生じてくる事柄にはどこにも居場所がない(それは不条理である)。そのことを見るのは何ら困難ではない。*4

何が問題なのか。能力[δυναμις]*5が問題なのである。より正確に言えば、この能力が能力としてそもそも・いつ・いかにして・現実に目の前に有りうるのかということが問題なのである。

メガラ派の《ある能力が現ニ働イテイルときにのみ、何かが出来ルということが現に有る》というテーゼはこの問いについて一つの回答を与えていると言える。ある能力が何かを目指して現ニ働イテイルならば、それまでは単になにか可能的であったものが、現実的になるのである。

したがって、ここでは、可能的なものの現実化が問題なのである。そして、それまでは可能的であったところのもの、すなわち能力が有りうるのか、また有るとすればそれはいかにしてかが問題なのである。

メガラ派は《ある能力は現実化するときにのみ有る》と語っている。したがって、彼らのテーゼは能力が《何で有るか》に関わっているのではない。すなわち、能力の本質定義に関わっているのではない。そうではなくて、能力が《いかに有るか》、すなわち、能力が目の前に有るその有り方に関わるのである。したがって第3章では、先行する二つの章のように能力の本質[essentia]が問題なのではもはやなく、能力の現実性[existentia]が問題なのである。

能力の本質 能力の現実性
運動ノ始源 ?????

能力は、それが現実に有るときには、いかなる仕方で現実に目の前に有るのか。メガラ派は、能力の現前を、能力の現実化のうちに、すなわち能力の遂行[ενεργειν]のうちに求めている。もし能力が遂行の最中にないときには、その能力はまったく有らぬのである。遂行されなかった能力は、事実として有らぬだけではなくて、そもそもはじめからまったく有ることが不可能なのである。

メガラ派に従えば、能力は、それが為しうるものを遂行するときだけ、現実化する。遂行の最中にない能力はただわずかに出来ルということを示すだけであり、単に「可能性のうちにある」ということにすぎない。その場合、能力は単に現実的なものに対する可能的なものでしかない。だが、可能的なものとは、いまだ現前してはいないものである。ある能力が現前している、したがって有ると言えるのは、それが遂行の最中にある場合だけなのである。そのような能力の例としては建築術という技術[τεχνη]が挙げられている。メガラ派にとっては、現に建築している建築家だけが、建築する能力を有する建築家なのである。

少なくとも次のことは確かである。まず第一に、習得された能力と遂行された能力との間には違いがある。建築術を習得することと習得した建築術を現に遂行することは同じではない。第二に、この違いは、何らかのかたちで能力が現実化するその仕方、能力がいかにして現実化するかと関わっている。第三に、いまだ遂行され単に習得されただけの状態にある能力は、今や現実化され現実的なものとなった能力、すなわち現ニ行使され働イテイル能力に対しては、なにか可能的なものである。

だとすれば、習得はされたもののいまだ遂行には至っていない能力は、単に可能的なものではなくて、すでに何か現実的なものでもあるのではないか。当然そう考えることができる。確かにメガラ派が言うように、可能的な能力は、現実的な能力とは何か異なるものではある。だが、遂行の最中にある能力だけを現実的な能力とみなさねばならない理由はどこにもない。現実的な能力は、それが現実的であるために、必ずしも、それが遂行の最中にある(現実化している)必要はないのである。

したがって、メガラ派のこのテーゼを論駁するためには、いまだ遂行はされていないが、それにもかかわらず、実在的であるような能力の有り方を描き出す必要がある。すなわち、いまだ現実化の過程にはないにもかかわらず、ただ単に可能的なものと考えられただけではなくて、現実に現前している能力はいかにして有るのかが問われなければならない。

1046b33-36
なぜなら、(メガラ派のテーゼの前提の下では)現に建築していないときには、いかなる建築家も有りえないことは、明らかだからである。というのは、建築家で有るということは、建築することが出来ル[δυνασθαι]ということを意味するからである。このことは、他の様式の制作にも同様に妥当する。

メガラ派は、建築家が建築家で有るのは、彼らが建築に従事しているときにのみ、言い換えれば建築活動のただ中に有る限りにおいてだけである。彼らのこうした物言いにアリストテレスとしては反対したいところである。なぜなら、もしメガラ派の言う通りであれば、仕事を終えて居酒屋で一杯ひっかけている建築家に住宅の建築を依頼することはまったく不可能になってしまうからだ。建築家は、建築していない(仕事をしていない)ときには、まったく建築家ではないというのは容易には受け容れがたい意見である。というのは、アリストテレスの考えでは、建築家で有るということは、何よりもまず、建築することが「出来ル」ということを意味するからだ。

