読書法について
読書の秋ということで今さらながら自分の読書法を見直してみた。
現在ぼくは以下の手順で本を読んでいる。
- 本を購入する
- 購入した本を裁断機で裁断する
- 裁断した本をスキャナで読み取りPDF化する
- スキャンミスがないかどうかをチェックする
- 作成したPDFファイルをPC内の所定のフォルダに格納してファイル名をつける
- 格納したPDFファイルをiPadに同期し、GoodReaderで閲覧する
ipad同期後は次の三つのルールに従って読書メモを取る。
- ルール1 読書メモは原則としてFasteverで取りEvernoteに保存する。
- ルール2 しおりはGoodreaderのブックマーク機能を利用する。
- ルール3 五色のラインマーカーを用いて色分けする。
黄緑 重要箇所
ビリジアン 著者の目的や意図
水色 問い、疑問文
黄色 理解できない箇所
薄ピンク 固有名詞、専門用語
技術的な問題を抱えているのはルール3のブックマークの部分である。
Goodreader内でブックマークをつけても、本を読了してipadからPCにPDFファイルを戻そうとすると、どういう訳かせっかくつけたブックマークが消去されてしまうのである。
ラインマーカーやメモは消えないのに、なぜブックマークだけが消えるのか。
原因は不明だが、これ以上この問題を放置しておくことはできない。
そこでブックマークデータをEvernoteでバックアップするという次善の策を思い付いた。
差し当たり次の手順でブックマークのバックアップを行うことにする。
7.Goodreaderで作成したブックマークデータをEmailでEvernoteに送信する
8.作成したブックマークデータをEvernoteで編集する
従来の1~6の工程に加えて、今回新たに7及び8の事務作業が発生することになり、読書の作業感が半端ない。
しかしながら、Evernoteにバックアップすれば本から得た二次データをEvernote内で一元管理することができるようになるし、作成したブックマークデータをそのまま術語集として転用したり、注釈をつけて読書ノートにすることもできる。
例えばついさっき読了したジャック・デリダの『友愛のポリティックスⅠ』からは↓のようなブックマークデータを作成することができる。要するにブックマークデータの編集・加工を通じて読書体験のさらなる質的向上に役立てようというわけだ。
Page 6 目次
Page 19 政治的なもの、家族・兄弟愛主義的、男性中心主義的
Page 20 親子関係の図式論と政治的なもの
Page 36 アリストテレス 友愛についての問い
Page 37 †愛(エロス)と友愛(フィリア)、『愛するということ』、『バートルビー』
Page 39 政治:できるだけ多くの友愛を作り出すこと
Page 39 能動と受動、愛することと愛されること
Page 41 †《人は愛していると知らずに愛することはできない》、悪
Page 42 神(=第一動者)における愛のアポリア
Page 44 ナルシズムと愛されることの結びつき
Page 46 愛することと生者・息吹/死者・生気の無いもの
Page 47 生き残ること、喪
Page 48 友愛と時間
Page 49 確実性(べバイオス)と信頼、時間
Page 50 決断
Page 51 友愛の構造、計算できるもの(確実性・信頼)/計算できないもの(決断)
Page 54 事後性、出来事
Page 56 共に生きること、時間がかかること、有限性
Page 57 元からの友とこれから友になるかもしれない人
Page 58 (現実性によって)限定された多数性
Page 59 民主制の還元不可能な二つの法則
Page 63 注 差延、慈愛、中動態
Page 70 おそらく、将来・出来事/過去・哀悼
Page 71 不安定なもの
Page 75 テレイオポイエーシス的なもの、メシア的構造
Page 79 ニーチェ 孤独な独りぼっちの友たち、SNS、隠遁的共同体
Page 82 将来の哲学者/形而上学者
Page 84 おそらく→根源的同意→問い
Page 86 平準化する者たち、アメリカの自由主義者たち
Page 87 苦悩の廃棄、憐れみ
Page 89 ★新しい哲学者たち
Page 94 万人の真理、繊細さ
Page 96 注 哲学者たちによる「おそらく」への侮蔑
Page 97 注 バタイユ・ブランショ・ナンシーの共同体論
Page 98 注 兄弟愛なき共同体
Page 107 沈黙
Page 116 沈黙、慎み深さ
Page 116 不気味なもの、見知らぬもの
Page 122 兄弟=同胞、徳
Page 128 所有及び近接性への批判
Page 132 決断主義のアポリア
Page 133 !決断の図式は主体を前提としている、受動的な決断
Page 135 !決断の他律的・無意識的性格
Page 145 冷戦終結後の世界、敵の喪失
Page 146 シュミット 敵の喪失
Page 155 シュミット
Page 164 例
Page 169 兄弟化、家族主義
Page 170 優性学、土着性
Page 173 バンヴェニスト、兄弟
Page 179 民主主義と土着性、選良、優性、外国人嫌悪
Page 181 民主制と貴族制、数の問題
Page 184 追悼・哀悼的言説、遺言の言説と友愛
Page 186 シュミットへの二つの反論
Page 187 !系譜学的図式の脱構築、家族
Page 190 注 見張り
Page 191 注 スタシス、三位一体
Page 195 フロイト 死の欲動
Page 196 性悪説/性善説
Page 197 友と敵の差異
Page 200 政治的概念の抗争的性格
Page 210 両価性、フロイト『戦争と死に関する時評』
Page 211 ?
