学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

ニーチェの講義録『プラトン対話篇研究序説』を読む

プラトンは友である、されど…
プラトンと彼の先駆者たち、プラトンを読みたいと思っている人びと、ならびにその準備をする必要があると考えている人びと、こういう人たちに役立てようとする試み。

ニーチェの『プラトン対話篇研究序説』*1は、1871年〜76年にかけて、当時三十代のニーチェバーゼル大学で行った講義の準備稿を抜粋し、書物として出版されたものだ*2。標題から明らかなように、本書が話題にするのはプラトンの対話篇である。一般的に言って、この種の研究に際しては、その狙いとされるのは哲学であるか、或いは哲学者であるかのどちらかである。ニーチェが狙うのは後者であり、彼はプラトンの著作によってプラトンその人を読もうとする。なぜなら、ニーチェにとって、常に人間は書物よりもはるかに注目に値するものであるからだ。本書を読み、プラトンの一読者として僕がもっとも心を動かされたのは、プラトンの対話篇の執筆年代の問題に関するニーチェの鋭い洞察である。後学のためにープラトン流に言えば想起のためにー、以下では、本書の第一章第一節を要約してみることにしよう。

備忘録としての対話篇

プラトンにとって《書物は備忘である》。書物とは無知で蒙昧なる大衆たちを知へと導く次善の策だというきわめてモダンな考えは、プラトンの対話篇には当てはまらない。なぜなら、この考えは、書物には全てその書物独自の教育および指導の目的があることを前提にしているからだ。そのような考えは、ただ活版印刷術の登場以降、文字が中心となった時代にのみあてはまるにすぎない。上の先入見の持ち主にとって、著者とは常に、その著作(文字)を通じて読者を指導し教育しようとする教師以上のものではない。だが、プラトンが生きた時代にそうした文字中心の著者像を持ち込んではならないのは言うまでもない。プラトンは著作を通じて無知な「田吾作」たちを啓蒙しようと企む宮台真司とは違うのである。
 
プラトンによれば、書物には、一般に、教育や指導の意図というものはない。その限りで彼は、宮台真司よりはむしろ東浩紀により近い。だが、東と異なりプラトンにとって書物はただ、それまでに指導および教育を受けた者たちにとって、想起の目的を持っているにすぎない。書物とは、あくまで想起の手段であり、口頭でなされた対話を模倣するものだということ。彼の著作は「彼自身および彼の哲学の仲間たちにとっては、想起手段の宝庫」であるということ。 つまり、プラトンの対話篇は全て、それを読むことで、知恵者がどのようにして知恵者となったかを後から想い出すために書かれたものなのである*3
 

誰が対話しているのか?

このように、プラトンは、実際に行われた対話を想起させる目的で、あくまで備忘のために対話篇を書いている。けれども、その対話がソクラテスとその愉快な仲間たちの対話でないことは明らかである。ニーチェの仮説に従えば、ソクラテスの存命中、プラトンは一冊も著作を書いておらず、対話篇は全て彼の生涯の後半に書かれたものである。プラトンソクラテスと知り合ったのは彼が20歳の時であり、彼がソクラテスと死別するのは彼が28歳の時である*4。青年プラトンが対話篇を書くことはあり得ないし、彼にとって書物とは常に口頭での対話の備忘録に他ならない以上、対話篇の主人公としてのソクラテスが実際のソクラテスと一致することは絶対にあり得ない。では一体、誰と誰が対話しているのか?ニーチェの考えでは、
プラトンは自身をソクラテスに、自分の弟子をソクラテスの仲間と同一視している。*5
対話とは、他でもない、プラトンとその弟子たちとの対話なのである。プラトンは真理を語り伝えるために、神話の語り口を導入する。彼がソクラテスの口を借りて語るのはあくまで技巧上の手段であって、それは、
⑴制約を離れてあらゆる自由を駆使するためであり、
⑵それにも拘らず、説得力を持った虚構を創り出すためである。
筆致が精緻であればあるほど、通常、それはいっそう虚構的である。
悲劇は、しばしば、現実の人物や出来事を神話的登場人物に託して物語るが、プラトンもまたそれと同じ手法をとっているのである*6。対話篇は悲劇の模倣であり、「対話篇の神話的構成部分は、レトリック的である」。*7
 

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対話篇の執筆順序

⑴『パイドロス』の執筆年代

プラトンにとって対話篇とは「彼とその仲間たちの対話」の備忘録である。ところで『パイドロス』から導き出された以上の言明は、既に或る一つの学派、すなわちアカデメイア*8が存在することを前提としている。ここから推論できること、それは、『パイドロス』は少なくとも青年時代に書かれたものではなくアカデメイアの創立(40歳)以後に書かれたものであるということだ。

