学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

山形酒祭り2017雑感

日本酒の聖地

つまみを一品注文し、一杯飲んだら長居せず、すぐに別の店に移動してまた一杯飲む。それを二・三軒繰り返した後、最後は麺類か深夜までやってる近所の喫茶店でお茶飲んで〆。ハシゴ酒が好きで、好きが高じて新宿界隈のハシゴ酒イベントに参加するようになってしまった。

 

最近ハマっているのが日本酒で、一年ほど前に新橋駅前ビルの立ち呑み日本酒バー『庫裏』で軽く一杯ひっかけていた時にたまたま横で飲んでいた早大*1から聞きかじった話だが、四谷荒木町は日本酒の三大聖地の一つらしい。『与太呂』、『宵の間』、『弥七』に『タキギヤ』、『うのすけ』や『離れ のんき』も日本酒の飲み比べができる店だし、端から端まで歩いても五分とかからない狭い凹地であるにもかかわらず、舟町・荒木町界隈で日本酒にこだわってる店を数え上げたらキリがない。荒木町が"日本酒の聖地"と言う噂は本当なのかもしれない。

 

山形酒祭り2017

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5月14日に「山形酒祭り2017」に参加した。山形県内の15の酒造が新宿〜四谷荒木町の飲食店8店舗とコラボするハシゴ酒イベントで、チケット代6000円で日本酒が飲み放題、おつまみも食べ放題だった。イベント開始後2時間程でいい感じに出来あがってしまったせいか、中盤からの記憶が曖昧で、何の銘柄を飲んだかさえ早くも忘れつつある。完全に記憶が飛んでしまう前に、まだかろうじて残っている記憶を頼りにイベントの雑感を書き残して置こうと思う。

 

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前売りチケットを購入した『四谷舟町砂場』を13時に訪れてリストバンドと地図を入手。普段は静かな店内もこの日は満席で立ち呑み状態。ハムを肴に駆けつけ三杯飲んでから、以下の順番で店を回った。

 

1.四谷舟町砂場(荒木町)

【参加酒造】出羽桜、大山

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2.和てじまぅる 酒菜 角萬(新大久保)

【参加酒造】米鶴、栄光富士

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店の奥の方でブースを出していた米鶴の夏酒(蛍ラベル)が美味しかった。いい雰囲気の店だったので後日また飲みに行こうと思う。

 

3.Plat(新宿)

【参加酒造】清泉川、奥州自慢

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この中では銀の蔵が美味しかった。チーズは全種類食べ切ったが、手前のキムチがトッピングされてるのが一番酒がよく進んだ。

 

4.濁酒本舗Tejimaul(新宿)

【参加酒造】澤正宗、六歌仙どぶろく

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澤正宗は右の純米吟醸と中央の美酒美酒を、六歌仙は中央の山法師を、どぶろくはピンクと黒の銘柄をそれぞれ飲んだ。特にピンクのどぶろく*2は、甘さと酸っぱさの釣り合いが取れていてグイグイいけた。是非また飲んでみたい。2の和てじまぅる(新大久保)と同系列の店で、この店では山形ラーメンを食べることができた。

 

5.ラボ・ガレージ(新宿)

【参加酒造】楯野川、東光 

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東光の吟醸梅酒がサッパリしていてうまかった。女性の常連さんが多い印象の店。

 

6.すし処 志げる(荒木町)

【参加酒造】秀鳳

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品切れのため秀鳳BEACH SIDEが飲めなかったのが悔やまれる。早めの時間帯に行った人はいくら丼を食べることができたらしい。

 

7.オール・ザット・ジャズ(荒木町)

【参加酒造】鯉川、加茂川、羽陽一献

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前から行ってみたかった店でようやく行くことができた。確か伍連舎と13を飲んだとような気がするが、どんな味だったか覚えてない。

 

8.Talkin'Loud(荒木町)

【参加酒造】千代寿、白露垂珠

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アシッドジャズがかかる日本酒バー。肴は卵の黄身のいしる漬けだった。何を飲んだか思い出せない。

 

宴の後

8軒目の『トーキンラウド』にたどり着いた時には既に時刻はもう16時。この辺りの時間帯になると、当初はバラバラに行動していたイベントの参加者同士にも奇妙な連帯感が生まれていて、終盤の店内はもはや完全に宴会状態になっていた。最後はスタート地点の『砂場』に千鳥足で舞い戻ってみんなで乾杯し、山形酒祭り自体は17時きっかりで終了。『砂場』を追い出された後は二次会、三次会と飲み屋をハシゴして解散した。家路に着いたのは確か21時頃だった思う。

 

