学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

哲学の非経済的性格について/デリダ『友愛のポリティックスⅠ』を読む

 『友愛のポリティックスⅠ』は、デリダが研究ディレクターを務めたパリの社会科学高等研究院(EHESS)で1988年から1989年に行われたセミナー*1の第1回講義の講義原稿に、大幅な加筆修正を施して出版された書物である。本書の執筆が開始されたのは1994年であり、この年のデリダは、「数多くのプロジェクトを抱えて倒れそうな程に」忙殺されていた。ロンドンから帰国してすぐ、彼はマウリツィオ・フェラーリ*2に宛てた手紙の中で次のように愚痴っている。

わたしのほうは、かつてないほど忙殺されています(特にあの『友愛のポリティックス』、7月の終わりまでに書き上げると約束してしまったあの呪われた書物のせいです)。この夏、他の仕事、特に〔カプリでのセミネールに関わるテクスト〕『宗教』*3もあるなかで、どうやったらこの状況を切り抜けられるのか、分からないのです!」

 

 さて、この「呪われた書物」は政治的なものと家族的なものの関係を主題として論じている。『政治的なものの概念』*4は伝統的に家族のモチーフ、とりわけ兄弟のモチーフと密接に結びついてきた。例えば、フランス革命のあの有名なスローガン「自由・平等・博愛=友愛=兄弟愛[flaternite]*5」はまさにそうだし、第二次世界大戦後の日本の民主化や日米同盟は言うに及ばず、民主主義が「兄弟的同盟関係」なしに規定されることは稀だった。東浩紀の最近の著作『ゲンロン0 観光客の哲学』もまた、目次を読めば明らかなように、政治哲学と「家族の哲学」の固い絆を隠そうとはしていない。

 近代の政治思想は、家族から市民社会を経て国家へと至る弁証法を考案したのだが、国家へと至るいかなる弁証法も、この弁証法によって止揚されるものから決して切り離されたりはしなかった。国家的なもの≒政治的なものが、家族や市民社会から完全に切り離して考えられることはなかった。

 本書においてデリダは、数ある『政治的なものの概念』の中から友愛(フィリア)という"特権的な"テーマを選択し*6プラトン*7アリストテレス*8からキケロ*9やアウグウスティヌス*10を経てモンテーニュ*11へと至る友愛[φιλια]に関する古典の数々を読み直した上で、それらの伝統的な言説のうちに兄弟[αδελφος]のモチーフが形を変えて「過度なくらいに規則的に」回帰して来る事に着目し、次のように問いかける。

主要な問いは、まさにこの領域における哲学的な正典のヘゲモニーに関わるものである。いかにしてその正典は頭角を現したのか。あの力はどこからその正典へとやってきたのか。いかにして正典は、女性的なるものあるいは異性愛、女性同士の友愛あるいは男女間の友愛を排除してきたのか。そこではなぜ友愛の女性的な、あるいは異性愛的な経験が本質的なものとして考慮されないのか。なぜここまでエロス〔性の衝動〕とフィリア〔友愛〕のあいだの不均質性があるのか。

 と言うことで、デリダのこの試論の賭け金=争点は兄弟であり、兄弟愛、換言すれば、男性同士の友愛である。という事はつまり、ーデリダはなぜか決してそのことを表立って口にはしないのだがー暗黙理に男性同士の同性愛も一連の脱構築的分析の射程のうちに収められていることになるだろう。友愛についての正典の著者たちが決して語ろうとはしなかった兄弟愛の家族主義的で男性中心主義的で同性愛的な諸前提を、さらには本書で「親子関係の図式論」と名指されるもの、すなわち、祖先・種族=種類・性[Geshlecht]・血・生まれ・自然[φυσις]=本性[natura]の概念セットを、デリダは執拗に問い詰めていく。

なぜ友は兄弟のようであるのだろうか?生まれを同じくする分身が持つこの近接性を越えて行くような友愛を夢想してみよう。親族関係を越えて行くような友愛を。親族関係とは、もっとも自然なものでありながら同時にもっとも不自然なものである。

