学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

『ゲンロン7』収録の鼎談「接続、切断、誤配」の感想。

『ゲンロン7』の「哲学の再起動」特集に収録されている國分功一郎×千葉雅也×東浩紀の鼎談「接続、切断、誤配」を読んだ。文化的な運動である限りは近代を批判していられたポストモダニズムも、政治運動に応用された瞬間に近代的な主体のモデルを使わざるを得なくなったこと等、鋭い指摘がいくつもあっておもしろかった。以下、鼎談の後半で特に気になった点をメモ。

 

 「明日から本気出す」論というのは、基本的に遠近法的倒錯で成立している。事後的に振り返ってしか見えるはずのない可能性を、まだその時点が来ていない現時点で勝手に先取りし、いまここに存在しているかのようにふるまう行為です。ほんとうはすべての可能性なるものは、本気を出して成功したあと、事後的に振り返って「ああ、あのときすでにポテンシャルがあったんだな」と発見できるものでしかないのに、その未来を勝手に先取りして可能性の現前を宣言している。そこが滑稽なんですね。

 ー東浩紀編『ゲンロン7』P26

上の発言の内容自体に詳しく立ち入らなくとも、次のことは明らかに見て取れる。それは、可能性[potentia]がいつ・どのようにして・現実に眼の前に有りうるのかということが話題になっていると言うことである。

この発言は、可能性が《で有るか》ではなく、可能性が《いかに有るか》、可能性が眼の前に有るその有り様に関わっている。可能性の本質[essentia]ではなく、その現実性[existentia]を際立たせて取り出すことが出来るかどうかが問題なのだ。

東浩紀はこの問題を独特の仕方で否認する。彼にとって可能性は、二重の意味で有ラヌモノ、現実には存在しないものだからである。それが有る「かのように」「見える」のは、ただ見かけの上でそう「見える」だけのことにすぎない。

東にとって可能性は、まず第一に、「事後的に振り返ってしか見えるはずのない」ものである。「可能性なるもの」は、何らかのポテンシャリティ(可能性)が発揮され(=本気を出し)た後、「事後的に振り返って」はじめて「ああ、あのときすでにポテンシャルがあったんだな」という形で発見できるようなものでしかない。したがって、可能性は、それが見出された時点では常にモハヤ…ナイという意味で有ラヌモノである。

第二に、可能性は「まだその時点が来ていない」もの、まだ私たちの眼の前に現前してはいないものである。それ故、可能性は常にイマダ…ナイと言う意味でも有ラヌモノである。 

その結果、可能性は、イマダ…ナイもの(未来)であると同時にモハヤ…ナイもの(過去)でもあり、「いまここ」には決して現前し得ないものと言うことになるだろう。可能性は東にとって二重の意味で有ラヌモノであり、かつて現前した試しもないし、今も現前しないし、今後も決して現前することがないような奇妙な代物である*1。それはいつも「後からしか分からない」。言わば、想起の対象でしかない。

  可能性は有らぬ・可能性はつねにすでに私たちの眼の前から逃れ去っている・可能性は事後的=遡行的にしか知り得ないー可能性が現前すること、すなわち、可能性が現に眼の前に存在することを執拗に否認する東のテーゼは、古代ギリシアのメガラ派のテーゼを彷彿させる。いやむしろ、メガラ派にはかろうじて遂行(抑止の解除)という現実化の契機があったのに対して、東派の議論には現実化の契機がいっさい無いのだから、メガラ派のテーゼをより過激にしたものと言えるのかも知れない。いずれにせよ、メガラ派のテーゼとプラトン・アリストテレスによるその論駁についてはずいぶん前に書いたことがあるのでここでは繰り返さない。

 

            ◆

 