次は50蔵27店舗が出店する大長野酒祭り(7/16)に参加する。山形酒祭りのように全蔵制覇することはまず不可能なので死なない程度に程ほどに楽しみたい。

 

註 

 

*1:彼は神楽坂の居酒屋でアルバイトをしながら利き酒師を目指していた。

*2:通称ピンどぶ

プロティノスについて

プロティノス*1とその学派について書かれた以下のテクストを流し読みした。

以下では、プロティノスの生涯およびその思想の歴史的な位置づけ、並びに彼が実質上の創始者となったアレクサンドリア学派(新プラトン主義)の後世への影響について忘れないうちに簡単にまとめておく。

プロティノスの生涯

西暦205年にエジプトの地方都市リュコで生まれたプロティノスが「哲学への愛に燃え立った」のは28歳の時で、彼は当時の大きな学問的運動の中心地であったアレクサンドリアに遊学し、アンモニオス・サッカス*2に師事して11年間に渡り哲学を研究した。三世紀中葉のアレクサンドリアでは文献考証的な学問が育成されていた。ピュタゴラスプラトンアリストテレスに関する数多くの注解がそこで生まれ、そうした文献考証的なアレクサンドリアの風土は古典古代のさまざまな哲学書を註釈するプロティノスの講義のスタイルを決定づけることになった。アレクサンドリアから戻ると彼はローマに定住した。40歳の時だった。彼はこの地で学校を開設したが、そこでの教育は大きな成功を収めている。数多くの元老院議員が彼の授業を聴講し、皇帝ガリエヌス*3やその妃サロナもプロティノスを尊敬したと言う。

プロティノスは称賛の念を引き起こしただけではない。周囲の人々にとっては俗世を超越した神的な存在と映ったようである。プロティノスの弟子であり良き理解者でもあったポルプュリオス*4は読心術とでも言うべきものを彼に認めている。ポルプュリオスが自殺しようと思ったとき、プロティノスはそれを見抜いてシチリアへの旅行を勧め、そこでポルプュリオスは立ち直ることができた。

ポルプュリオスはまた、魔法を解く力をも彼に認めている。エジプトのある司祭が悪魔を呼び出してくれとプロティノスに頼んだとき、登場したのは神だった。なぜなら、実際彼に伴っていたのは神だったからである。

ー『ベルクソン講義録Ⅳ』P12

プロティノスにとっては神的なものと接触し、それと合一することが人間に許された究極の浄福であったことは言を待たない。彼自身もその生涯において少なくとも四度の法悦を経験している。プロティノスは270年にローマで66歳の生涯を終えた。彼の最後の言葉は「私は私の内なる神的なものと万物の内なる神的なものとを結びつける努力をしている」であったと言う。

『エンネアデス』

プロティノスの著作は主として聴講者の質問に答えるという形を取っている。それらは晩年の16年間に書き記された。現在にまで伝わっている論文集『エンネアデス』は、301年にポリュプュリオスが編集し公刊したものであり、彼はプロティノスが書き残した各論文の主題の類似性に着目しながら、総じて簡単なものから難しいものへ、短いものから長いものへと移っていく九篇の論文から成る六つのグループをまとめあげた。ポルプュリオスはこれら九篇で一組のグループを「エンネアス(九つで一組みのもの)」と呼び、その複数形である『エンネアデス』が後世においてポルプュリオス編『プロティノス全集』のタイトルとみなされるようになった。

ヘレニズム

プロティノスが書いたものを熱心に読んだのは、厳しく自分を律したおかげで晩年に成功を収めながら、それでも安心立命できないでいる人たちだった。「肉体をまとっていることを恥じてい」たプロティノスと同じく、彼の取り巻き達もまた、霊魂がなぜ肉体と結びつき堕落することになったのかという問題に悩まされていた。彼らは自分たちのことをヘレネス(ギリシア至上主義者)」と呼び、自分たちの考え方のことを「ヘレニズム(ギリシア至上主義)」と呼んでいた。

ヘレニズムは差し当たり、知的な折衷主義、漠たる道徳主義、宗教的には異教的、精神的にはギリシア的な文化として特徴付けることができるだろう。ヘレネスは総じてプラトン以来の伝統的「教養[παιδια]」と深く結びつき、古代末期に東方から伝来したグノーシス派やキリスト教徒の考え方を受け容れようとはしなかった。プロティノスは「エネアス」Ⅱ・9においてグノーシス派の論者を論駁しているし、彼の弟子の一人であるアメリオスもまた、グノーシス派のゾストリエンを論駁する40冊の書物を著している。