ディオゲネス・ラエルティオス第三巻の伝承
一方、ディオゲネス・ラエルティオス第三巻38は『パイドロス』の成立についてこう伝えている。
彼は最初に『パイドロス』を書いた、という説がある。
これはもちろん伝承であり、ディオゲネス自身がその目で確認したものではない。だが、ニーチェはいくつかの理由、主に(3)を根拠にして、ディオゲネス・ラエルティオスの伝承を全く正しいものだと判定している。*9
われわれは、『パイドロス』がとにかく最初の著作である、という伝承を固く保持する。(P26)
『パイドロス』に関する伝承は全く正当なものである。(P36)

*10  

⑶『饗宴』の執筆年代

だが、他方でまた、『饗宴』がアカデメイア初期に出たものであり、BC385年もしくは384年には著わされていなければらないことは、確かである。しかも、この対話篇はその内容から言って『パイドロス』の内容を前提としており、要するに、これら二つの著作は互いに手がかりを提供しあう関係にあるのである。

結論

整理しよう。
⑴『パイドロス』はその内容から見て少なくともアカデメイア創立(BC387年=当時40歳)以後に書かれたものであること。
⑵また、『饗宴』(BC385〜384年)との関係から判断して、『パイドロス』の執筆年代は、BC387年〜384年であること。
⑶伝承は『パイドロス』がプラトンの最初の著作であると伝えていること。そして、『饗宴』と『パイドロス』の内的連関から推察して、その伝承には信憑性があるということ。
 
以上⑴〜⑶の証拠により、『パイドロス』が書かれた年代はおそらくBC387年(プラトンは40歳)以降、だが、それもその後まもない頃のものであることが推定される。その意味は、プラトンは41歳より以前には著作を全く著わさなかったこと、対話篇は全て彼の生涯の後半生に書かれたものであるということである。
 
さらにまた、ニーチェは、プラトンの芸術家としての叙述の能力が年を取るごとに減じていったという仮説を立て、対話篇の執筆順序を、次のように推定する。すなわち、

まず第一に、『パイドロス』・『饗宴』・『国家』・『ティマイオス』・『パイドン』、のちに、『テアイテトス』・『ソピステス』・『政治家』・『ピレボス』・『パルメニデス』・『法律』。 

まとめ 

ニーチェは、上記の手順を踏むことでプラトンの対話篇にまつわる以下の事実を明らかにした。

  • プラトンの対話篇は全て、彼の生涯の後半生、具体的には41歳以後に執筆されていること。
  • 青年期のプラトンが対話篇を著すことはあり得ないこと。
  • 対話篇はアカデメイアで行われた実際の対話を後から想い出すために書かれた備忘録であること。
  • 著作において実際に対話を行っているのはソクラテスとその仲間たちではなくプラトンとその弟子たちであるということ

文献学的基礎作業が導き出した以上の結論を下敷きにして、ニーチェは、歴史的ソクラテスから対話篇のソクラテス、すなわちアカデモスの庭園で弟子たちと対話する教師プラトンを丁寧に切り離す。しかし、そのような作業を通じてニーチェが最終的に目論んでいるのは、対話篇の単なる作者としてのプラトンを、教育者・政治家・弁論家・科学者・芸術家・倫理学者…要するにさまざまな顔を持つ人間プラトンに置き換えることである。

常にしっかりと把握しておかねばならないのは、著述家プラトンが本来の教師プラトン[ειδωλου]であり、アカデモスの庭園における想起にすぎない、ということである。
われわれは、著述家プラトン人間プラトンにおきかえる努力をする必要がある。しかるに、現代の著作の場合には、通常、作品(著作)のほうがその著者を取り扱うよりもはるかに重要であり、また著書が芸術の極致を含んでいる。だが、完全に公共生活中心で、ほんの片手間に著作活動をするにすぎないギリシア人の場合には、事情は別である。

人間プラトンは、著作ではなく、伝えられるところの彼自身の行動、例えば政治上の旅行に目をやることで得ることができる。私たちはプラトンを単なる対話篇の著者としてではなく、大衆を指導する政治家として、つまり、世界全体を根本から改革しようと努め、とりわけこの目的のために著述家でもあるような政治家として、見ることもできるのである。それは『国家』を著すプラトンであり、その場合、アカデメイアの創設は極めて重要な意味を持つことになるだろう。

そして、そのような地道な文献学的基礎作業を通じて浮かび上がるのは、教師であり政治家であり芸術家でもあるような人間プラトンである。そこにはもちろん、後にニーチェがその転倒を企てることになるプラトニズムの中核部分を構成する倫理学プラトンの姿もある。その意味で本書は、最晩年まで続くプラトニズム転倒というニーチェの一大プロジェクトの基礎工事の部分を担っており、ニーチェの思想とプラトニズムの関係を理解する上で今なお避けて通ることのできない重要な書物だと言ってよい。