Page 212 死に向かう存在、死に至る欲動
Page 216 中性、政治的なもの
Page 219 例外状態、決断状況
Page 220 可能性と現実性の同一視、実在的可能性
Page 221 脱政治化と政治化、『負量の概念』
Page 221 !敵(友)は少なければ少ないほど多い
Page 222 脱政治化とグローバル化
Page 222 現象学、形相的還元
Page 223 友/敵の区別の現実性の問い、ハイデガー
Page 224 亡霊=戻ってくるもの、追い返す=抑圧する
Page 226 脱政治化=超政治化
Page 228 注 フロイトの悲観主義、性悪説
Page 229 両価性の法則
Page 229 注 フロイト『集団心理学と自我の分析』
Page 233 対立(対立的否定性)
Page 236 『パルチザンの理論』、ゲリラ、テロ、毛沢東の戦争論
Page 237 パルチザンの土着的性格
Page 243 哲学と闘争
Page 244 後進国ドイツにおけるパルチザンの誕生
Page 245 パルチザンの系譜、ヘーゲル→マルクス→レーニン→毛沢東
Page 246 絶対的敵対、兄弟殺しの戦争
Page 247 自然ナ兄弟
Page 248 兄弟誓約
Page 249 問いと闘争、戦略、ハイデガーの存在の問い、『精神について』
Page 250 ポストモダン
Page 252 なぜ友ではなく敵なのか。
Page 254 善=悪を治療する薬(パルマコン)
Page 255 オイケイオテース(親しいもの)、友愛と炉(オイコス)
Page 256 炉=家なき友愛の問い、オイケイオテースなきフィリアの問い、エコノミーなき友愛の問い
Page 276 注 オケイオテース(適合)
Page 287 狂気とデカルトのコギト、敵の喪失→理性の喪失、理性と反感
Page 288 ギリシャ的兄弟愛/キリスト教的兄弟愛、遺言
Page 290 不気味なもの、居場所のない、アリストテレスによる友の定義
Page 291 モンテーニュ『エセー』による友愛の定義
Page 295 完全な友愛の分割不可能性
Page 296 自然な兄弟関係/誓約による兄弟関係
Page 309 注 結婚
Page 311 注 キケロ『ラエリウス、友愛について』
読書をする上でまず第一に大切なことは「資料を完全に制御しうる状態にすること」であり、この点については5年越しの蔵書の電子化とそれに付随する事務処理により一応の解決をみた。
だが、その一方で、一連の電子化の反作用により、白川静が↓のインタビューで推奨しているような「手で覚え、肉体化され」ることで得られる「未分の全体」を含んだ読書体験からはますます遠ざかりつつあるのが問題だ。
おそらく、次の課題は以上の読書の作業工程の中に“手仕事”の要素をいかに取り込むかであり、この課題を早急に解決して有意義な読書生活を送りたいと思っている。
白川 (略)方法は、資料に対するものであって、方法があって資料があるのではなく、資料のなかから方法は導かれるべきものです。私は数万片の甲骨資料をすべて写し、あるいは抄写を試みました。
呉 一点一点トレーシングペーパーに写すのですか。
白川 そうです。一片ずつトレースしておくと主題による分類がいくらでも可能で、事項別に分類することができ、字形の系統化などもできます。まず資料を完全に制御しうる状態にすること、それが第一の基礎的な手続きです。手で写すことは、コンピューターに打ち込むよりも、はるかに有効です。コンピューターは特定項によって作動しますが、手で覚え、肉体化されたものは、いわば未分の全体を含むのです。手で写して新しく得た資料はすでにある資料と感じあい、重畳し、互いに意味づけをしてゆく。
(中略)
白川 ものに部分というものはない。部分は、全体に対して、全体の中においてある。部分が明らかになるときは、同時にその全体が理解されるときです。(略)
-白川静『回思九十年』
アプリ
参考文献
- 作者: 白川静
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2000/05/01
- メディア: 単行本
- クリック: 9回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
- 作者: ジャックデリダ,鵜飼哲,大西雅一郎
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2003/02/21
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 17回
- この商品を含むブログ (26件) を見る
注
フジロックフェスティバル2017
Date | Stage | Artist |
---|---|---|
2017.07.27 Fri(前夜祭) | Red Marquee | Doctor Prats |
2017.07.27 Fri(前夜祭) | Red Marquee | T字路's |
2017.07.28 Sat | Green Stage | Train |
2017.07.28 Sat | Green Stage | ROUTE 17 Rock'n'Roll ORCHESTRA |
2017.07.28 Sat | Field of Heaven | サニーデイサービス |
2017.07.28 Sat | Cafe' de Paris | ヒカシュー |
2017.07.28 Sat | Field of Heaven | Ryhe |
