学者たちを駁して

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ヘーゲル『懐疑主義と哲学との関係』について

ヘーゲルは生前、自分の著作のごくわずかな部分しか出版しなかった。現在公刊されている彼の著作の大部分は、口頭で行われた講義を聴講者が筆記したものか、いくつかの下書きを寄せ集めた手記を収録したものがほとんどであり、生きているうちにヘーゲル自らの手で公刊された著作はわずかに5点、論文ですら19点しかなく、残りは匿名で出した翻訳が1点、その他は広告文ぐらいしかない。本書のタイトルにもなっている『哲学と懐疑主義の関係』は、まだ仲が良かった頃のヘーゲルシェリングが、イエナで共同で刊行していた『哲学批判雑誌』に収録された論文である。

 

だがそれにしても、なぜ懐疑主義なのか?確かにヘーゲルは若い頃セクストゥス・エンペイリコスについて熱心に研究してはいた。けれども、この論文で古代懐疑派が主題として論じられるのは、そのような伝記的な理由だけではおそらくない。というのは、他ならぬヘーゲルその人が、あらゆる"真の哲学"は懐疑主義と「根本的に一致」していると語っているからだ。

 

とは言え、この論文に懐疑家として名を連ねているのは、ピュロンやアグリッパ、セクストゥス・エンペイリコスのような哲学史において単なる懐疑家として登場する人物ばかりではない。どう言うわけか懐疑派には通常分類されない"真の哲学者"たち、例えば哲学者中の哲学者であるところの『エチカ』を書いたスピノザや『パルメニデス』篇のプラトンまでもが懐疑家として召喚されている。

 

その理由は、「そもそも、単なる懐疑主義そのものとして登場する特殊な形態しか懐疑主義とみなさないような懐疑主義の捉え方は、哲学の立場の前では無効である」からだ。ヘーゲルからすれば、「哲学体系そのもののうちに、本当の意味での懐疑主義が見出されるのである」。

 

ヘーゲルは決して懐疑主義だけを孤立して考えたりはしなかった。彼はあくまで懐疑主義哲学との関係において、「弁証法」的に捉えようとした。ここで言う弁証法[διαλεγειν]とは、有るものを他のものを通して、他のものへの本質的な関係において理解し、ただ単純にそれだけを考えるようなことはしないという意味である。

プラトンの『パルメニデス』より以上に完成され、屹立する真性の懐疑主義の書物、体系をわれわれは見出し得ようか。

 

パルメニデス』篇の内に純粋かつあらわな形態で登場しているこの懐疑主義は、潜在的にはあらゆる真の哲学体系の内に見い出すことができる。

懐疑主義は単なる懐疑主義者の主張にだけ見出されるのではなく、必ずしも懐疑主義とはみなされない哲学者たちの体系の中にも見出しうる。例えば、スピノザは『エチカ』において、「神は世界の内在的原因であって、超越的原因ではない」と述べているが、この命題においては、原因と結果の概念が互いに矛盾し合うような仕方で結合させられている。というのは、一方で、この命題は「内在的原因」、すなわち結果と一体になった原因を唱えているのだが、そもそも原因は結果とあい対立する限りでのみ原因だと言えるからである。原因と結果の両者が一つの命題の中に結合されて呈示されるならば、その結合は矛盾を含んでいて、両者はそこにおいて同時に否定されている。

 

ヘーゲルによれば、こうした哲学の命題は全て端的に矛盾し相互に打ち消し合う二つの命題へと解体することができる。例えば、先のスピノザの命題は、《神は原因である》と《神は原因でない》の二極に分解することができる。そして、このような哲学的命題の二律背反的性格において、《あらゆる言説にそれと同等の(正反対の)言説が対置される》という懐疑主義の原理が強烈に現れているのである。

 

逆に言えば、こうした相互にあい闘う二命題は、すべて「弁証法」的に(と言うことはつまり、相互に他のものを通り抜けるような仕方で)結合することができるとも言える。例えば以下の諸命題はすべて以上に述べたような意味で「弁証法」的であり、従って懐疑主義をその内に含み込む。

 

  • 「有らぬものは有る」(プラトン)
  • 「神とは、昼にして夜、冬にして夏、戦争にして平和、飽食にして飢餓である。」(ヘラクレイトス)
  • 「思考は存在である。」(パルメニデス)
  • 「経験の本質は経験の対象の本質である。(カント)
  • 「自我は非我である。」(フィヒテ)
  • 「先天的なものは後天的なものである。」(ヘーゲル)
  • 「神は万物である。」(シェリング)

 

論理学がタブーとして禁じるところの矛盾律は、哲学者たちにとっては必ずしもタブーではないことがよくわかる。むしろ逆に、あらゆる哲学の命題は、矛盾律に違反するものを含んでさえいなければならない。もちろん、弁証法に習熟していない一般人にとっては、これらの命題は単なる矛盾した命題であり、「対消滅」している命題であり、まったく間違ったバカげた命題にしか見えないだろう。日常の常識は、こともあろうに卑しくも哲学者ともあろう者がこのような"論理学上の誤り"を犯しているのを見ると妙な優越感を抱くのが常だからだ。

 

それに対して、どう言うわけか矛盾そのものをその思索の原動力としているヘーゲルは、矛盾が必ずしも哲学的命題の真理性の反証ではなく、むしろその真理性の証拠であるということを告げている。つまり、或る哲学者の任意の思想において何らかの命題が明らかに矛盾しているのだとすれば、その矛盾はおそらく、その思想を蒸発させずに思索せよと読者に命じているのだと言うのである。

真の哲学は全てこうした否定的な側面を持っており、矛盾律を永遠に止揚している。従って、そうしようと思えば誰でも、直ちにこの否定的な側面を際立たせて、どんな否定的な側面からでも懐疑主義を提示することができるのである。

と、万事このような調子でヘーゲルは、古代懐疑派の諸テーゼを"真の哲学"、すなわち、後に「ドイツ観念論哲学」と呼ばれたものの「一要素」として貪欲に取り込んでいく。その意味で、以下に引用する『哲学史講義』の発言は懐疑主義と哲学、とりわけヘーゲルの哲学との関係を明瞭に示していると言えるだろう。

 

 懐疑主義に対しては肯定的な哲学は次のような意識を持ちます。懐疑主義の持つ否定の作用は自分自身の内にあって、この懐疑主義は自分に対立するものでも自分の外にあるものでもなく、自分の一要素をなしている、ただ、否定の作用が真理につながるところは懐疑主義と違うところだが、と。
 さて、懐疑主義と哲学との関係について言えば、懐疑主義は具体的内容の一切を弁証法的に解体するものと言えます。真理に関するすべての観念は、内部に否定や矛盾を含む以上、その限界をしめすことができる。そして通常の一般性や無限性はこの次元を超えることができない。というのも、特殊に対立する一般や、限定に対する非限定や、有限に対立する無限は、それ自体が限定されたもの、対立の一方の項をなすにすぎない以上、相手からの限定を受けざるを得ないからです。分析的思考は、こうした限定つきの区別を最終的なものと考えるので、懐疑主義は、そこに攻撃の矢を向けます。

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参考

 

懐疑主義と哲学との関係 (フィロソフィア双書)

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プラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボス

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エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

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ピュロン主義哲学の概要 (西洋古典叢書)

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哲学史講義〈中巻〉

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