今回注目しておきたい点は、可能的なものの現実化についてのメガラ派類似の議論と事後性[Nachtragjichkeit]の論理*2の興味深いカップリングが、最初期の著作である『存在論的、郵便的』の冒頭部にまで遡って見出すことができることである。ここではただ、問題の所在を明確にするために『存在論的、郵便的』の該当箇所を確認するだけに留めておこう。

フッサールの〕この論理は常識的に考えてきわめて強い。確かに歴史は一つしかないし、理念的対象もまた事後的にしか、つまりそれが現実化(歴史化)してしか知られることがない。とすればフッサールの議論は現実的に正しく、その批判は難しい。

 -東浩紀存在論的、郵便的

幾何学の起源』におけるフッサールの「現実的に正し」い議論に抗うために、手紙が「行方不明になる危険につねに晒されている」ことの指摘、かの有名な郵便物の誤配のモチーフが『存在論的、郵便的』に登場するのは引用箇所のすぐ後である。郵便的脱構築の全体を支える事後性の論理は、根本的には、可能的なものが現前することに対する執拗な否認によって要請されている。

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メガラ派類似のテーゼ・事後性の論理・郵便物誤配のテーゼ。以上の三位一体を論駁するためには、差し当たり、可能的なものの現実化の問いを仕上げる必要がある。より詳しく言えば、現実には存在しないけれども「いまここに存在しているかのように」見える可能性を「事後的に」描き出すのではなくて、イマダ遂行されてはいナイが、それにもかかわらず、実在的であるような可能性の有り方を「先取り」とは別の仕方で描き出す必要がある。換言すれば、イマダ・モハヤ現実化の過程にはナイにもかかわらず、ただ単に可能的なものと考えられただけではなくて、現実に現前している可能性はいかにして有るのかを問わなければならない

 一連の問題の背後には、おそらく哲学することの根本問題が隠れている。それは、ある意味で有ラヌモノノ有への問いであり、否定的なものの本質と存在一般の本質への問いでもあるからだ。メガラ派が提起しアリストテレスがつけた現前の『形而上学』への道筋は、20世紀前半にハイデガーによって辿り直され、今のところアガンベンが引き継いでいる。ところが、あたかもそんな哲学史など鼻から存在しないかのように「事後性」の名の下に可能的なものの現実化を単なる"遠近法的倒錯"として却下する神学が至る所に存在する…。「可能的なもの自体を経験すること」ー『勉強の哲学』以後の千葉雅也が人間中心主義を回避するような仕方でポテンシャリティをどう肯定するか》という問題に着手し始めたのは以上のような背景があってのことなのだろう。

神学者たちが欲しているのは、アリストテレスの書板を決然と割ってしまうこと、世界から可能性の経験をすべて抹消してしまうことである。…可能性という範疇がいずれにせよムタカッリムーン*3たちの世界から(そしてキリスト教神学者において彼らに相当する者たちの世界から)抹消されたことは確かであり、人間の潜勢力のすべてが基礎を奪われたというのも確かである。あるのは今や、神のペンの為す説明不可能な動きだけであり、その予兆を許すものや、書板の上で待っているものなど、何もない。世界のこの絶対的な脱様相化に抗して、ファラーシファ*4たちはアリストテレスの遺産に対する忠実さを守り続ける。じつのところ、哲学とは、その最深の意図においては、潜勢力の堅固な要求であり、可能的なもの自体を経験することの構築なのである

ー ジョルジュ・アガンベンバートルビー - 偶然性について』P25

過去記事

rodori.hatenablog.com

参考
ゲンロン7 ロシア現代思想II

ゲンロン7 ロシア現代思想II

 

 

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

 

 

*1:散種の時間性

*2:事後性ーシニフィアンがまず先に有って、それについて「後から」意味が与えられること。
「言説には時間が含まれている。言説は時間の中に次元と厚みを持っている…私が一つのフレーズを言い始める時、あなたにその意味がわかるのは、私が言い終わってからである。
ラカン『セミネールV』1957.11.6

*3:神学者のこと。

*4:哲学者のこと。