キリスト教批判の第一線でもプロティノスの後継者たちは活躍した。ポリュプュリオスは広範な学識に基づいたキリスト教批判を展開しており、その批判は19世紀のキリスト教批判に匹敵する程の水準に達している。また、ポリュプュリオスの弟子だったイアンブリコス*5は、一時的ではあるもののキリスト教徒に勝利した。と言うのは、キリスト教を国教化したコンスタンティヌス*6の甥にあたるユリアヌス帝*7をヘレニズムの信奉者に仕立て上げたからである。

プロティノスが身を置いたヘレニズムという保守的な環境は彼に決定的な影響を及ぼした。彼は当然のことながら、東方からの文化的侵略に対してギリシア哲学の総体を対置するよう促された。「ただし、単に並置によってことを運ぶのではなく、ギリシア哲学の思想の地下深くを」掘り下げることで彼はそうしたのだが、「その結果プロティノスは、この思想を湧出せしめた源泉それ自体をも湧出させた程だった」。

後世に与えた影響

ルネサンス期においてギリシア古典期の教養が復活できたのはヘレネスたちのおかげである。キリスト教が国教化された後もアレクサンドリア学派のプロクロス*8ギリシアの神々を称える『神学原論』を書いているし、ギリシア古典期の哲学の最良の部分を受け継いで中世ヨーロッパに伝えた聖アウグスティヌス*9否定神学創始者の一人であるディオニシウス・アレオパギタ*10にとってもプロティノスの哲学が重要な意義を果たしている。

プロティノスを実質上の創始者とするアレクサンドリア学派(新プラトン主義)が後世に与えた影響は計り知れない。12世紀に至るまでキリスト教圏やイスラム教圏でギリシア古典期の哲学だと信じられていたのは、実は古代末期においてヘレネスたちが復活させた哲学だった。ルネサンス期の西欧において復興されたプラトンもまた、ギリシア古典期のプラトンそのものではなく、ヘレネスたちが復活させた新プラトン主義のプラトンだったのである。

 

参考

 

世界の名著 15 プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (15)(中公バックス)

世界の名著 15 プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (15)(中公バックス)

 

 

 

ベルクソン講義録〈3〉近代哲学史講義・霊魂論講義

ベルクソン講義録〈3〉近代哲学史講義・霊魂論講義

 

 

 

 

ベルクソン講義録〈4〉ギリシャ哲学講義

ベルクソン講義録〈4〉ギリシャ哲学講義

 

 


 

 

 

哲学史講義〈中巻〉

哲学史講義〈中巻〉

 

 

 

神秘哲学 一九四九年― 一九五一年 (井筒俊彦全集 第二巻)

神秘哲学 一九四九年― 一九五一年 (井筒俊彦全集 第二巻)

 

 

 

新プラトン主義を学ぶ人のために

新プラトン主義を学ぶ人のために

 

 

古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか? (刀水歴史全書)

古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか? (刀水歴史全書)

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*1:205-270年

*2:175-243年頃

*3:在位253-68年

*4:234-305年

*5:240-325年

*6:272-337年

*7:331-363年。古典的教養を身につけ、ヘレネスたちの代弁者たちであった彼は、帝位に就いた後に異教を復活させてキリスト教を転覆しようと専心したが、363年にペルシャ遠征で戦死した。享年32歳。傷口からしたたる血を空に向けてほとばしらせながら彼が残した最期の言葉はよく知られている。「ガリラヤ人(キリスト教徒の蔑称)よ、汝ら勝てり。」

*8:412-485年

*9:354-430年

*10:6世紀頃初頭から東方キリスト教会に現れ、後に西ヨーロッパにも伝えられた文章群の著者と言われる人物。使徒パウロから受洗したアテネのアレオパギタ(裁判官)デュオニュシオスがそれらの文書の著者と信じられてきたが、現在ではプロクロスの影響を受けた人物であることがほぼ定説となっている。

2016年を振り返る(音楽)

 今年聴いた音楽を気に入った順番に並べてみた。

音楽

 

以上39枚。

 

16年ぶりにアルバムを出したThe Avalanches『Wildflower』、解散を発表した清竜人25の『Love & Wife & Peace』、来日したMayer Hawthorneの『Man About Town』ーこの三枚はよく聴いた。曲単位ではサザンソウルやロマン派のピアノ曲を集中的に聴いていた。

 

従来型の円盤での聴取に加えて、ここ数年ストリーミングサービスやYoutubeニコニコ動画SoundCloudなどで新たな音楽に遭遇することが多くなって来ている。今年に入ってからは聴取の方法がさらに多様化して、近場のミュージックバーや比較的小規模のイベントスペース、小料理屋などで音楽を楽しむ機会が多かった。

 

