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学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

J=P・リシャール『ヴェルレーヌにおける「味気なさ」』(『詩と深さ』収録)

1961年にJ=P・リシャールの『マラルメの創造的宇宙』が出版された際、或る人々は、「彼が深さの暗喩に魅了されたこと、そして断片的な言語の向こうに"水面下のきらめき"をとらえようと望んだこと」を非難した。文学研究は既に成年期に達して心理主義200年の歴史から解放され、モーリス・ブランショによって《近代文学は全て深みというものに背を向けるべきだ》と宣言されたというのにである。

 

だが、そうした非難の多くは当たってはいない。なぜなら、マラルメ論に先立つこと6年前の『詩と深さ』(1955年)において、リシャールはまさに「深さ」という観点から、ネルヴァル、ボードレールランボー、そしてヴェルレーヌという四人の詩人を分析し、「深さ」に対する詩人の態度の類型学とでも言うべきものを前もって展開していたからだ。

 

本書を流し読みし、とりわけ印象深く思ったのは、ランボーボードレール、ネルヴァルと比べて今日不当に軽んじられているポール・ヴェルレーヌについての分析である。爆発・飛翔・噴出・変容・省略・反抗によって「深さ」を否定し、裏に潜む奈落というものの無い世界を打ち立てたランボーと同じく、その友人のヴェルレーヌもまた「深さ」を否定しようとするのだが、ヴェルレーヌの行き方はランボーのそれとは違っている。「彼は深さからその底を、従ってその基盤を除き去ろうとする」のである。ヴェルレーヌにとって「深さ」とは、「茫漠たる広さ、広大さ、純粋な無限定性」であり、"水面下のきらめき"を追い求めなければならないような類の"深さ"とは似ても似つかぬ代物だ。

 

さて、ヴェルレーヌにおける「深さ」の経験とは具体的にはどのようなものだったのか?後学のために ープラトン流に言えば想起のためにーこの点に関するリシャールの叙述を手短に追いかけてみることにしよう。

お前の目を半ば閉じ、
胸に両手を重ねよ。そして
眠り込んだお前の心から
あらゆる思いを永久に追い払え

ヴェルレーヌ詩集・艶かしきうたげ『忍び音に』

自分の内部を空っぽにするポール・ヴェルレーヌの術ーその狙いは、判断(思い)の停止にあって、感覚(印象)の停止にはない。ヴェルレーヌは自分が感じているものとの接触をまだかろうじて保っている。感覚を追い払うのではなく、感覚が伴っている思いを追い払うのである。そのようにして彼は、感受性の状態(=情念)をしっかりと保ったままで、事物の世界に向かって自らの感覚を解き放つ。

 

「感覚という、あの思いがけない恩寵への期待」。他所から吹き寄せる風[רוחהקודש]のように、どこからともなく一方的に吹いてくる何らかの影響力に対する無限の信頼。

物の世界に直面した時、ヴェルレーヌという人は、自然に受け身の、待機の姿勢をとる。

彼はこれらの事物に対して好奇心も欲望も投じようとはしない。

彼は相変わらず動かず、泰然自若として、物が彼の前に姿を現してくれた時に、自分が一層容易に物から浸透されるよう、自分の中に隙間を沢山作っておくことで満足する。

他方で同時に、彼にとって感覚とは、信号を送り出す事物から肉体が受け取る「印」であり、「印」は肉体に辿り着くまでの間に出発時には帯びていたはずの豊かな情報の大半を失ってしまうのが常である。そうなると、「印」は今やあまりにも長いあいだ栓を開けっぱなしにしていた香料のように気が抜けて、感覚はその事物のかすかな痕跡・漠たる暗示しか感じ取ることができない。

 

ヴェルレーヌが事物およびその「印」との間にとり結んでいるこうした関係は、ほとんど満たされない関係であり、この関係は貧しさを基調とする。ヴェルレーヌの風景において、事物は決して晴れ晴れとした状態にも充実した状態にも達しておらず、いつも遠く離れて、縮こまって衰弱した姿を彼の前に晒している

事実、ヴェルレーヌは、内面の輝きを失ったものを偏愛するのである。彼が愛するものは、その力を十分に弱められ、従ってその所在を精神に教える感覚が、単に今にも消え入りそうな、それどころか、自我がその印象を受け取る時にはもう消滅してしまっているような、はかない存在を示すにすぎない、といった具合でなければならない。

ヴェルレーヌ的対象は、求められても決して自ずからは与えられず、むしろそれどころか、そのような求めに対して門戸を閉ざしているような無愛想な事物であり、当然のことながら、このような反ロマン主義的な状況は、《世界との接触は根本的に虚しい》という諦念を呼び覚ます。

 

具体的な物の確かな記憶をいささかも留めていないヴェルレーヌの感覚は、その源泉となった対象が既に消滅したことを告げている。したがって、感覚を遡り、それが自らのもとへ辿り着くまでに通過して来なければならなかった道を逆方向に辿りつつ、かつて有ったはずの豊かな源泉を発見することは、彼にあっては問題にはならない。その道の果てで彼が出会うのは単なる有ラヌモノだけだからだ。

 

とはいえ、事物のこのような無愛想を甘んじて受け入れるのであれば、芸術家であることを、引いては詩人であることを放棄することになってしまう。だからこそ彼は、事物の無愛想や沈黙や慎み深さに対して、その消極性を通じて存在が何らかの仕方で姿を現わすのを辛抱強く待ちながら、情熱的な関心を注ぐことになるのである。