2017.07.28 Sat | Green Stage | Gorillaz |
2017.07.29 Sun | Green Stage | The Avalanches |
2017.07.29 Sun | Green Stage | Cornelius |
2017.07.29 Sun | White Stage | 小沢健二(@ White Stage) |
2017.07.29 Sun | Green Stage | Aphex Twin |
2017.07.29 Sun | White Stage | 小沢健二(@Pyramid Garden) |
2017.07.30 Mon | Green Stage | Lukas Graham |
2017.07.30 Mon | Cafe' de Paris | 戸川純 Wiht Vampillia |
2017.07.30 Mon | White Stage | BONOBO(Live) |
2017.07.30 Mon | White Stage | ASGEIR |
2017.07.30 Mon | White Stage | MAJORLAZER |
2017.07.30 Mon | Green Stage | Bjork |
2017.07.30 Mon | Red Marquee | 水曜日のカンパネラ |
以上の順で観た。
山形酒祭り2017雑感
日本酒の聖地
つまみを一品注文し、一杯飲んだら長居せず、すぐに別の店に移動してまた一杯飲む。それを二・三軒繰り返した後、最後は麺類か深夜までやってる近所の喫茶店でお茶飲んで〆。ハシゴ酒が好きで、好きが高じて新宿界隈のハシゴ酒イベントに参加するようになってしまった。
最近ハマっているのが日本酒で、一年ほど前に新橋駅前ビルの立ち呑み日本酒バー『庫裏』で軽く一杯ひっかけていた時にたまたま横で飲んでいた早大生*1から聞きかじった話だが、四谷荒木町は日本酒の三大聖地の一つらしい。『与太呂』、『宵の間』、『弥七』に『タキギヤ』、『うのすけ』や『離れ のんき』も日本酒の飲み比べができる店だし、端から端まで歩いても五分とかからない狭い凹地であるにもかかわらず、舟町・荒木町界隈で日本酒にこだわってる店を数え上げたらキリがない。荒木町が"日本酒の聖地"と言う噂は本当なのかもしれない。
山形酒祭り2017
5月14日に「山形酒祭り2017」に参加した。山形県内の15の酒造が新宿〜四谷荒木町の飲食店8店舗とコラボするハシゴ酒イベントで、チケット代6000円で日本酒が飲み放題、おつまみも食べ放題だった。イベント開始後2時間程でいい感じに出来あがってしまったせいか、中盤からの記憶が曖昧で、何の銘柄を飲んだかさえ早くも忘れつつある。完全に記憶が飛んでしまう前に、まだかろうじて残っている記憶を頼りにイベントの雑感を書き残して置こうと思う。
前売りチケットを購入した『四谷舟町砂場』を13時に訪れてリストバンドと地図を入手。普段は静かな店内もこの日は満席で立ち呑み状態。ハムを肴に駆けつけ三杯飲んでから、以下の順番で店を回った。
1.四谷舟町砂場(荒木町)
【参加酒造】出羽桜、大山
2.和てじまぅる 酒菜 角萬(新大久保)
【参加酒造】米鶴、栄光富士
店の奥の方でブースを出していた米鶴の夏酒(蛍ラベル)が美味しかった。いい雰囲気の店だったので後日また飲みに行こうと思う。
3.Plat(新宿)
【参加酒造】清泉川、奥州自慢
この中では銀の蔵が美味しかった。チーズは全種類食べ切ったが、手前のキムチがトッピングされてるのが一番酒がよく進んだ。
4.濁酒本舗Tejimaul(新宿)
澤正宗は右の純米吟醸と中央の美酒美酒を、六歌仙は中央の山法師を、どぶろくはピンクと黒の銘柄をそれぞれ飲んだ。特にピンクのどぶろく*2は、甘さと酸っぱさの釣り合いが取れていてグイグイいけた。是非また飲んでみたい。2の和てじまぅる(新大久保)と同系列の店で、この店では山形ラーメンを食べることができた。
5.ラボ・ガレージ(新宿)
【参加酒造】楯野川、東光
東光の吟醸梅酒がサッパリしていてうまかった。女性の常連さんが多い印象の店。
6.すし処 志げる(荒木町)
【参加酒造】秀鳳
品切れのため秀鳳BEACH SIDEが飲めなかったのが悔やまれる。早めの時間帯に行った人はいくら丼を食べることができたらしい。
7.オール・ザット・ジャズ(荒木町)
【参加酒造】鯉川、加茂川、羽陽一献
前から行ってみたかった店でようやく行くことができた。確か伍連舎と13を飲んだとような気がするが、どんな味だったか覚えてない。
8.Talkin'Loud(荒木町)
【参加酒造】千代寿、白露垂珠
アシッドジャズがかかる日本酒バー。肴は卵の黄身のいしる漬けだった。何を飲んだか思い出せない。
宴の後
8軒目の『トーキンラウド』にたどり着いた時には既に時刻はもう16時。この辺りの時間帯になると、当初はバラバラに行動していたイベントの参加者同士にも奇妙な連帯感が生まれていて、終盤の店内はもはや完全に宴会状態になっていた。最後はスタート地点の『砂場』に千鳥足で舞い戻ってみんなで乾杯し、山形酒祭り自体は17時きっかりで終了。『砂場』を追い出された後は二次会、三次会と飲み屋をハシゴして解散した。家路に着いたのは確か21時頃だった思う。
次は50蔵27店舗が出店する大長野酒祭り(7/16)に参加する。山形酒祭りのように全蔵制覇することはまず不可能なので死なない程度に程ほどに楽しみたい。
註
プロティノスについて
プロティノス*1とその学派について書かれた以下のテクストを流し読みした。
- ベルクソン『ベルクソン講義録Ⅲ』Ⅳ 霊魂論講義 第3講 「プロティノスにおける霊魂論」