夏フェスに行けなかったのが心残りなぐらいで、全体としては良い音楽に巡り会えた一年だったと思う。2017年は非録音媒体での聴取の比率をさらに上げて音楽を愉しみたい。

 

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Wildflower

 

 

 

2016年を振り返る(読書)

 今年読んだ本を面白かった順に並べてみた。

 

 1.マンガ

以上30作品。

 

『喧嘩稼業』の複雑に展開する心理戦の描写の巧みさに、

波よ聞いてくれ』の登場人物たちの機知に富んだ会話の妙に、

ハイスコアガール』の沈黙もまた一つのメッセージとなり得ることを執拗に証明し続けている点に、

それぞれ心を動かされた。

 

雑誌連載で読んでいたのは、『喧嘩稼業』と『センゴク権兵衛』と『はじめの一歩』だけで、あとは全て単行本での後追いになってしまった。マンガの場合、単行本で後からまとめて読むよりも、雑誌連載でリアルタイムに読み進めた方が間違いなく面白いので、来年はできる限り単行本よりもマンガ雑誌で読むことに時間を割くようにしたいと思う。

 

2.マンガ以外

 

以上27冊。

 

『最速でおしゃれに見せる方法』はコーディネートの方向性を根本的に見直すきっかけを与えてくれた点で、

『138億年の音楽史』は音楽が世界を読み解く重要なツールだという事を再認識させてくれた点で、

『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』は、山の手の地形そのものを楽しむ視点を与えてくれた点で、

それぞれ2016年の自分のライフスタイルに対して陰に陽に影響を与えていたように思う。

 

今年は仕事が多忙を極め、プライベートな時間がほとんど存在しなかったにも関わらず、毎月約2冊のペースを維持することができた。とは言え、ブログに感想を書き付けるところまでは手が回らなかったのが悔やまれる。書くのが遅いせいだ。来年はもっと軽いノリで更新できるよう文章力を磨きたい。

 

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喧嘩稼業(7) (ヤングマガジンコミックス)

J=P・リシャール『ヴェルレーヌにおける「味気なさ」』(『詩と深さ』収録)

1961年にJ=P・リシャールの『マラルメの創造的宇宙』が出版された際、或る人々は、「彼が深さの暗喩に魅了されたこと、そして断片的な言語の向こうに"水面下のきらめき"をとらえようと望んだこと」を非難した。文学研究は既に成年期に達して心理主義200年の歴史から解放され、モーリス・ブランショによって《近代文学は全て深みというものに背を向けるべきだ》と宣言されたというのにである。

 

だが、そうした非難の多くは当たってはいない。なぜなら、マラルメ論に先立つこと6年前の『詩と深さ』(1955年)において、リシャールはまさに「深さ」という観点から、ネルヴァル、ボードレールランボー、そしてヴェルレーヌという四人の詩人を分析し、「深さ」に対する詩人の態度の類型学とでも言うべきものを前もって展開していたからだ。

 

本書を流し読みし、とりわけ印象深く思ったのは、ランボーボードレール、ネルヴァルと比べて今日不当に軽んじられているポール・ヴェルレーヌについての分析である。爆発・飛翔・噴出・変容・省略・反抗によって「深さ」を否定し、裏に潜む奈落というものの無い世界を打ち立てたランボーと同じく、その友人のヴェルレーヌもまた「深さ」を否定しようとするのだが、ヴェルレーヌの行き方はランボーのそれとは違っている。「彼は深さからその底を、従ってその基盤を除き去ろうとする」のである。ヴェルレーヌにとって「深さ」とは、「茫漠たる広さ、広大さ、純粋な無限定性」であり、"水面下のきらめき"を追い求めなければならないような類の"深さ"とは似ても似つかぬ代物だ。

 

さて、ヴェルレーヌにおける「深さ」の経験とは具体的にはどのようなものだったのか?後学のために ープラトン流に言えば想起のためにーこの点に関するリシャールの叙述を手短に追いかけてみることにしよう。

お前の目を半ば閉じ、
胸に両手を重ねよ。そして
眠り込んだお前の心から
あらゆる思いを永久に追い払え

ヴェルレーヌ詩集・艶かしきうたげ『忍び音に』

自分の内部を空っぽにするポール・ヴェルレーヌの術ーその狙いは、判断(思い)の停止にあって、感覚(印象)の停止にはない。ヴェルレーヌは自分が感じているものとの接触をまだかろうじて保っている。感覚を追い払うのではなく、感覚が伴っている思いを追い払うのである。そのようにして彼は、感受性の状態(=情念)をしっかりと保ったままで、事物の世界に向かって自らの感覚を解き放つ。

 