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P5

 デリダの考えに従えば、親族関係一般にはある種の「不自然なもの」、『ユリシーズ』でジョイスが言うような「法律上の虚構」が必ずと言っていいほど含まれている。純粋に実在的な系譜学的絆など有りはしない。それは「夢見られた条件」でしかなく、徹頭徹尾デリダが「幻想」と呼ぶものの次元に属している。家族の系譜は「つねに定立され、構築され、導出されるのだ」。本書において、父で有ることの虚構性は当然のこととして前提され疑われることは無い。

そしてそれはまた、フロイトまで含む人々がそれについて何を言ってきたにせよ、母で有ることについても真である、かつてなく真である。「誕生」のあらゆる政治、あらゆる政治的言説は、この点について、信でしかあり得ないものを濫用しているのだ、一つの信にとどまると他の人々なら言うであろうものを。政治的言説において誕生、自然あるいは国民にーさらには人間的兄弟愛の諸国民あるいは普遍的国民にさえー訴えるあらゆるもの、この家族主義のすべては、この「虚構」を再自然化することにある

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P154

 兄弟もまた虚構の再自然化の例外ではない。

ーでも、兄弟とは何だろう、どう思う?
ーうん、兄弟とは何だろう?人は兄弟に生まれつくのだろうか?
ー親愛なる友よ、そいつは馬鹿げた問いじゃないか、そうに決まってるさ。
ーそうかな。自然のなかで兄弟に出会った事があるかい?自然のなかで、いわゆる動物の誕生の際に?兄弟性には法と名前が、象徴が、言語が、契りが、誓約が、言語的なもの、家族的なもの、そして民族的なものが必要だ。
(中略)親愛なる友よ、兄弟とは常に盟友である兄弟、義兄弟=法律上の兄弟[blother in low]、養子縁組による兄弟[foster brother]だとは思わないか?
ーそれに姉妹は?彼女も同じ事例に収まるのだろうか?兄弟性の一事例なのだろうか?

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P232

 ありとあらゆる兄弟関係は「法律上の虚構」を含み込み、デリダによれば、自然ナ兄弟など存在しない。誰かと兄弟≒友で有るためには、何よりもまず「法」や「契り」や「誓約」が必要であるとデリダは言う。まるで「法」や「言語」の外では兄弟や姉妹を想像し得ないかのように。

 

 だが、それにしても、デリダが通りすがりに指摘する「誓約による兄弟」とは具体的にどう言うものなのだろうか?「誓い合った兄弟」、Schwurwbruderchaft[兄弟になるという誓約]とは一体何なのか?それはおそらくこのエントリーの冒頭で引用した本書の「主要な問い」に関わるものであり、都市国家[πολις]の誕生=起源に関わるものでもあるのだが、この問題のアウトラインを明瞭に理解するためには、本書を超えて社会学の知見が必要にして不可欠となるだろう。少なくとも系譜学的かつ家族中心主義的な兄弟愛の図式の脱構築的分析においてデリダが生涯手放すことのなかったエミール・バンヴェミニストの『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』*12と同程度には。

 ここで家共同体[Hausgemeinschaft]についてのマックス・ウェーバーの不可欠な示唆を参照しておこう。以下に見られる標識は、これから先に必要とされる諸々の作業の巨大さと錯綜の合図である。兄弟のモチーフを分析する上で「法」と「名」と「象徴」と「言語」だけで事足りると考える哲学者の軽率さと傲慢さに、慎重さと謙虚さとを対置するには差し当たりこれらの標識だけで十分だろう。

 このエントリーは、いまだ極めて不明瞭な諸領域における予備的と言えるか言えないか程度の一歩をあえて踏み出そうとするものに過ぎない。デリダにとって「忌々しき」存在であるウェーバー*13の諸論考をデリダの意に反して全文引用し、この上なく貴重な知に属するものを綿密に捉え返し、『友愛のポリティックス』の記述と突き合わせなくてはならない。

 以下ではただそこから、このエントリーの趣旨の一貫性にとって、とりわけ兄弟の都市社会学的意味論に関わるものにとって、内容の面からも方法論的規則の面からも最も重要になるであろうものだけを取り上げる。まず第一に問題となるのは、一言で言えば、共同体[gemeinschaft]としての家族に不可欠な構成要素としての経済的なものである。