出来ルコトの現実性の二つの様式-所有と遂行

1046-1047a4
さて、或るものに精通シテイルコトのこのような諸様式を所有スルことは、かつてある時に(あらかじめ)それらを学び自分のものにしておかなければ、不可能である。また同様に、かつてある時にあらかじめ手放すことがなければ、それらをモハヤ所有シナイということも不可能である。―このことは忘却、災難、時間などによって起りうる。それ故、もちろん、制作がその都度かかわるものが滅びることによってではない。というのも、そのものはまさに有るのだから―。それ故、以上に述べられたような事態が生じないことには、能力を所有スルことやシナイことは同じ様に不可能であるならば、〔能力を〕所有している人が(制作することをただ単に)停止するとき、いかにしてその人は制作へのこの精通をもはやもたないことになるのか。逆にまた、かれがすぐに再び建築にとりかからなくてはならないとき、いかにして、かれは再びそれを自分のものにすることができるのか。

ある技術(精通シテイルコト)を「所有スル」ことは、それをあらかじめ学習し自分のものにすることと結びついている。ある技術を「モハヤ所有シナイ」ことは、それをあらかじめ手放すことに結びついている。例えば建築家が、建築術を所有しているのは、彼があらかじめそれを学習し自分のものにしていたからであり、彼が建築術をモハヤ所有シていないのは、彼が訓練を通じて絶えず技術を磨くのを怠ったせいで腕が鈍ったり忘れてしまったからである。

次のこともまた疑う余地はない。
ある技術の遂行を単に停止することは、ただちにそれを「モハヤ所有シナイ」ということを意味したりはしない。建築家がその日の建築作業を途中で切り上げて家に帰ったからといって、彼がそれまでに身につけた建築術を失ってしまうわけではない。また逆に、ある技術の遂行を即座に開始することは、その技術をまた最初から身につけることを意味するわけではなく、むしろ反対に、その技術をすでに身につけていることが前提になっているのである。例えば、建築家が途中で切り上げた昨日の作業を次の日にまた再開するときに、また始めから建築術を習い覚えなければならないわけではない。

アリストテレスが話題にしているのは、能力を「所有スル」ことと「所有シナイ」こと、さらに、能力を身につけることと失うことである。問われているのは、能力が能力として目の前に有るその仕方、つまり能力がいかなる仕方で目の前に有るかであった。何かが「出来ル」ということは、まさに能力を「所有スル」ことを意味し、「所有シナイ」ことは、「出来ナイ」ことを意味する。能力の所有と非所有は、能力が現に有ることと現に有らぬことをその内に含んでいる。要するに、アリストテレスは、有るものが現に有るその仕方の一つの「様式」として「所有スル」ことを捉え、能力が現に有ることを能力を所有スル[εχειν]ことだとみなしている*6

能力の本質 能力の現実性
運動ノ始源 能力ヲ所有スル

それに対してメガラ派は能力が現に有ることを能力の遂行[ενεργειν]のうちに見る。したがって、所有[εχειν]と遂行[ενεργειν](現ニ活動シテイルコト]の二規定は、どちらも能力に帰属しなければならない。アリストテレスによれば、ある能力は、所有されるときに現実的に有る。他方、メガラ派によれば、ある能力は、遂行されるときに、現実的に有る。出来ルコト[δυνασθαι]の現実性が問われているのである。

f:id:rodori:20140617133400j:plain

関連記事


参考

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

後期ギリシア哲学者資料集

後期ギリシア哲学者資料集

アリストテレス『形而上学』 (ハイデッガー全集)

アリストテレス『形而上学』 (ハイデッガー全集)

*1:残念ながらメガラ派の教義はすでに失われて久しく彼らの教義は著作の形では伝えられていない。ストア派・セクストス=エンペイリコス・アプロディシアスのアレクサンドロス・シンプリキオスetcにおいて、メガラ派の教義や諸テーゼに関する断片的な言及を読むことができる。なおプラトンもまた、アリストテレスと同様に、対話編『ソピステス』においてメガラ派の諸テーゼを立ちいって検討している。

*2:ここでメガラ派は彼らに先行するエレア派の存在論に従っている。エレア派の存在論は二つのテーゼから成る。1. 《有るものは有り、有らぬものは有らぬ》。2. 《有は一である》。以上のテーゼはプラトンアリストテレスによって論駁されている。

*3:運動の分析については『自然学』第3巻第1〜3章・第5巻・第6巻・第8巻を参照。

*4:翻訳はハイデガー訳を参照。

*5:能力については特に『形而上学』第5巻第12章で扱われている。

*6:所有については『形而上学』第5巻第23章を参照。