「感覚という、あの思いがけない恩寵への期待」。他所から吹き寄せる風[רוחהקודש]のように、どこからともなく一方的に吹いてくる何らかの影響力に対する無限の信頼。

物の世界に直面した時、ヴェルレーヌという人は、自然に受け身の、待機の姿勢をとる。

彼はこれらの事物に対して好奇心も欲望も投じようとはしない。

彼は相変わらず動かず、泰然自若として、物が彼の前に姿を現してくれた時に、自分が一層容易に物から浸透されるよう、自分の中に隙間を沢山作っておくことで満足する。

他方で同時に、彼にとって感覚とは、信号を送り出す事物から肉体が受け取る「印」であり、「印」は肉体に辿り着くまでの間に出発時には帯びていたはずの豊かな情報の大半を失ってしまうのが常である。そうなると、「印」は今やあまりにも長いあいだ栓を開けっぱなしにしていた香料のように気が抜けて、感覚はその事物のかすかな痕跡・漠たる暗示しか感じ取ることができない。

 

ヴェルレーヌが事物およびその「印」との間にとり結んでいるこうした関係は、ほとんど満たされない関係であり、この関係は貧しさを基調とする。ヴェルレーヌの風景において、事物は決して晴れ晴れとした状態にも充実した状態にも達しておらず、いつも遠く離れて、縮こまって衰弱した姿を彼の前に晒している

事実、ヴェルレーヌは、内面の輝きを失ったものを偏愛するのである。彼が愛するものは、その力を十分に弱められ、従ってその所在を精神に教える感覚が、単に今にも消え入りそうな、それどころか、自我がその印象を受け取る時にはもう消滅してしまっているような、はかない存在を示すにすぎない、といった具合でなければならない。

ヴェルレーヌ的対象は、求められても決して自ずからは与えられず、むしろそれどころか、そのような求めに対して門戸を閉ざしているような無愛想な事物であり、当然のことながら、このような反ロマン主義的な状況は、《世界との接触は根本的に虚しい》という諦念を呼び覚ます。

 

具体的な物の確かな記憶をいささかも留めていないヴェルレーヌの感覚は、その源泉となった対象が既に消滅したことを告げている。したがって、感覚を遡り、それが自らのもとへ辿り着くまでに通過して来なければならなかった道を逆方向に辿りつつ、かつて有ったはずの豊かな源泉を発見することは、彼にあっては問題にはならない。その道の果てで彼が出会うのは単なる有ラヌモノだけだからだ。

 

とはいえ、事物のこのような無愛想を甘んじて受け入れるのであれば、芸術家であることを、引いては詩人であることを放棄することになってしまう。だからこそ彼は、事物の無愛想や沈黙や慎み深さに対して、その消極性を通じて存在が何らかの仕方で姿を現わすのを辛抱強く待ちながら、情熱的な関心を注ぐことになるのである。

 

要するに、ヴェルレーヌにとって《存在は香りにおいて与えられる》。次第に消えて行く香りや半ば幻めいた風景を彼が好んで追い求めたのはそのためだ。あるいは、『忍び音に』対する彼の好みや、枯れたものや萎びたもの、干からびたものに対する彼の執念もその一例に他ならない。

 

だが、リシャールの考えでは、ヴェルレーヌの真骨頂はそのような"枯淡"とでも言うべき風景を達成した点にあるわけではない。むしろ逆に、そうした形を持たぬ漠たる感覚の広がりの中に、軋り、衝突し、不快感を掻き立てるような一連の不協和音を導入した点にある。例えば、場にそぐわない語を用いることや、びっこを引いた韻律や関節の外れた統辞法に対する彼の愛着、ランボーから学び取った俗語や卑猥な語の使用、…etc、彼の詩的言語を特徴付けるこうした奇妙な特徴は、「形を持たぬ感受性の状態を何らかの意味で限定したい*1という深刻な要請から出てくるものである。

 

その理由をリシャールは次のように説明する。

空虚で宙ぶらりんな感受性の状態が永く続けば、それを享受する自我の存在そのものが脅かされるであろう。感覚が涸れるにつれて、意識は鈍磨し、存在は惰眠状態に陥るおそれがある。そういうわけで、拡散した感覚は、同時にそれを受け入れる意識を刺激し、苛立たせなければならない。

おそらくヴェルレーヌは狂気に囚われながらもいまだ完全には正気を失なってはいない。狂気に囚われた者でありながらも、正気を保ったままで、彼はかろうじて意識のゼロ・ポイント、境界線の上、「縁」の上に留まっている。かろうじて垣間見るだけの新たな「自己」をもぎ取ってくることができないままで。