永続的な性的共同関係(ゲマインシャフト)によって支えられている、父・母・子供の間の関係は、われわれにとって、とくに「始源的なもの」のようにみえる。性的共同体と少なくとも概念的には区別しうる「家計」の共同性、つまり経済的な扶養共同体[Versorgungemeinschaft]という概念を別個に立てた場合、後に残された、夫と妻との純性的関係、および父と子供の生理的にのみ基礎づけられた関係が、ともかくも持続するかどうかはきわめて動揺的で疑わしい。なぜなら、父子関係は、父と母との間に安定した扶養共同体を欠くのなら、存在しないのが普通であり、またたとえ存在したところで、常に大きな影響力を持つとは限らないからである。性的交渉という地平に立脚した共同体関係のうちで「始源的」なものと言えば、母と子供の関係のみである。母と子供の関係は一つの扶養共同体であるから、子供が自力で十分な食糧探しをなしうるまで存続するのが自然の理に叶っている。

すぐその次にあるのが、兄弟姉妹の間の養育共同体[Aufzuchtsgemeinschaft]である。ミルク仲間[ομογαλακτες]というのは、最も親しい親戚に対する特別な名称である。ここでも決定的なのは、共通の母胎という自然に属する事実ではなく、むしろ経済的な扶養の共同性なのである。特殊な社会形象としての「家族」の生成を問題にするや否や、あらゆる種類の共同体関係は、たしかに、性的および生理的な関係と交錯する。歴史的にきわめて多義的な概念は、個々のケースにおけるその意味が明晰化されてはじめて有用なものとなる。このことについてはのちに述べよう。

マックス・ウェーバー『経済と社会』第2部第3章第1節(『世界の名著61ウェーバー』P554〜555)

 純粋に性的な関係のみに支えられた父・母・子供のフロイト的三角関係を「始源的なもの」とみなすことへの懐疑という点でウェーバーデリダと同じ前提を共有しているようにみえる。だが、ウェーバーデリダが単にほのめかすだけで兄弟を巡る一連の脱構築的分析の中で表立っては顧みようとはしなかったもの、すなわち経済的なものについて率直に語っている*14。より正確に言えば「政治的なものの敵」としての経済的なものについて語っている。

兄弟は同じ母胎から生まれる限りで自分たちを兄弟と名指すのではない。兄弟で有ることにとって共通の母胎という「自然に属する事実」は「決定的」な要因ではない。むしろ、「社会」に属する事柄、換言すれば、同じミルクで育った仲間であることが兄弟で有ることを基礎付ける。要するに、「家計[οικος]の共同性」や「経済的な扶養の共同性」が兄弟で有ること、さらには共同体としての家族関係一般を基礎付けるのである。

 誰かと誰かが兄弟で有るためには、「法と名前が、象徴が、言語が、契りが、誓約が」あるだけではまだ十分ではない。友愛(フィリア)をめぐる哲学的言説の脱構築的分析においては、おそらく家計=炉[οικος]のテーマ系の導入が、経済的なものの導入が「決定的」な役割を果たすことになるはずである。

 

フィリアの意味論的焦点に炉があるとすれば、そしてフィリアがオイケイオテースなくしては成り立たないとすれば、あまりこじつけめくことなくこう言うことができるだろう。本書を方向づける問いとは〔…〕炉=家なき友愛の問い、オイケイオテース*15なきフィリアの問いだと言うことになろう*16〔…〕非エコノミー的な友愛、それは可能だろうか?それ以外の友愛があり得るだろうか?それ以外の友愛があるべきだろうか?。

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P241

 

 以上である。『友愛のポリティックスⅠ』が241頁もの紙幅を割いてようやく辿り着いた場所を、『経済と社会』はわずか2頁であっさりと後にする。241頁を超えてなお「呼びかけ」のままに留まろうとする際限の無い哲学的分析をわずか2頁にまで節約=縮減する「社会学的分析」のこの経済性、哲学者の饒舌と社会学者の寡黙さのこの興味深い対比は多分に「概念」の経済(=節約)的性格に関わっている。

 

そして同時にまた、この対比は、「概念」でも語でもない差延[differance]の時間かせぎ的性格にも関わっている。デリダの本を読むといつも不満に思うのだが、何よりもまず第一の不満は、脱構築には時間=金がかかることである*17。『友愛のポリティックス』*18は、『世界の名著61ウェーバー*19に比べて1頁当たりのコスパが悪いのだ。脱構築的分析のこの非経済的性格、浪費ぐせ、高コスト体質は、おそらくまだ誰にも真っ正面から問いに付されたことはない。生産性の向上を常に追い求める上司が遅々として仕事の進まない出来の悪い部下を叱りつけるように、なぜ哲学的分析は社会学的分析に比べてこうも時間がかかるのですか?とこの本の著者を問い詰めることもできるだろう。

