学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

三島由紀夫の『暴力批判論』

1969年5月13日、東京大学教養学部900番教室内で、三島由紀夫と東大全共闘の間で討論会が開かれた。会場には約1000人の学生が集まり、その模様はその日のうちにTBSでも放送された。以下で論じる『美と共同体と東大闘争』はその討論の内容を収録した書物である。2時間25分にも及ぶこの討論のテーマは多岐に渡るがその主要なテーマの一つに「暴力」があり、両者の間で活発な議論が交わされた。「暴力」を語るにあたって三島由紀夫はそれ肯定する立場に立ち、「左翼」による無原則・無前提な暴力の否定共産党による人民戦争(=暴力)の肯定を逆説的に帰結することを指摘し、それを非難している。

  

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⑴暴力否定は正しいか?

三島は無原則・無前提に暴力を否定しない。むしろ、彼は無原則・無前提の暴力否定に反対し、暴力を肯定する。なぜなら、無原則・無前提の暴力否定は、かえって暴力の性格をあまりにも普遍的にし、暴力の定義をあまりにも広げすぎるからだ。そのような汎暴力論に反対するために三島は暴力を限定的に肯定する。

 

「左翼」のように無原則・無前提に暴力を否定すると、「体制側の国家権力」の本質をなすところの軍隊や警察が持つ力も暴力に含めざるを得ないし、街で行われるヤクザの喧嘩もそれと同次元のものとして包括せざるを得ない。しかし、無原則・無前提な暴力否定は、暴力の定義自体を無原則・無前提に拡大せざるをえないことになるのだから、そのだらしなく拡大された暴力を根本的に否定することによって、「左翼」は論理的に国家をも否定する立場に陥らざるを得ない。

 

「左翼」は、国家を暴力装置と定義し、あるいは軍隊や警察を国家権力の暴力装置と定義するのだが、まさにかような定義を誘導するものこそが、無原則・無前提な暴力否定の垂れ流しであり、「戦後平和主義なのである」。無論それは、目の前の秩序のみに関わって、その秩序を成り立たせている錯綜し矛盾する政治状況に対して目をつぶることにつながっている。だからこそ三島は暴力を否定しないのである。

さまざまな論点において対立する東大全共闘と三島だが、旧「左翼」による無原則・ 無前提な暴力否定に断固抗議するというまさにこの点においては一致している。

 

⑵暴力肯定は戦争肯定につながるか?

では、国家の暴力を肯定する三島は戦争をも肯定するのだろうか?答えはノーだ。その両者は直ちに論理的にはつながらないものがあるのである。この点に関する三島の立場は、「国家の暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争することにはならない」というものである。

 

ここではじめて三島の暴力肯定論に真に対立するものが明かされる。三島の暴力肯定論の真の敵。それはすなわち毛沢東の戦争論だ。毛沢東は戦争について独特な論理を展開する。

《われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は戦争である。》

毛沢東のこの論理は先に述べた三島による暴力肯定の論理のちょうど反対の極に立つものだ。毛沢東の暴力否定論は、「平和主義の旗印のもとに戦争を肯定する思想」なのである。

私は戦後、平和主義の美名がいつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなわち人民戦争を肯定する論理につながることをあやぶんできたが、これが私が平和主義というものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの理由である。

戦後平和主義に基づく暴力否定は、国家の否定を経由して、毛沢東の戦争論を逆説的に帰結する。それに対して、三島の暴力肯定は、国家の肯定を経由して、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の肯定が国家の超克をもたらすが如き欺瞞に対して絶縁を宣告する。

 

国家を超克するとのたまう暴力否定論は、まさにその目的を達成するために人民戦争というただ一つの手段を正当化し絶対化する。そしてこの種の戦争論は、無原則・無前提の暴力否定からのみ構成される。そうならないために三島は、暴力を肯定し、国家を肯定することになるのだが、その見返りとして「ただ一つの正しい戦争」という共産党的な自己欺瞞の否定という果実を得ることができるのだ。

 

三島は無原則・無前提に暴力を否定したりはしないし、暴力に対して恐怖を感じたり、暴力はいけないと月並みなことを言ったりはしない。無原則・無前提の暴力否定という考えは共産党の戦略に乗るだけだからである。

 

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⑶暴力を批判する上での二つの基準ー暴力の自然法的テーゼと実定法的テーゼ