ネルヴァルやランボーボードレールほど意志が強く無い彼は最後まで冒険をやり通さない。『叡智』[Sagesse]と共に、彼は立ち止まり、臆病風に吹かれてあとずさりする。日常性に戻り、すでに名づけられたものへ、限定された個人の生活へと立ち帰る。真に自己を失おうとせず、完全に消滅し去った揚句に再び自分を見出すであろうあの極限に至ろうともしなかったばかりに踏み違えた、一人の人間の悲劇なのである。

だがむしろ、ここでのヴェルレーヌの課題は、たとえ全てが無残に終わるとしても、このどっちつかずの茫漠たる世界の境界に止まりつつも、かろうじて正気を保ち続けることにある。


確かに意志の強いランボーならば、そこで立ち止まらずにもっと遠くまで行くことができたのかもしれない。けれども、ヴェルレーヌのように冒険を最後までやり通さずに「縁」の上に立ち止まったままでいることも、それはそれでまた一つの才能ではないのか。

 

いずれにせよ、問題は、日常/非日常の境界線を単に突破することにはない。むしろ問題は、いかにして非日常の境界線を「勝利者として」通り抜けるかにあるからだ。ヴェルレーヌは、深淵の中で正気を保ったままでいるために、まどろみが本当の眠りに陥るのを引き止めるために、漠たる感覚の広がりの中にひび割れをつけ、亀裂を作り、不均衡面を刻み込むことで、一連の不協和を自らの詩世界に招き入れる。

従ってヴェルレーヌの成功は、ひたすら不確定なものの享受と、極端な感覚の鋭敏さの享受とに同時に人を誘うような、一種の呪文を作り出したところにある。〈非常に茫漠としていると同時に鋭い一瞬〉、これがヴェルレーヌの夢想が場所を占める典型的な瞬間なのである。

〈漠〉と〈確〉ーヴェルレーヌの風景は漠然とした淡さと苦々しい鋭さという相矛盾する調子が同時に分かち難く含まれているような風景である。こうした鋭さと淡さを兼ね備えた気分を彼は一言、〈味気なさ〉[fadeur]と呼んでいる。〈味気なさ〉は単なる無味乾燥[insipidite]とは異なっている。むしろそれは、「神経を苛立たせる」*2ような無味*3であり、枯れたもの・萎んだものがなお死に絶えることを拒んでいる状態であり、

この異常な残留磁気のせいで一種の新たな生命を帯びるのである。それはどことなく曖昧な曇りを帯びた生命で、無味とは言ってもその一歩手前のもの、ともかくそれとは異なったものではないかと推測されるのである。

味気ない気分・味気ない思いーそれは単なる無関心と同じではない。むしろそれは、有ラヌモノに生じる断末魔の抵抗、有ラヌモノが感覚を誘惑し、一種の嫌悪感を掻き立てながらも自らがなお有ルことを認めさせ、気を引かせるための手口なのである。

 

ヴェルレーヌの詩を裏声で走り抜けて行くのはこの〈味気なさ〉の気分であり、彼の詩を、慄えるというよりかすかに揺らめく、人の心を揺するというより甘やかす詩たらしめているのもおそらくこの気分なのだろう。

 

詩と深さ (リシャール著作集)

詩と深さ (リシャール著作集)

 

参考 

マラルメの想像的宇宙

マラルメの想像的宇宙

 

 

 

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

 

 

 

 

*1:「特殊に対立する一般や、限定に対する非限定や、有限に対立する無限は、それ自体が限定されたもの、対立の一方の項をなすにすぎない以上、相手からの限定を受けざるを得ない」

ヘーゲル哲学史講義』

*2:

*3:

ヘーゲル『懐疑主義と哲学との関係』について

ヘーゲルは生前、自分の著作のごくわずかな部分しか出版しなかった。現在公刊されている彼の著作の大部分は、口頭で行われた講義を聴講者が筆記したものか、いくつかの下書きを寄せ集めた手記を収録したものがほとんどであり、生きているうちにヘーゲル自らの手で公刊された著作はわずかに5点、論文ですら19点しかなく、残りは匿名で出した翻訳が1点、その他は広告文ぐらいしかない。本書のタイトルにもなっている『哲学と懐疑主義の関係』は、まだ仲が良かった頃のヘーゲルシェリングが、イエナで共同で刊行していた『哲学批判雑誌』に収録された論文である。

 

だがそれにしても、なぜ懐疑主義なのか?確かにヘーゲルは若い頃セクストゥス・エンペイリコスについて熱心に研究してはいた。けれども、この論文で古代懐疑派が主題として論じられるのは、そのような伝記的な理由だけではおそらくない。というのは、他ならぬヘーゲルその人が、あらゆる"真の哲学"は懐疑主義と「根本的に一致」していると語っているからだ。