 

要するに、ヴェルレーヌにとって《存在は香りにおいて与えられる》。次第に消えて行く香りや半ば幻めいた風景を彼が好んで追い求めたのはそのためだ。あるいは、『忍び音に』対する彼の好みや、枯れたものや萎びたもの、干からびたものに対する彼の執念もその一例に他ならない。

 

だが、リシャールの考えでは、ヴェルレーヌの真骨頂はそのような"枯淡"とでも言うべき風景を達成した点にあるわけではない。むしろ逆に、そうした形を持たぬ漠たる感覚の広がりの中に、軋り、衝突し、不快感を掻き立てるような一連の不協和音を導入した点にある。例えば、場にそぐわない語を用いることや、びっこを引いた韻律や関節の外れた統辞法に対する彼の愛着、ランボーから学び取った俗語や卑猥な語の使用、…etc、彼の詩的言語を特徴付けるこうした奇妙な特徴は、「形を持たぬ感受性の状態を何らかの意味で限定したい*1という深刻な要請から出てくるものである。

 

その理由をリシャールは次のように説明する。

空虚で宙ぶらりんな感受性の状態が永く続けば、それを享受する自我の存在そのものが脅かされるであろう。感覚が涸れるにつれて、意識は鈍磨し、存在は惰眠状態に陥るおそれがある。そういうわけで、拡散した感覚は、同時にそれを受け入れる意識を刺激し、苛立たせなければならない。

おそらくヴェルレーヌは狂気に囚われながらもいまだ完全には正気を失なってはいない。狂気に囚われた者でありながらも、正気を保ったままで、彼はかろうじて意識のゼロ・ポイント、境界線の上、「縁」の上に留まっている。かろうじて垣間見るだけの新たな「自己」をもぎ取ってくることができないままで。

ネルヴァルやランボーボードレールほど意志が強く無い彼は最後まで冒険をやり通さない。『叡智』[Sagesse]と共に、彼は立ち止まり、臆病風に吹かれてあとずさりする。日常性に戻り、すでに名づけられたものへ、限定された個人の生活へと立ち帰る。真に自己を失おうとせず、完全に消滅し去った揚句に再び自分を見出すであろうあの極限に至ろうともしなかったばかりに踏み違えた、一人の人間の悲劇なのである。

だがむしろ、ここでのヴェルレーヌの課題は、たとえ全てが無残に終わるとしても、このどっちつかずの茫漠たる世界の境界に止まりつつも、かろうじて正気を保ち続けることにある。


確かに意志の強いランボーならば、そこで立ち止まらずにもっと遠くまで行くことができたのかもしれない。けれども、ヴェルレーヌのように冒険を最後までやり通さずに「縁」の上に立ち止まったままでいることも、それはそれでまた一つの才能ではないのか。

 

いずれにせよ、問題は、日常/非日常の境界線を単に突破することにはない。むしろ問題は、いかにして非日常の境界線を「勝利者として」通り抜けるかにあるからだ。ヴェルレーヌは、深淵の中で正気を保ったままでいるために、まどろみが本当の眠りに陥るのを引き止めるために、漠たる感覚の広がりの中にひび割れをつけ、亀裂を作り、不均衡面を刻み込むことで、一連の不協和を自らの詩世界に招き入れる。

従ってヴェルレーヌの成功は、ひたすら不確定なものの享受と、極端な感覚の鋭敏さの享受とに同時に人を誘うような、一種の呪文を作り出したところにある。〈非常に茫漠としていると同時に鋭い一瞬〉、これがヴェルレーヌの夢想が場所を占める典型的な瞬間なのである。

〈漠〉と〈確〉ーヴェルレーヌの風景は漠然とした淡さと苦々しい鋭さという相矛盾する調子が同時に分かち難く含まれているような風景である。こうした鋭さと淡さを兼ね備えた気分を彼は一言、〈味気なさ〉[fadeur]と呼んでいる。〈味気なさ〉は単なる無味乾燥[insipidite]とは異なっている。むしろそれは、「神経を苛立たせる」*2ような無味*3であり、枯れたもの・萎んだものがなお死に絶えることを拒んでいる状態であり、

この異常な残留磁気のせいで一種の新たな生命を帯びるのである。それはどことなく曖昧な曇りを帯びた生命で、無味とは言ってもその一歩手前のもの、ともかくそれとは異なったものではないかと推測されるのである。

味気ない気分・味気ない思いーそれは単なる無関心と同じではない。むしろそれは、有ラヌモノに生じる断末魔の抵抗、有ラヌモノが感覚を誘惑し、一種の嫌悪感を掻き立てながらも自らがなお有ルことを認めさせ、気を引かせるための手口なのである。

 

ヴェルレーヌの詩を裏声で走り抜けて行くのはこの〈味気なさ〉の気分であり、彼の詩を、慄えるというよりかすかに揺らめく、人の心を揺するというより甘やかす詩たらしめているのもおそらくこの気分なのだろう。

 

詩と深さ (リシャール著作集)

詩と深さ (リシャール著作集)

 

参考 

マラルメの想像的宇宙

マラルメの想像的宇宙

 

 

 

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

 

 

 

 

*1:「特殊に対立する一般や、限定に対する非限定や、有限に対立する無限は、それ自体が限定されたもの、対立の一方の項をなすにすぎない以上、相手からの限定を受けざるを得ない」

ヘーゲル哲学史講義』

*2:

*3: