プロティノスについて
プロティノス*1とその学派について書かれた以下のテクストを流し読みした。
- ベルクソン『ベルクソン講義録Ⅲ』Ⅳ 霊魂論講義 第3講 「プロティノスにおける霊魂論」
- ベルクソン『ベルクソン講義録 Ⅳ』Ⅰ 「プロティノス講義」
- 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第二巻 神秘哲学』第2部第4章 「プロティノスの神秘哲学」
- ヘーゲル『ヘーゲル哲学史 中巻』第三篇 「新プラトン派」
- ピーター・ブラウン『古代末期の世界 -ローマ帝国はなぜキリスト教化したのか?-』第2章 「ローマ帝国と宗教」
- 水地宗明・山口義久・堀江智編『新プラトン主義を学ぶ人のために』
以下では、プロティノスの生涯およびその思想の歴史的な位置づけ、並びに彼が実質上の創始者となったアレクサンドリア学派(新プラトン主義)の後世への影響について忘れないうちに簡単にまとめておく。
プロティノスの生涯
西暦205年にエジプトの地方都市リュコで生まれたプロティノスが「哲学への愛に燃え立った」のは28歳の時で、彼は当時の大きな学問的運動の中心地であったアレクサンドリアに遊学し、アンモニオス・サッカス*2に師事して11年間に渡り哲学を研究した。三世紀中葉のアレクサンドリアでは文献考証的な学問が育成されていた。ピュタゴラスやプラトンやアリストテレスに関する数多くの注解がそこで生まれ、そうした文献考証的なアレクサンドリアの風土は古典古代のさまざまな哲学書を註釈するプロティノスの講義のスタイルを決定づけることになった。アレクサンドリアから戻ると彼はローマに定住した。40歳の時だった。彼はこの地で学校を開設したが、そこでの教育は大きな成功を収めている。数多くの元老院議員が彼の授業を聴講し、皇帝ガリエヌス*3やその妃サロナもプロティノスを尊敬したと言う。
プロティノスは称賛の念を引き起こしただけではない。周囲の人々にとっては俗世を超越した神的な存在と映ったようである。プロティノスの弟子であり良き理解者でもあったポルプュリオス*4は読心術とでも言うべきものを彼に認めている。ポルプュリオスが自殺しようと思ったとき、プロティノスはそれを見抜いてシチリアへの旅行を勧め、そこでポルプュリオスは立ち直ることができた。
ポルプュリオスはまた、魔法を解く力をも彼に認めている。エジプトのある司祭が悪魔を呼び出してくれとプロティノスに頼んだとき、登場したのは神だった。なぜなら、実際彼に伴っていたのは神だったからである。
ー『ベルクソン講義録Ⅳ』P12
プロティノスにとっては神的なものと接触し、それと合一することが人間に許された究極の浄福であったことは言を待たない。彼自身もその生涯において少なくとも四度の法悦を経験している。プロティノスは270年にローマで66歳の生涯を終えた。彼の最後の言葉は「私は私の内なる神的なものと万物の内なる神的なものとを結びつける努力をしている」であったと言う。
『エンネアデス』
プロティノスの著作は主として聴講者の質問に答えるという形を取っている。それらは晩年の16年間に書き記された。現在にまで伝わっている論文集『エンネアデス』は、301年にポリュプュリオスが編集し公刊したものであり、彼はプロティノスが書き残した各論文の主題の類似性に着目しながら、総じて簡単なものから難しいものへ、短いものから長いものへと移っていく九篇の論文から成る六つのグループをまとめあげた。ポルプュリオスはこれら九篇で一組のグループを「エンネアス(九つで一組みのもの)」と呼び、その複数形である『エンネアデス』が後世においてポルプュリオス編『プロティノス全集』のタイトルとみなされるようになった。
ヘレニズム
プロティノスが書いたものを熱心に読んだのは、厳しく自分を律したおかげで晩年に成功を収めながら、それでも安心立命できないでいる人たちだった。「肉体をまとっていることを恥じてい」たプロティノスと同じく、彼の取り巻き達もまた、霊魂がなぜ肉体と結びつき堕落することになったのかという問題に悩まされていた。彼らは自分たちのことをヘレネス(ギリシア至上主義者)」と呼び、自分たちの考え方のことを「ヘレニズム(ギリシア至上主義)」と呼んでいた。
ヘレニズムは差し当たり、知的な折衷主義、漠たる道徳主義、宗教的には異教的、精神的にはギリシア的な文化として特徴付けることができるだろう。ヘレネスは総じてプラトン以来の伝統的「教養[παιδια]」と深く結びつき、古代末期に東方から伝来したグノーシス派やキリスト教徒の考え方を受け容れようとはしなかった。プロティノスは「エネアス」Ⅱ・9においてグノーシス派の論者を論駁しているし、彼の弟子の一人であるアメリオスもまた、グノーシス派のゾストリエンを論駁する40冊の書物を著している。
キリスト教批判の第一線でもプロティノスの後継者たちは活躍した。ポリュプュリオスは広範な学識に基づいたキリスト教批判を展開しており、その批判は19世紀のキリスト教批判に匹敵する程の水準に達している。また、ポリュプュリオスの弟子だったイアンブリコス*5は、一時的ではあるもののキリスト教徒に勝利した。と言うのは、キリスト教を国教化したコンスタンティヌス帝*6の甥にあたるユリアヌス帝*7をヘレニズムの信奉者に仕立て上げたからである。
プロティノスが身を置いたヘレニズムという保守的な環境は彼に決定的な影響を及ぼした。彼は当然のことながら、東方からの文化的侵略に対してギリシア哲学の総体を対置するよう促された。「ただし、単に並置によってことを運ぶのではなく、ギリシア哲学の思想の地下深くを」掘り下げることで彼はそうしたのだが、「その結果プロティノスは、この思想を湧出せしめた源泉それ自体をも湧出させた程だった」。
後世に与えた影響
ルネサンス期においてギリシア古典期の教養が復活できたのはヘレネスたちのおかげである。キリスト教が国教化された後もアレクサンドリア学派のプロクロス*8がギリシアの神々を称える『神学原論』を書いているし、ギリシア古典期の哲学の最良の部分を受け継いで中世ヨーロッパに伝えた聖アウグスティヌス*9や否定神学の創始者の一人であるディオニシウス・アレオパギタ*10にとってもプロティノスの哲学が重要な意義を果たしている。
プロティノスを実質上の創始者とするアレクサンドリア学派(新プラトン主義)が後世に与えた影響は計り知れない。12世紀に至るまでキリスト教圏やイスラム教圏でギリシア古典期の哲学だと信じられていたのは、実は古代末期においてヘレネスたちが復活させた哲学だった。ルネサンス期の西欧において復興されたプラトンもまた、ギリシア古典期のプラトンそのものではなく、ヘレネスたちが復活させた新プラトン主義のプラトンだったのである。
参考
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*1:205-270年
*2:175-243年頃
*3:在位253-68年
*4:234-305年
*5:240-325年
*6:272-337年
*7:331-363年。古典的教養を身につけ、ヘレネスたちの代弁者たちであった彼は、帝位に就いた後に異教を復活させてキリスト教を転覆しようと専心したが、363年にペルシャ遠征で戦死した。享年32歳。傷口からしたたる血を空に向けてほとばしらせながら彼が残した最期の言葉はよく知られている。「ガリラヤ人(キリスト教徒の蔑称)よ、汝ら勝てり。」
*8:412-485年
*9:354-430年
*10:6世紀頃初頭から東方キリスト教会に現れ、後に西ヨーロッパにも伝えられた文章群の著者と言われる人物。使徒パウロから受洗したアテネのアレオパギタ(裁判官)デュオニュシオスがそれらの文書の著者と信じられてきたが、現在ではプロクロスの影響を受けた人物であることがほぼ定説となっている。