 

とは言え、この論文に懐疑家として名を連ねているのは、ピュロンやアグリッパ、セクストゥス・エンペイリコスのような哲学史において単なる懐疑家として登場する人物ばかりではない。どう言うわけか懐疑派には通常分類されない"真の哲学者"たち、例えば哲学者中の哲学者であるところの『エチカ』を書いたスピノザや『パルメニデス』篇のプラトンまでもが懐疑家として召喚されている。

 

その理由は、「そもそも、単なる懐疑主義そのものとして登場する特殊な形態しか懐疑主義とみなさないような懐疑主義の捉え方は、哲学の立場の前では無効である」からだ。ヘーゲルからすれば、「哲学体系そのもののうちに、本当の意味での懐疑主義が見出されるのである」。

 

ヘーゲルは決して懐疑主義だけを孤立して考えたりはしなかった。彼はあくまで懐疑主義哲学との関係において、「弁証法」的に捉えようとした。ここで言う弁証法[διαλεγειν]とは、有るものを他のものを通して、他のものへの本質的な関係において理解し、ただ単純にそれだけを考えるようなことはしないという意味である。

プラトンの『パルメニデス』より以上に完成され、屹立する真性の懐疑主義の書物、体系をわれわれは見出し得ようか。

 

パルメニデス』篇の内に純粋かつあらわな形態で登場しているこの懐疑主義は、潜在的にはあらゆる真の哲学体系の内に見い出すことができる。

懐疑主義は単なる懐疑主義者の主張にだけ見出されるのではなく、必ずしも懐疑主義とはみなされない哲学者たちの体系の中にも見出しうる。例えば、スピノザは『エチカ』において、「神は世界の内在的原因であって、超越的原因ではない」と述べているが、この命題においては、原因と結果の概念が互いに矛盾し合うような仕方で結合させられている。というのは、一方で、この命題は「内在的原因」、すなわち結果と一体になった原因を唱えているのだが、そもそも原因は結果とあい対立する限りでのみ原因だと言えるからである。原因と結果の両者が一つの命題の中に結合されて呈示されるならば、その結合は矛盾を含んでいて、両者はそこにおいて同時に否定されている。

 

ヘーゲルによれば、こうした哲学の命題は全て端的に矛盾し相互に打ち消し合う二つの命題へと解体することができる。例えば、先のスピノザの命題は、《神は原因である》と《神は原因でない》の二極に分解することができる。そして、このような哲学的命題の二律背反的性格において、《あらゆる言説にそれと同等の(正反対の)言説が対置される》という懐疑主義の原理が強烈に現れているのである。

 

逆に言えば、こうした相互にあい闘う二命題は、すべて「弁証法」的に(と言うことはつまり、相互に他のものを通り抜けるような仕方で)結合することができるとも言える。例えば以下の諸命題はすべて以上に述べたような意味で「弁証法」的であり、従って懐疑主義をその内に含み込む。

 

  • 「有らぬものは有る」(プラトン)
  • 「神とは、昼にして夜、冬にして夏、戦争にして平和、飽食にして飢餓である。」(ヘラクレイトス)
  • 「思考は存在である。」(パルメニデス)
  • 「経験の本質は経験の対象の本質である。(カント)
  • 「自我は非我である。」(フィヒテ)
  • 「先天的なものは後天的なものである。」(ヘーゲル)
  • 「神は万物である。」(シェリング)

 

論理学がタブーとして禁じるところの矛盾律は、哲学者たちにとっては必ずしもタブーではないことがよくわかる。むしろ逆に、あらゆる哲学の命題は、矛盾律に違反するものを含んでさえいなければならない。もちろん、弁証法に習熟していない一般人にとっては、これらの命題は単なる矛盾した命題であり、「対消滅」している命題であり、まったく間違ったバカげた命題にしか見えないだろう。日常の常識は、こともあろうに卑しくも哲学者ともあろう者がこのような"論理学上の誤り"を犯しているのを見ると妙な優越感を抱くのが常だからだ。

 

それに対して、どう言うわけか矛盾そのものをその思索の原動力としているヘーゲルは、矛盾が必ずしも哲学的命題の真理性の反証ではなく、むしろその真理性の証拠であるということを告げている。つまり、或る哲学者の任意の思想において何らかの命題が明らかに矛盾しているのだとすれば、その矛盾はおそらく、その思想を蒸発させずに思索せよと読者に命じているのだと言うのである。

真の哲学は全てこうした否定的な側面を持っており、矛盾律を永遠に止揚している。従って、そうしようと思えば誰でも、直ちにこの否定的な側面を際立たせて、どんな否定的な側面からでも懐疑主義を提示することができるのである。