- ベルクソン『ベルクソン講義録 Ⅳ』Ⅰ 「プロティノス講義」
- 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第二巻 神秘哲学』第2部第4章 「プロティノスの神秘哲学」
- ヘーゲル『ヘーゲル哲学史 中巻』第三篇 「新プラトン派」
- ピーター・ブラウン『古代末期の世界 -ローマ帝国はなぜキリスト教化したのか?-』第2章 「ローマ帝国と宗教」
- 水地宗明・山口義久・堀江智編『新プラトン主義を学ぶ人のために』
以下では、プロティノスの生涯およびその思想の歴史的な位置づけ、並びに彼が実質上の創始者となったアレクサンドリア学派(新プラトン主義)の後世への影響について忘れないうちに簡単にまとめておく。
プロティノスの生涯
西暦205年にエジプトの地方都市リュコで生まれたプロティノスが「哲学への愛に燃え立った」のは28歳の時で、彼は当時の大きな学問的運動の中心地であったアレクサンドリアに遊学し、アンモニオス・サッカス*2に師事して11年間に渡り哲学を研究した。三世紀中葉のアレクサンドリアでは文献考証的な学問が育成されていた。ピュタゴラスやプラトンやアリストテレスに関する数多くの注解がそこで生まれ、そうした文献考証的なアレクサンドリアの風土は古典古代のさまざまな哲学書を註釈するプロティノスの講義のスタイルを決定づけることになった。アレクサンドリアから戻ると彼はローマに定住した。40歳の時だった。彼はこの地で学校を開設したが、そこでの教育は大きな成功を収めている。数多くの元老院議員が彼の授業を聴講し、皇帝ガリエヌス*3やその妃サロナもプロティノスを尊敬したと言う。
プロティノスは称賛の念を引き起こしただけではない。周囲の人々にとっては俗世を超越した神的な存在と映ったようである。プロティノスの弟子であり良き理解者でもあったポルプュリオス*4は読心術とでも言うべきものを彼に認めている。ポルプュリオスが自殺しようと思ったとき、プロティノスはそれを見抜いてシチリアへの旅行を勧め、そこでポルプュリオスは立ち直ることができた。
ポルプュリオスはまた、魔法を解く力をも彼に認めている。エジプトのある司祭が悪魔を呼び出してくれとプロティノスに頼んだとき、登場したのは神だった。なぜなら、実際彼に伴っていたのは神だったからである。
ー『ベルクソン講義録Ⅳ』P12
プロティノスにとっては神的なものと接触し、それと合一することが人間に許された究極の浄福であったことは言を待たない。彼自身もその生涯において少なくとも四度の法悦を経験している。プロティノスは270年にローマで66歳の生涯を終えた。彼の最後の言葉は「私は私の内なる神的なものと万物の内なる神的なものとを結びつける努力をしている」であったと言う。
『エンネアデス』
プロティノスの著作は主として聴講者の質問に答えるという形を取っている。それらは晩年の16年間に書き記された。現在にまで伝わっている論文集『エンネアデス』は、301年にポリュプュリオスが編集し公刊したものであり、彼はプロティノスが書き残した各論文の主題の類似性に着目しながら、総じて簡単なものから難しいものへ、短いものから長いものへと移っていく九篇の論文から成る六つのグループをまとめあげた。ポルプュリオスはこれら九篇で一組のグループを「エンネアス(九つで一組みのもの)」と呼び、その複数形である『エンネアデス』が後世においてポルプュリオス編『プロティノス全集』のタイトルとみなされるようになった。
ヘレニズム
プロティノスが書いたものを熱心に読んだのは、厳しく自分を律したおかげで晩年に成功を収めながら、それでも安心立命できないでいる人たちだった。「肉体をまとっていることを恥じてい」たプロティノスと同じく、彼の取り巻き達もまた、霊魂がなぜ肉体と結びつき堕落することになったのかという問題に悩まされていた。彼らは自分たちのことをヘレネス(ギリシア至上主義者)」と呼び、自分たちの考え方のことを「ヘレニズム(ギリシア至上主義)」と呼んでいた。
ヘレニズムは差し当たり、知的な折衷主義、漠たる道徳主義、宗教的には異教的、精神的にはギリシア的な文化として特徴付けることができるだろう。ヘレネスは総じてプラトン以来の伝統的「教養[παιδια]」と深く結びつき、古代末期に東方から伝来したグノーシス派やキリスト教徒の考え方を受け容れようとはしなかった。プロティノスは「エネアス」Ⅱ・9においてグノーシス派の論者を論駁しているし、彼の弟子の一人であるアメリオスもまた、グノーシス派のゾストリエンを論駁する40冊の書物を著している。
キリスト教批判の第一線でもプロティノスの後継者たちは活躍した。ポリュプュリオスは広範な学識に基づいたキリスト教批判を展開しており、その批判は19世紀のキリスト教批判に匹敵する程の水準に達している。また、ポリュプュリオスの弟子だったイアンブリコス*5は、一時的ではあるもののキリスト教徒に勝利した。と言うのは、キリスト教を国教化したコンスタンティヌス帝*6の甥にあたるユリアヌス帝*7をヘレニズムの信奉者に仕立て上げたからである。
プロティノスが身を置いたヘレニズムという保守的な環境は彼に決定的な影響を及ぼした。彼は当然のことながら、東方からの文化的侵略に対してギリシア哲学の総体を対置するよう促された。「ただし、単に並置によってことを運ぶのではなく、ギリシア哲学の思想の地下深くを」掘り下げることで彼はそうしたのだが、「その結果プロティノスは、この思想を湧出せしめた源泉それ自体をも湧出させた程だった」。
後世に与えた影響
