学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

梅原猛の創価学会批判

美と宗教の発見 (ちくま学芸文庫)

美と宗教の発見 (ちくま学芸文庫)

本書のちくま学芸文庫版には、『創価学会の哲学的宗教的批判』という評論が収録されています。タイトルからわかるように、創価学会の教えを一個の哲学とみなしてその内在的な批判を試みたものです。

残念なことに著者が仕事上で学会のお世話になってしまったため、この批判がこのあと展開されることはついにありませんでした。しかしながら、創価学会の教えを哲学的に批判する試みは現在に至るまでほとんどなく、その意味で非常に価値のある試みだったように思います。

梅原によれば、創価学会の思想には二つの大きな源流があります。

1.新カント派の価値論
2.日蓮の生命論

初代会長の牧口常三郎によって持ち込まれたのが1、二代目会長の戸田城聖によって持ち込まれのが2です。本書の前半では1が、後半では2が、それぞれ批判的に論じられています。

今日「創価学会」と言えば2の要素を私たちはイメージしがちです。しかし、そもそも「創価」とは「価値の創造」のことです。そのことを踏まえると、2に負けず劣らず1の要素が重要なものあることがわかります。

「真理」はあくまでも認識の対象であって評価の対象ではないと考えた牧口は、「真・善・美」を説いた新カント派の価値論から「真」を追放しました。そして、「真」の代わりに「利」を導入し、「利・善・美」の価値論を彼は説きました。

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追放された「真理」はどこに行ってしまったのでしょうか?価値-評価作用の領域から切り離され、排除された「真理」は、認識作用の領域にすっぽりおさまることになりました。

真理 - 認識作用の領域
価値 - 評価作用の領域

梅原が批判するのはまさにこの二元論です。その成立の当初において「真理」を価値論の領域から排除してしまった創価学会は、自分たちが説く教説の当否を判断する自己批判の精神を失ってしまっている。創価学会がいまだに天台智顗の五時八教の教えや釈迦の入滅についての日蓮の教えのように現代の文献学からすれば非科学的でしかない教えに固執しているのは自己批判の精神が無いからだと梅原は手厳しく批判しています。

義体系の中での「真理」の位置づけの当否はさておき、ドイツ観念論系譜に連なる思想として創価学会のドグマを捉え直すというアイデアは非常にユニークだと感心しました。