古典ギリシアの精神―ニーチェ全集〈1〉 (ちくま学芸文庫)

古典ギリシアの精神―ニーチェ全集〈1〉 (ちくま学芸文庫)

 

過去記事


真理を試みにかける哲学者/ニーチェ『古代レトリック講義』を読む - 学者たちを駁して

今回の記事の観点からすれば、↑の記事は致命的な誤りを含んでいるのですが、反省のため、一応リンクを貼っておきます…。

参考

ニーチェ年譜

ソクラテス・プラトン年譜 - 未唯への手紙

参考文献

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

 

*1:ちくま学芸文庫ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神』に収録。

*2:ニーチェバーゼル大学(ドイツ)にの古典文献学の員外教授に就任したのは1869年であり、正教授となったのは1870年のことである。以降、著作としては、1872年に『悲劇の誕生』、次いで、1873年~74年にかけて『反時代的考察』が出版されている。

*3:「著作の想起的性格に関するプラトン自身の言明は、シュライエルマッハーによって巧みに隠されてしまった。したがってわれわれの前にあるのは、ふたたび、理想的な読者をもっている純粋に文字中心の人プラトンである。」(P124、P20の注)

*4:プラトンソクラテスの弁明』

*5:「彼がソクラテスを理想化できるのは、ほかでもない、ソクラテスを自分と等しくすることによってである。」

*6:ゴルギアス』を読む限り、プラトンは悲劇を国民的弁論術だとみなしている。この対話篇において、悲劇をも含めた弁論術は、技術未満の経験であるとされ、ただ快楽だけを目指す「迎合」の判決を受けることになる。

*7:この講義でニーチェが立てた仮説は、プラトンにとって《対話篇とは想起の手段である》というものだ。しかし、対話篇には別の見方の痕跡も存在する。詳細については『パイドロス』273E以降に関する『古代レトリック講義』(1874年)の注釈を参照のこと。そこでは次のように言われている。「対話篇の神話的構成部分は、レトリック的である。神話の内容は、本当らしいことである。したがって、神話の内容が目指すのは、教授することではなくて、聴衆に臆見だけを引き起こすことであって、説得することなのである。…」対話篇のレトリック的側面は『国家』において特に顕著である。「プラトンは、同胞市民の魂のうちで特定の見方を基礎づけるために」『国家』ではまったくの神話を導入している。この場合、対話篇はもはや、プラトンにとって単なる備忘=想起の手段ではなくなってしまっている。

*8:東浩紀がゲンロンカフェをつくったの42歳の時だったが、プラトンはそれより2歳早くアカデメイアをつくった。当時40歳のプラトンは、かつてのように裕福ではなかったし、旅行は彼の財産を費い果たしていた。ゲンロンカフェはユビキタスエンターテイメントその他の企業からの出資金を元手につくられたが、アカデモスの庭園はプラトンの身代金を元手に入手された。その経緯はこうである。シケリアへの一回目の旅行の折、プラトン僭主ディオニュシオスに諫言してその怒りを買い、ラケダイモンのポルリスの手で奴隷として売られることになる。たまたまキュレネのアンニケリスがその場に来合わせ、20ないし30ムナの身代金を払ってプラトンアテナイの友人の許へ送り帰した。友人(一説ではディオン)はすぐに金を返したが、アンニケリスは受け取ろうとはせず、その金でアカデメイアの小さな庭園を買いとってプラトンに贈った、と言われる。

*9:ニーチェの見解に反して、『パイドロス』は、最初の著作というよりはむしろ、中期の作品と見るのが一般的である。この点に関して、『パイドロス』を通説どおり中期の作品とみなし、『パイドロス』以降のプラトンの転向=改宗を主張する過去記事『真理を試みにかける哲学者』はニーチェ論としては完全に間違っている。なぜなら、ニーチェは、『パイドロス』をプラトンの処女作だと固く信じていたのであり、そうである以上、『パイドロス』においてプラトンの「転向」など絶対に起こるわけがない。同様に、『パイドロス』がプラトンの最初の著作である以上、『ゴルギアス』が『パイドロス』より前に書かれることも絶対にあり得ない。したがって、過去記事は、プラトンの対話篇の執筆順序の判定に関して二重にも三重にも間違っている。ニーチェが対話篇の執筆順序に関して通説とは異なる独自な見解を抱いていたということを僕は知らなかったし、知ろうともしなかった。ニーチェのプラトニズム転倒の全ては文献学的な作業に基づいてなされている。このことを軽視してはならない。

*10:本書P40にも次のような記述がある。「さらにわれわれは、『パイドロス』が最初の著作であり、だがそれは四一歳より以前には著わされなかった、という伝承を信じる。