 

最後に、パリの或る「呪われた組織」に必死に自分を売り込んで研究員として就職したばかりの哲学者による*20社会学的分析についての今となっては希少=高価な証言を引いてとりあえずの終わりとする。

デリダ 社会学的分析に用いられる概念が、マルクス派、ウェーバー派、その他いかなる理論に基づくものであれ、それらは概念である限りにおいて脱構築〉の対象にならざるを得ず、またアカデミックな制度に組み込まれている限りにおいて、やはり〈脱構築〉の対象にならざるを得ない。この点で私は社会学的分析の限界を指摘しておきたいのです。
浅田彰 なるほど。
ー座談会 ジャック・デリダ×柄谷行人×浅田彰『超消費社会と知識人の役割』*21

 

参考
友愛のポリティックス I

友愛のポリティックス I

 

 

 

世界の名著 61 ウェーバー (中公バックス)

世界の名著 61 ウェーバー (中公バックス)

 

 

 

主体の後に誰が来るのか?

主体の後に誰が来るのか?

 

デリダ『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算ージャン=リュック・ナンシーとの対話』収録。

注 

*1:デリダのセミナーは彼が社会科学高等研究院の教授に就職した1984年から2003年までの19年間セミナーを開講された。

「哲学の国籍=国民性と哲学のナショナリズム
1.国民、国民性=国籍、国民主義1984-1985)
2.ノモス、ロゴス、トポス(1985-1986)
3.神学-政治的なもの(1986-1987)
4.カント、ユダヤ人、ドイツ人(1987-1988)

「友愛の政治」
5.友愛の政治(1988-1989)

6.他者を好んで食べる(カニバリズムの修辞学)(1989-1990)

7.他者を食べる(1990-1991) 

「責任=応答可能性の問題」

8.秘密に責任を持つ(1991-1992)

9.証言(1992-1993)

10.証言(1993-1994)

11.証言(1994-1995)

12.敵対/歓待(1995-1996)

13.敵対/歓待(1996-1997)

14.偽証と赦し(1997-1998)

15.偽証と赦し(1998-1999)

16.死刑(1999-2000)

17.死刑(2000-2001)

18.獣と主権者(2001-2002)

19.獣と主権者(2002-2003)

*2:1956-現在。イタリアの哲学者。新実在論

*3:『宗教』とは、「単なる理性の限界内における宗教の二源泉」というサブタイトルを持つ宗教論『信と知』のことである。1994年2月末、「最も明白でありかつ最も曖昧な、宗教」をテーマについて意見交換をするために、デリダ、ガダマー、ヴァッティモ、フェラーリスなど数名の哲学者がイタリア南部のカプリ島のホテルに集まった際の講演原稿に加筆修正を加えて出版された。

*4:カール・シュミットの著作『政治的なものの概念』を参照。

*5:鳩山由紀夫による解説『友愛とは』を参照。

*6:デリダにとって友愛[φιλια]は、哲学[φιλοσοφια]の根本構造を規定する要素として特権的な意味を持つ。その部分を読んでみよう。

われわれは、ここで、われわれが特権化する観点から見て、もっとも重要なもの、すなわち哲学の問いに限定しよう。哲学としての友愛、友愛としての哲学、哲学的-友愛、友愛的-哲学、友愛-哲学は、〈西洋〉において、つねに切り離しえない概念だった。何らかのフィロソフィアなくして友愛はない、フィリア〔友愛〕なくして哲学〔フィロソフィ〕はない。友愛-哲学。最初から、われわれは、政治的なものを、この連結符の傍らで検討している。

友愛と哲学の結び付きは、フィロ(友愛)とソフィア(知恵)の二つの語から成る哲学[philosophia]の語源からして明らかであり、フィロソフィアのフィロ(友愛)をどのように解釈するかという問題は、いつの時代も哲学者たちの「傍ら」にあり、謎に満ちたこの問いかけは彼らの内なる問いであり続けてきた。この点について、デリダと同時代人のジル・ドゥルーズは次のように語っている。

哲学という語に含まれた「友愛」にどのような意味を持たせるべきなのか。プラトンでも、ブランショの『友愛』という本でも、友愛との関係で思考の問題を取り上げていることに変わりはないが、果たして「友愛」の意味は同じなのだろうか。

 

友愛をめぐる問いにはまだ答えがありません。哲学者は賢人ではなく、友人である、だから友愛も、当然ながら哲学の内なる問いだということになるわけですが、では、誰の友人であり、何の友なのか。コジェーブやブランショやマスコロは、友人をめぐる問いをとらえ直し、思考そのものの核心にこれを位置づけています。謎に満ちたこの問いを全身で受け止めるのでなければ、そして困難は承知の上でこの問いに答えるのでなければ、哲学の何たるかはわかりようがないのです。
ドゥルーズ『記号と事件』収録「哲学について」

もし仮に、哲学者が賢人[σοφος]ではなく友人であるならば、哲学者は一体誰の友人であり、哲学は何の友なのか。ドゥルーズはこの問いに答えて、哲学者が友として接する相手として音楽を挙げている。

いずれにせよ、哲学の本質には友愛が帰属し、友愛のうちには常にすでに哲学が有る。哲学と友愛ー相互に帰属し合う両者の関係に 固有な点をあえて『形而上学』的に表現するならば、ακολούθησις[互いに随伴すること]として、さらにまた、αντιστρεφειν[互いに向きあうこと]として把握することができるだろう。哲学[φιλοσοφια]と友愛[φιλια]は、どちらも他方の後を追いかけ、一方の有るところには他方もまたすでに姿を現しており、両者は互いに随伴し合う相互帰属関係にある。これはつまり、哲学と友愛は、互いに相手から目を離すことは決してないということである。

*7:プラトン『リュシス』、『メネクセノス』、『国家』

*8:アリストテレス『エウデモス倫理学』7巻、『二コマコス倫理学』8・9巻

*9:キケロ『ラエリウス、友愛について』

*10:アウグスティヌス『告白』

*11:モンテーニュ『友愛について』

*12:バンヴェニストの『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』への言及は、1991年以降、年を追うごとに目に見えて頻繁になり、以後最後のセミナーまで途切れることはなかった。

*13:「しかし、将来いかにして、どの媒体〔メディア〕、来るべき解釈学が迎えるどんなシュライエルマハー[Schleiermacher]に差し向けられた、どのヴェールを、織物、fichu WWWeb[忌々しきWWWeb]を相手に、この機織り術の職人(『ポリティコス』のプラトンならばヒュパンテースと呼ぶでしょう)が格闘することになるのか、私たちは知りません。来るべきヴェーバー[Weber]が、その上に署名し、そこで私たちの歴史へ署名を書き込み、この歴史を教えようとするであろう fichu Web[Webという fichu]が何か、私たちには決して知ることはできないのです。」

デリダ『異邦人の言語』

*14:“社会空間”を性的なもの/非性的なもので直和分割する際に、法と言語を無前提に等閑視して、経済的なものを排除するような学説は社会学の内部にも存在する。例えば宮台真司『彷徨える河』論を参照。

*15:オイケイオテースはたいていconvenance[適合、ぴったりしていること]と翻訳される。親しいもの(オイケイオス)。

*16:哲学の主導的問いが存在の問いだとすれば、デリダの問いは、家なき存在の問いと言うことにもなるだろう。

*17:友人と友愛を育むのに時間がかかること、友愛と時間の関係については『友愛のポリティックスⅠ』P33-37を参照。

*18:4200円。298頁。

*19:1800円。720頁。

*20:デリダが「呪われた組織」ENS(高等師範学校)を退職してもう一つの「呪われた組織」EHESS(社会科学高等研究院)に就職したのは、1983年12月末から1984年初頭にかけてのことである。この時期のデリダのアカデミックな研究機関への就職活動の詳細についてはブノワペータース『デリダ伝』P477〜480を参照。

*21:朝日ジャーナル1984年5月25日収録。「現代思想がTシャツになる」と聞いて無邪気に喜ぶデリダが垣間見れる貴重な記事である。

デリダ脱構築〉は最大のマーケットを日本に見出したことになりますね(笑)