学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』の感想

本書で紹介されているピーター・ティールやカーティス・ヤーヴィン、ニック・ランドやマーク・フィッシャーらによる"ネオ終末論的歴史神学"とでも呼ぶべき過激思想は、一言で言えば政治的異端である。彼らにとって、後期資本主義社会は悪夢であって、地獄そのものである。地獄を改良することなど定義上できるはずもない。できるのはせいぜい資本主義の大聖堂(カテドラル)に加速主義や新反動主義という爆薬を仕掛けることだけだ。

彼らは、資本主義のプロセスを極限まで推し進めることでその「外部」に突き抜けることを試みる。

プロセスから身を引くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェが言っていたように、「プロセスを加速すること」
- ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス

というのも、資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、抵抗することでも、批判することでも、資本主義が自己矛盾によって崩壊していくのを待つことでもないからだ。

かつてマルクスが指摘したように、資本主義、より正確に言えば、資本主義が推し進める市場経済自由貿易のメカニズムには、資本主義社会それ自体を破壊する革命的な契機が含まれている。

一般的には、今日では保護貿易主義は保守的である。これにたいして自由貿易制度は破壊的である。それは古い民族性を解消し、ブルジョアジープロレタリアートのあいだの敵対関係を極限にまで推し進める。一言で言えば、通商の自由の制度は社会革命を促進する。この革命的な意義においてのみ、諸君、私は自由貿易に賛成するのである。
- カール・マルクス自由貿易についての演説」『マルクスエンゲルス全集第4巻』

したがって、必要なことは、資本主義における労働者の疎外・脱領土化・脱コード化の諸傾向を加速することである。彼らにとって資本主義の促進は、その破壊と同義なのだ。だとすれば、そのプロセスを単に加速しさえすればいい。要するに、事態は《悪くなればなるほど良くなる[the worse,the better]》のである。

そして、国民国家や民主主義をはじめとする既存のシステムの解体を徹底的に推し進めたその先には或る未知のX、既存のスキームを逸脱する新たな何かが出現するだろう。そのXは、スティーブ・ジョブズが僭主=CEOとして君臨し、統治=経営する「企業のように運営される」参入離脱の自由な都市国家だったり(新官房学)*1、人類に友好的な知性を備えたスーパーコンピュータに意識をアップロードすること*2で肉体が朽ち果てた後も人間が知性的かつ霊的存在として永遠の生を獲得する「シンギュラリティ以降の社会」だったりする。彼らが思い描く未知のXの具体的なイメージは、ニール・スティーヴンスンの『ダイヤモンド・エイジ』アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』を読めばわかるらしい。

とは言え、この本の魅力は、以上で手短にまとめた新反動主義者や加速主義者たちの極端な主張がどれだけ常軌を逸しているかを確認するだけに留まらず、さらに進んで、これら極端な主張がそれ自体どのようにして歴史的に形作られてきたかをも手際よく追跡した点にある。例えば、ベルクソンからドゥルーズガタリらのフランス現代思想を経て思弁的実在論に至るカント主義批判の流れや、ジャングル/ドラムンベースからダブ・ステップを経てヴェイパー・ウェイヴに至るイギリスのダンスミュージックの流れが、ニック・ランドと彼が組織するCCRUの思想にどう影響したかを詳述した後半部の記述がそうだ。

とりわけ印象に残ったのは、加速主義や新反動主義の先駆者としてニーチェを挙げている箇所だ。この点については、少し前に流し読みしたノルベルト・ボルツの『脱魔術化された世界からの脱出~両大戦間の哲学的過激主義~*3という本を思い出した。アドルノの批判理論の歴史的背景を探るために、その前史であるゲオルグ・ルカーチカール・シュミットエルンスト・ブロッホヴァルター・ベンヤミンといったワイマール期のドイツの過激思想を追いかけた本なのだが、『ニック・ランドと新反動主義』と同様、ボルツもまた、極端な論理の中に脱魔術化された近代からの脱出の手段を発見した思想家の先駆としてニーチェを挙げている*4

本書のサブタイトルでは「哲学的過激主義」という言い方をしている。本書で分析した思想家たちはみな、全体を目指している。彼らはみな、簡単に妥協しないし、討論を交わす気などない。彼らは世界時計の時間を読み取り、その時間・時代を思想として捉えようとしている。彼らにとっては、思想がラディカルであることのほうが、論理的帰結より重要だったのである。
ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』P8