ルネサンス期においてギリシア古典期の教養が復活できたのはヘレネスたちのおかげである。キリスト教が国教化された後もアレクサンドリア学派のプロクロス*8がギリシアの神々を称える『神学原論』を書いているし、ギリシア古典期の哲学の最良の部分を受け継いで中世ヨーロッパに伝えた聖アウグスティヌス*9や否定神学の創始者の一人であるディオニシウス・アレオパギタ*10にとってもプロティノスの哲学が重要な意義を果たしている。
プロティノスを実質上の創始者とするアレクサンドリア学派(新プラトン主義)が後世に与えた影響は計り知れない。12世紀に至るまでキリスト教圏やイスラム教圏でギリシア古典期の哲学だと信じられていたのは、実は古代末期においてヘレネスたちが復活させた哲学だった。ルネサンス期の西欧において復興されたプラトンもまた、ギリシア古典期のプラトンそのものではなく、ヘレネスたちが復活させた新プラトン主義のプラトンだったのである。
参考
世界の名著 15 プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (15)(中公バックス)
- 作者: プロティノス,田中美知太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1980/08
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- クリック: 10回
- この商品を含むブログを見る
- 作者: アンリベルクソン,Henri Bergson,合田正人,江川隆男
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2000/09
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログを見る
- 作者: アンリベルクソン,Henri Bergson,合田正人,高橋聡一郎
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2001/11
- メディア: 単行本
- クリック: 2回
- この商品を含むブログを見る
神秘哲学 一九四九年― 一九五一年 (井筒俊彦全集 第二巻)
- 作者: 井筒俊彦,木下雄介
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2013/11/13
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか? (刀水歴史全書)
- 作者: ピーター・ロバート・ラモントブラウン,Peter Robert Lamont Brown,宮島直機
- 出版社/メーカー: 刀水書房
- 発売日: 2006/10
- メディア: 単行本
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
*1:205-270年
*2:175-243年頃
*3:在位253-68年
*4:234-305年
*5:240-325年
*6:272-337年
*7:331-363年。古典的教養を身につけ、ヘレネスたちの代弁者たちであった彼は、帝位に就いた後に異教を復活させてキリスト教を転覆しようと専心したが、363年にペルシャ遠征で戦死した。享年32歳。傷口からしたたる血を空に向けてほとばしらせながら彼が残した最期の言葉はよく知られている。「ガリラヤ人(キリスト教徒の蔑称)よ、汝ら勝てり。」
*8:412-485年
*9:354-430年
*10:6世紀頃初頭から東方キリスト教会に現れ、後に西ヨーロッパにも伝えられた文章群の著者と言われる人物。使徒パウロから受洗したアテネのアレオパギタ(裁判官)デュオニュシオスがそれらの文書の著者と信じられてきたが、現在ではプロクロスの影響を受けた人物であることがほぼ定説となっている。
2016年を振り返る(音楽)
今年聴いた音楽を気に入った順番に並べてみた。
音楽
- The Avalanches『Wildflower』
- 清竜人25『Love & Wife & Peace』
- Mayer Hawthorne『Man About Town』
- cero『My Lost City』
- Bobby Womack『Soul Sensation Live』
- Tomato n'Pine『PS4U』
- Bobby Womack『Poet Ⅰ & Ⅱ』
- Zapp『Zapp Ⅱ』
- 水曜日のカンパネラ『シネマジャック』
- globe『Faces Places』
- Clean Bandit『New Eyes』
- Bonobo『Black Sands』
- Jamiroquai『Little L』
- Rahbi『Raw Live』
- Naiagara Fallin' Stars『Let's Ondo Again』
- 踊ってばかりの国『踊ってばかりの国』
- Mayer Hawthorne『Strange Arrangement』
- Muro『70 Minuites Of Funk Mixed by Muro』
- Nu Tone『Brave Nu World』
- Parov Stelar『Daylight』
- Zapp & Rogger『All the Greatest Hits』
- saint etienne『Foxbase Alpha』
- Rhye『Woman』
- Mansun『Six』
- Nitin Saxhney『London Underground』
- cero『World Record』
- The Weekend『Starboy』
- Radiohead『A Moon Shaped Pool』