暴力は目的の領域ではなく「もっぱら手段の領域に見いだされる」。毛沢東=中国共産党の戦略は、国家の超克というただ一つの正しい目的に基づいて、人民戦争という手段=暴力を正当化することにある。《人民戦争のみが正しい暴力である》という毛沢東の思想は、結局のところ、正しい=自然な目的がありさえすればその手段としての暴力は自動的に正当化されるはずだという誤ったドグマに基づいている。しかし、それは、かつてベンヤミンが『暴力批判論』の中で分析し批判を加えたものである。同書の中でベンヤミンは、正しい=「自然な目的にかなった暴力は、それだけでもう正当であるとするドグマ」を暴力の自然法的テーゼと呼んでいた。これは暴力を「自然な所与として」考える立場である。

 

本書で三島由紀夫が「道義的暴力」と呼ぶものは、ベンヤミンが言う暴力の自然法的テーゼに正確に対応している。正しい目的=道義的主張は論理的にはどんな立場からも発せられうるものである。そして、「大きな物語」が崩壊して、各人が個々の「島宇宙」に自閉する時、あらゆる正しい目的=道義的主張は相互に相対化しあって、複数の「小さな物語」が乱舞し相剋する「バトルロワイヤル」的な状況が出現する。その時、それまで正しい目的=道義によって肯定=主張されていた手段の数々が単なる暴力の行使にしか見えなくなるのは当たり前のことだ。だがそれは、人々が暴力を目的論的に肯定=主張していたからであり、三島やベンヤミンはそうした自己主張=正当化の論理が実は何一つ根拠を持っていないことを暴露するのである。

 

それとは別に、暴力をその手段の適法性によって正当化し、「正義の暴力と不正義の暴力」とを分割する論理が一方にある。例えば、適法な手続きによって正当化された軍隊と警察の力だけを正義の力と認め、その他の力を暴力とみなす近代国家の論理がその典型である。先の『暴力批判論』が暴力の実定法的テーゼと呼んでいたものがそれだ。こちらは暴力を「自然な所与として」ではなく「歴史的な形成物として」考える立場である。

 

三島は暴力の実定法的テーゼを敵と認め、それに対して抵抗を試みていた。彼は死刑廃止論者ではなかったが、近代国家のように手段の適法性によって自らの暴力を正当化したりはしない。そんなことをすれば、毛沢東の論理と「どこかで似て」来てしまうからだ。だから、三島は「合法的に人間を殺すという立場に立って」世直しをしたいとは思っていない。もちろん非合法で人を殺せば、

それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに自決でも何でもして死にたいと思うのです。
私は大体に合法的に人間を殺すということがあまり好きじゃ無いのです。

三島が「合法的に人間を殺すということ」を嫌う理由は、手段の適法性によって自らの暴力を正当化する近代国家の論理は、「正義の暴力と不正義の暴力」を分割し、「暴力に質的差異をみとめる」点で、毛沢東の論理と「どこかで似て来る」からである。暴力を歴史的な形成物とみなしてその手段の適法性を云々する近代国家の実定法的論理もまた、結局のところは、毛沢東の自然法的論理とどこかで「基本的ドグマ」を共有しているのだ。

 

自然法が現行の制度の正しさを、その目的を批判することによってのみ判定しうるとすれば、実定法はあらゆる未来の制度の合法性を、その手段を批判することによってのみ判定しうる。目的の批判基準が正しさ(正義)だとすれば、手段の批判基準は合法性だ。そして、両派は、互いに対立しているにもかかわらず「どこかで似て来る」のだが、それは両派が「共通の基本的ドグマを持つことにおいて一致」しているからである。では一体、両派が共有する「基本的ドグマ」とは何か?それはすなわち、

 

正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる、とするドグマである。自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」しようとする。もしこの共通のドグマ的な前提が誤診であって、 一方の適法の手段と他方の正しい目的とがまっこうから相反するとすれば、解決のできない二律背反が生まれるだろう。

ベンヤミン『暴力批判論』

 

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まとめ

本書において、三島は、暴力について論じながら、無原則・無前提に暴力を否定する毛沢東=共産党による暴力の自然法的テーゼ=道義的暴力の逆説的な肯定に対して決定的な反論を提出した。この点において三島の暴力批判論が幾つかのオリジナルな洞察を含んでいることは確かであり、その意味で本書は今なお読むに値すると言える。しかしまた、近代国家のドグマである暴力の実定法的テーゼの分析の方は、いまだ単なる着手の段階にとどまっており、その点を詰めないままに三島は本書の1年後に自決してしまったのが悔やまれる。

 

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

 
暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

 

 

 参考

三島由紀夫 vs 東大全共闘(長尺版)

 

三島由紀夫割腹余話

  

⑥ 「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」 - 日々平安録

 

毛沢東選集 第一巻 p255