それ以外にも、「脱出[Ausgang、exit]」という啓蒙主義の術語*5をキーワードとして挙げている点や、ド・メーストルやドソノ・コルテスのようなカトリック保守主義や黙示録主義との隠れた関連を指摘している点でも本書とボルツの本は互いによく似ていると思う。というよりはむしろ、率直に言って、加速主義者や新反動主義者らの理論は、ワイマール期のドイツの歴史哲学をデザインだけ変えて反復(再生)しているだけのように見える。一見そう見える。

資本主義が自然の法則に従って崩壊に向かって進展することは不可避である。しかしその進展が解放へと転換することは、運命の定めではない。世界がなだれ落ちる滝に向かって進んでいることを止めることはできない。
「もし何かがひとたび問題となった場合には、それを救いうるものは、問題となっている事柄を極度に先鋭化することによってのみ、つまり徹底的に終局まで突き進むことによってのみ、生じてくるものである。」
資本主義の破局を、保守的に押しとどめるのではなく、その方向を転換するために、破局に最後まで付き従うのである。
ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』P14

引用箇所は、トーマス・マンの小説『魔の山』に作中人物ナフタとして登場するルカーチの語りの解説だが、《資本主義のプロセスを加速せよ》という加速主義のテーゼは、100年前のナフタ=ルカーチの理論を機械的に繰り返しているだけにしか思えず、あまり新鮮味を感じなかった。過去の哲学のこうした反復もまた「日本のシティポップの海外での再発見」と同様、「”時間の蝶番が外れてしまった”現在が、失われた未来の亡霊に際限なく取り憑かれていることの証左」ではないのか。もしかすると、本来異なっているはずのものが同じものに見えるのは単に目が悪いだけなのかもしれないが、少なくとも本書を一読した限りでは、↓に引いた東浩紀の最近のツイートと似たような感想を持ったので、機会があれば原典に当たって確かめてみようと思う。

https://twitter.com/hazuma/status/1145198813025460224
https://twitter.com/hazuma/status/1145200992457150465

過去記事


参考

批判理論の系譜学〈新装版〉: 両大戦間の哲学的過激主義 (叢書・ウニベルシタス)

批判理論の系譜学〈新装版〉: 両大戦間の哲学的過激主義 (叢書・ウニベルシタス)

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

  • 作者: 千葉雅也,河南瑠莉,S・ブロイ,仲山ひふみ,N・ランド,R・ブラシエ,H・ヘスター,水嶋一憲,木澤佐登志,樋口恭介
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2019/05/27
  • メディア: ムック
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現代思想 2019年1月号 総特集=現代思想の総展望2019 ―ポスト・ヒューマニティーズ―

現代思想 2019年1月号 総特集=現代思想の総展望2019 ―ポスト・ヒューマニティーズ―

*1:「国家=企業のトップに就くCEOは具体的にどのような人物が適しているのか。言い換えれば、その専制全体主義と暴力に傾斜していかないという保証が、その専制君主一人の意志に依存しているというのは、いかにも不安定で危ういシステムなのではないか。もちろん、宇宙人や超知性的なコンピュータであれば話は別であろうが・・・。この点についてもヤーヴィンの記述は十分に積極的であるとは思えない。というのもヤーヴィンは、国家=企業のトップに最も適している人間は、議論の余地なくスティーヴ・ジョブズ(!)に他ならないと断言しているからである(最近ではジョブズの代わりにイーロン・マスクを推しているようだ。」 - 木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』P86)」

*2:マインド・アップローディング

*3:邦題は『批判理論の系譜学

*4:「金属のような人物たち。真実性を極端にまで追いつめていった唯一の人物、あるいはまさに悲劇性そのもの、芸術、信仰、愛を極端にまで追いつめていった人物、一言で言えば極端な人間たちが必要なのである。…われわれの本質的な貧困は、ラディカルなものに乏しいこと、化学的に純粋な元素であるような人間に乏しいことである。」- Nietzche,SW Bd 12,S.510.Vgl.R.Schneiders Notiz in,Winter in Wien'Gesammelte Werke Bd.10,S.287.

*5:カントは『啓蒙とは何か』の中で、「自ら招いた未成年状態から人間が抜け出ること[Ausgang]」として啓蒙[Aufklärung,Enlightenment]を定義している。