- King『We Are King』
- hopesign『狼煙を今あげたところ』
- Bruno Mars『24K Magic』
- The Avalanches『El Producto』
- The Avalanches『Electricity Ep』
- 今陽子『今昔歌〜ピンキーの男唄〜』
- 清水ミチコ『趣味の演芸』
- 水曜日のカンパネラ『UMA』
- Rafga『Una Cerveza』
- Mute Beat『Still Echo』
- Davis Trellini『Davis Trellini』
以上39枚。
16年ぶりにアルバムを出したThe Avalanches『Wildflower』、解散を発表した清竜人25の『Love & Wife & Peace』、来日したMayer Hawthorneの『Man About Town』ーこの三枚はよく聴いた。曲単位ではサザンソウルやロマン派のピアノ曲を集中的に聴いていた。
従来型の円盤での聴取に加えて、ここ数年ストリーミングサービスやYoutube、ニコニコ動画、SoundCloudなどで新たな音楽に遭遇することが多くなって来ている。今年に入ってからは聴取の方法がさらに多様化して、近場のミュージックバーや比較的小規模のイベントスペース、小料理屋などで音楽を楽しむ機会が多かった。
夏フェスに行けなかったのが心残りなぐらいで、全体としては良い音楽に巡り会えた一年だったと思う。2017年は非録音媒体での聴取の比率をさらに上げて音楽を愉しみたい。
画像
2016年を振り返る(読書)
今年読んだ本を面白かった順に並べてみた。
1.マンガ
- 木多康昭『喧嘩稼業』7巻・最新話まで
- 沙村広明『波よ聞いてくれ』3巻まで
- 押切蓮介『ハイスコアガール』6巻まで
- 眉月じゅん『恋は雨上がりのように』5巻まで
- 石塚真一『BLUE GIANT』9巻まで
- 宮下英樹『センゴク権兵衛』最新話まで
- 福満しげゆき『中2の男子と第6感』3巻まで
- 水上悟志『惑星のさみだれ』全10巻読了
- 日本橋ヨヲコ『少女ファイト』19巻まで
- 冨樫義博『HUNTER × HUNTER』33巻まで
- 和久井健『新宿スワン』全38巻読了
- 諌山創『進撃の巨人』20巻まで
- 山口貴由『シグルイ』全15巻読了
- ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』27巻まで
- 森薫『シャーリー』2巻まで
- 福満しげゆき『ぼくの小規模な失敗』全1巻読了
- たかぎ七彦『アンゴルモア』6巻まで
- 中野でいち『hなhとA子の呪い』1巻まで
- 王欣太『達人伝-9万里を風に乗り-』14巻まで
- 仲谷鳰『やがて君になる』2巻まで
- 松井優征『暗殺教室』全21巻読了
- 古谷実『サルチネス』全4巻読了
- 古谷実『ヒメノアール』全6巻読了
- カガノミハチ『アド・アストラ-スキピオとハンニバル』2巻まで
- ケン月影『荷風になりたい-不良老人指南』1巻まで
- サブロウタ『cirus:1』1巻まで
- 板垣恵介『刃牙道』9巻まで
- 押見修造『ぼくは麻里のなか』1巻まで
- 堀越耕平『僕のヒーローアカデミア』1巻まで
- 森川ジョージ『はじめの一歩』最終話まで
以上30作品。
『喧嘩稼業』の複雑に展開する心理戦の描写の巧みさに、
『波よ聞いてくれ』の登場人物たちの機知に富んだ会話の妙に、
『ハイスコアガール』の沈黙もまた一つのメッセージとなり得ることを執拗に証明し続けている点に、
それぞれ心を動かされた。
雑誌連載で読んでいたのは、『喧嘩稼業』と『センゴク権兵衛』と『はじめの一歩』だけで、あとは全て単行本での後追いになってしまった。マンガの場合、単行本で後からまとめて読むよりも、雑誌連載でリアルタイムに読み進めた方が間違いなく面白いので、来年はできる限り単行本よりもマンガ雑誌で読むことに時間を割くようにしたいと思う。
2.マンガ以外
- MB『最速でおしゃれに見せる方法』
- 浦久俊彦『138億年の音楽史』
- 皆川典久『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』
- ジャン・ピエール・リシャール『ロラン・バルト最後の風景』
- ホイチョイ・プロダクションズ編『東京いい店やれる店』
- 平井玄『愛と憎しみの新宿 半径一キロの日本近代史』
- 速水健朗『東京どこに住む?住所格差と人生格差』
- ヘーゲル『懐疑主義と哲学の関係』
- 大谷能生『ジャニ研!:ジャニーズ文化論』
- グレゴリー・ベイトソン『大衆プロパガンダ映画の誕生-ドイツ映画「ヒトラー青年クヴェックス」の分析』
- エーリッヒ・フロム『愛するということ』
- スコット・フィッツジェラルド『バビロンに帰る-ザ・スコットフィッツジェラルド・ブック』
- 石井裕之『「女対女」の深層心理-自己チュー、裏オモテ、勘違いに克つ』
- ヤーコプ・ブルクハルト『ギリシア文化史(5)』
- ジル・ドゥルーズ『消尽したもの』
- ハイデガー『ハイデッガー全集第54巻 パルメニデス』
- 柄谷行人『憲法の無意識』
- 酒井潔『ライプニッツ(Century Books-人と思想)』
- 筒井康隆『短編小説講義』
- 宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』
- 岸見一郎『幸せになる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え』
- 岸見一郎『アドラー心理学入門』
- 山本七平『すらすら読めるイエス伝』
- ハイデガー『ハイデッガー カッセル講演』
- 小森健太朗『神、さもなくば残念。』
- 今野元『回想のマックス・ウェーバー』
- ロマン優光『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』
以上27冊。
『最速でおしゃれに見せる方法』はコーディネートの方向性を根本的に見直すきっかけを与えてくれた点で、
『138億年の音楽史』は音楽が世界を読み解く重要なツールだという事を再認識させてくれた点で、
『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』は、山の手の地形そのものを楽しむ視点を与えてくれた点で、
それぞれ2016年の自分のライフスタイルに対して陰に陽に影響を与えていたように思う。
今年は仕事が多忙を極め、プライベートな時間がほとんど存在しなかったにも関わらず、毎月約2冊のペースを維持することができた。とは言え、ブログに感想を書き付けるところまでは手が回らなかったのが悔やまれる。書くのが遅いせいだ。来年はもっと軽いノリで更新できるよう文章力を磨きたい。
画像
J=P・リシャール『ヴェルレーヌにおける「味気なさ」』(『詩と深さ』収録)
1961年にJ=P・リシャールの『マラルメの創造的宇宙』が出版された際、或る人々は、「彼が深さの暗喩に魅了されたこと、そして断片的な言語の向こうに"水面下のきらめき"をとらえようと望んだこと」を非難した。文学研究は既に成年期に達して心理主義200年の歴史から解放され、モーリス・ブランショによって《近代文学は全て深みというものに背を向けるべきだ》と宣言されたというのにである。
だが、そうした非難の多くは当たってはいない。なぜなら、マラルメ論に先立つこと6年前の『詩と深さ』(1955年)において、リシャールはまさに「深さ」という観点から、ネルヴァル、ボードレール、ランボー、そしてヴェルレーヌという四人の詩人を分析し、「深さ」に対する詩人の態度の類型学とでも言うべきものを前もって展開していたからだ。
本書を流し読みし、とりわけ印象深く思ったのは、ランボーやボードレール、ネルヴァルと比べて今日不当に軽んじられているポール・ヴェルレーヌについての分析である。爆発・飛翔・噴出・変容・省略・反抗によって「深さ」を否定し、裏に潜む奈落というものの無い世界を打ち立てたランボーと同じく、その友人のヴェルレーヌもまた「深さ」を否定しようとするのだが、ヴェルレーヌの行き方はランボーのそれとは違っている。「彼は深さからその底を、従ってその基盤を除き去ろうとする」のである。ヴェルレーヌにとって「深さ」とは、「茫漠たる広さ、広大さ、純粋な無限定性」であり、"水面下のきらめき"を追い求めなければならないような類の"深さ"とは似ても似つかぬ代物だ。
さて、ヴェルレーヌにおける「深さ」の経験とは具体的にはどのようなものだったのか?後学のために ープラトン流に言えば想起のためにーこの点に関するリシャールの叙述を手短に追いかけてみることにしよう。
お前の目を半ば閉じ、
胸に両手を重ねよ。そして
眠り込んだお前の心から
あらゆる思いを永久に追い払え。ーヴェルレーヌ詩集・艶かしきうたげ『忍び音に』
自分の内部を空っぽにするポール・ヴェルレーヌの術ーその狙いは、判断(思い)の停止にあって、感覚(印象)の停止にはない。ヴェルレーヌは自分が感じているものとの接触をまだかろうじて保っている。感覚を追い払うのではなく、感覚が伴っている思いを追い払うのである。そのようにして彼は、感受性の状態(=情念)をしっかりと保ったままで、事物の世界に向かって自らの感覚を解き放つ。
「感覚という、あの思いがけない恩寵への期待」。他所から吹き寄せる風[רוחהקודש]のように、どこからともなく一方的に吹いてくる何らかの影響力に対する無限の信頼。
物の世界に直面した時、ヴェルレーヌという人は、自然に受け身の、待機の姿勢をとる。
彼はこれらの事物に対して好奇心も欲望も投じようとはしない。
彼は相変わらず動かず、泰然自若として、物が彼の前に姿を現してくれた時に、自分が一層容易に物から浸透されるよう、自分の中に隙間を沢山作っておくことで満足する。
他方で同時に、彼にとって感覚とは、信号を送り出す事物から肉体が受け取る「印」であり、「印」は肉体に辿り着くまでの間に出発時には帯びていたはずの豊かな情報の大半を失ってしまうのが常である。そうなると、「印」は今やあまりにも長いあいだ栓を開けっぱなしにしていた香料のように気が抜けて、感覚はその事物のかすかな痕跡・漠たる暗示しか感じ取ることができない。
ヴェルレーヌが事物およびその「印」との間にとり結んでいるこうした関係は、ほとんど満たされない関係であり、この関係は貧しさを基調とする。ヴェルレーヌの風景において、事物は決して晴れ晴れとした状態にも充実した状態にも達しておらず、いつも遠く離れて、縮こまって衰弱した姿を彼の前に晒している。
事実、ヴェルレーヌは、内面の輝きを失ったものを偏愛するのである。彼が愛するものは、その力を十分に弱められ、従ってその所在を精神に教える感覚が、単に今にも消え入りそうな、それどころか、自我がその印象を受け取る時にはもう消滅してしまっているような、はかない存在を示すにすぎない、といった具合でなければならない。
ヴェルレーヌ的対象は、求められても決して自ずからは与えられず、むしろそれどころか、そのような求めに対して門戸を閉ざしているような無愛想な事物であり、当然のことながら、このような反ロマン主義的な状況は、《世界との接触は根本的に虚しい》という諦念を呼び覚ます。
具体的な物の確かな記憶をいささかも留めていないヴェルレーヌの感覚は、その源泉となった対象が既に消滅したことを告げている。したがって、感覚を遡り、それが自らのもとへ辿り着くまでに通過して来なければならなかった道を逆方向に辿りつつ、かつて有ったはずの豊かな源泉を発見することは、彼にあっては問題にはならない。その道の果てで彼が出会うのは単なる有ラヌモノだけだからだ。
とはいえ、事物のこのような無愛想を甘んじて受け入れるのであれば、芸術家であることを、引いては詩人であることを放棄することになってしまう。だからこそ彼は、事物の無愛想や沈黙や慎み深さに対して、その消極性を通じて存在が何らかの仕方で姿を現わすのを辛抱強く待ちながら、情熱的な関心を注ぐことになるのである。
要するに、ヴェルレーヌにとって《存在は香りにおいて与えられる》。次第に消えて行く香りや半ば幻めいた風景を彼が好んで追い求めたのはそのためだ。あるいは、『忍び音に』対する彼の好みや、枯れたものや萎びたもの、干からびたものに対する彼の執念もその一例に他ならない。
だが、リシャールの考えでは、ヴェルレーヌの真骨頂はそのような"枯淡"とでも言うべき風景を達成した点にあるわけではない。むしろ逆に、そうした形を持たぬ漠たる感覚の広がりの中に、軋り、衝突し、不快感を掻き立てるような一連の不協和音を導入した点にある。例えば、場にそぐわない語を用いることや、びっこを引いた韻律や関節の外れた統辞法に対する彼の愛着、ランボーから学び取った俗語や卑猥な語の使用、…etc、彼の詩的言語を特徴付けるこうした奇妙な特徴は、「形を持たぬ感受性の状態を何らかの意味で限定したい」*1という深刻な要請から出てくるものである。
その理由をリシャールは次のように説明する。
空虚で宙ぶらりんな感受性の状態が永く続けば、それを享受する自我の存在そのものが脅かされるであろう。感覚が涸れるにつれて、意識は鈍磨し、存在は惰眠状態に陥るおそれがある。そういうわけで、拡散した感覚は、同時にそれを受け入れる意識を刺激し、苛立たせなければならない。
おそらくヴェルレーヌは狂気に囚われながらもいまだ完全には正気を失なってはいない。狂気に囚われた者でありながらも、正気を保ったままで、彼はかろうじて意識のゼロ・ポイント、境界線の上、「縁」の上に留まっている。かろうじて垣間見るだけの新たな「自己」をもぎ取ってくることができないままで。
ネルヴァルやランボーやボードレールほど意志が強く無い彼は最後まで冒険をやり通さない。『叡智』[Sagesse]と共に、彼は立ち止まり、臆病風に吹かれてあとずさりする。日常性に戻り、すでに名づけられたものへ、限定された個人の生活へと立ち帰る。真に自己を失おうとせず、完全に消滅し去った揚句に再び自分を見出すであろうあの極限に至ろうともしなかったばかりに踏み違えた、一人の人間の悲劇なのである。
だがむしろ、ここでのヴェルレーヌの課題は、たとえ全てが無残に終わるとしても、このどっちつかずの茫漠たる世界の境界に止まりつつも、かろうじて正気を保ち続けることにある。
確かに意志の強いランボーならば、そこで立ち止まらずにもっと遠くまで行くことができたのかもしれない。けれども、ヴェルレーヌのように冒険を最後までやり通さずに「縁」の上に立ち止まったままでいることも、それはそれでまた一つの才能ではないのか。
いずれにせよ、問題は、日常/非日常の境界線を単に突破することにはない。むしろ問題は、いかにして非日常の境界線を「勝利者として」通り抜けるかにあるからだ。ヴェルレーヌは、深淵の中で正気を保ったままでいるために、まどろみが本当の眠りに陥るのを引き止めるために、漠たる感覚の広がりの中にひび割れをつけ、亀裂を作り、不均衡面を刻み込むことで、一連の不協和を自らの詩世界に招き入れる。
従ってヴェルレーヌの成功は、ひたすら不確定なものの享受と、極端な感覚の鋭敏さの享受とに同時に人を誘うような、一種の呪文を作り出したところにある。〈非常に茫漠としていると同時に鋭い一瞬〉、これがヴェルレーヌの夢想が場所を占める典型的な瞬間なのである。
〈漠〉と〈確〉ーヴェルレーヌの風景は漠然とした淡さと苦々しい鋭さという相矛盾する調子が同時に分かち難く含まれているような風景である。こうした鋭さと淡さを兼ね備えた気分を彼は一言、〈味気なさ〉[fadeur]と呼んでいる。〈味気なさ〉は単なる無味乾燥[insipidite]とは異なっている。むしろそれは、「神経を苛立たせる」*2ような無味*3であり、枯れたもの・萎んだものがなお死に絶えることを拒んでいる状態であり、
この異常な残留磁気のせいで一種の新たな生命を帯びるのである。それはどことなく曖昧な曇りを帯びた生命で、無味とは言ってもその一歩手前のもの、ともかくそれとは異なったものではないかと推測されるのである。
味気ない気分・味気ない思いーそれは単なる無関心と同じではない。むしろそれは、有ラヌモノに生じる断末魔の抵抗、有ラヌモノが感覚を誘惑し、一種の嫌悪感を掻き立てながらも自らがなお有ルことを認めさせ、気を引かせるための手口なのである。
ヴェルレーヌの詩を裏声で走り抜けて行くのはこの〈味気なさ〉の気分であり、彼の詩を、慄えるというよりかすかに揺らめく、人の心を揺するというより甘やかす詩たらしめているのもおそらくこの気分なのだろう。
参考
- 作者: ジャン=ピエールリシャール,Jean‐Pierre Richard,田中成和
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2004/12
- メディア: 単行本
- クリック: 15回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
注