と、万事このような調子でヘーゲルは、古代懐疑派の諸テーゼを"真の哲学"、すなわち、後に「ドイツ観念論哲学」と呼ばれたものの「一要素」として貪欲に取り込んでいく。その意味で、以下に引用する『哲学史講義』の発言は懐疑主義と哲学、とりわけヘーゲルの哲学との関係を明瞭に示していると言えるだろう。

 

 懐疑主義に対しては肯定的な哲学は次のような意識を持ちます。懐疑主義の持つ否定の作用は自分自身の内にあって、この懐疑主義は自分に対立するものでも自分の外にあるものでもなく、自分の一要素をなしている、ただ、否定の作用が真理につながるところは懐疑主義と違うところだが、と。
 さて、懐疑主義と哲学との関係について言えば、懐疑主義は具体的内容の一切を弁証法的に解体するものと言えます。真理に関するすべての観念は、内部に否定や矛盾を含む以上、その限界をしめすことができる。そして通常の一般性や無限性はこの次元を超えることができない。というのも、特殊に対立する一般や、限定に対する非限定や、有限に対立する無限は、それ自体が限定されたもの、対立の一方の項をなすにすぎない以上、相手からの限定を受けざるを得ないからです。分析的思考は、こうした限定つきの区別を最終的なものと考えるので、懐疑主義は、そこに攻撃の矢を向けます。

関連記事

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参考

 

懐疑主義と哲学との関係 (フィロソフィア双書)

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プラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボス

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エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

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ピュロン主義哲学の概要 (西洋古典叢書)

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哲学史講義〈中巻〉

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ブログ名の由来/はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

8ヵ月以上ブログを更新していません。最後に書いたのは手コキについてのエントリーで、
このまま更新をさぼっていると品性を疑われかねないので、取り急ぎ更新致します。

今月の11月7日でちょうど5周年を迎えるはてなブログが、キャンぺーンをやっていたのでそれに乗っかることにしました。

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

1.はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

このブログは読んだ本の感想を書き貯める備忘録としてスタートしました。国会図書館で読んだ本についてのEvernoteのメモ書きを一つのまとまった文章に書き起こしたのが最初の記事です。当時のブログ名は確か『断片』という名前で、特に具体的な誰かを宛先にして書くという訳でもなく、(読んだ本の内容をすっかり忘れているであろう)未来の自分に宛てて書いていました。数あるブログサービスの中で特にはてなブログを選んだ理由は、それ以前からはてなブックマークを愛用していたので、はてなのサービスに愛着があったからです。

2.ブログ名の由来を教えて!

ブログ開設当初は、読んだ本の内容を短く要約して一言感想を述べるだけで満足していました。けれども、何度か更新を繰り返すうちに、どれだけたくさんの本を読んでいても、その著者に対する批判なしにただ漫然と読んだのでは、きちんと本を読んだことにはならないのだと考え直し、理解と批判とがピッタリ一体となった読書感想文を心がけるようになりました。『魔法少女まどか☆マギカ』を巡る東浩紀の一連のツイートについてまとめた『女の子同士の不可能な出産』は、そういう批判的な姿勢を交えて書いた最初のエントリーです。

「批判的」と言うと、何か攻撃的で野蛮な、何にでもケチをつけて非難するような、そういう印象を持つ人もいるかもしれません。しかしながら、ここで「批判」と言うのは、単なる"非難"の意味ではなくて、《その著者の思考のプロセスをきちんと吟味しながら読む》というぐらいの意味です。

ブログ名を『学者たちを駁して』に変更したのもこの頃で、ヘレニズム期のギリシアで懐疑家[σκεπτικός]として活動したセクストゥス・エンペイリコスの著書『Πρός μαθηματικούς』[学者たちへの論駁]から盗りました。

「学者たち[μαθηματικοί]」(マテマティコイ)とは、古代・中世の基礎学級の教師たちの事で、具体的には、論理学者や弁論家や文法学者、並びに天文学幾何学・数論・音楽の教師たちの事を言います。「学者たち」とは要するに、その昔西欧において自由七学科[septem artes liberales]と呼ばれたもの、すなわち、リベラルアーツの教師たちを指す言葉です。

もともと「数学(mathematics)」の語源であるギリシア語の「マテーマ」は、「学ぶ」と言う意味の「マンタノ」から来ている。つまり、「数を学ぶ」ことが、すなわち学問を意味したのだ。
ユークリッド原論』の注釈者として知られるプロクロスによれば、ピュタゴラス派では、「マテーマ」を、まず数と量の二つに分け、それが静止しているか、運動しているかでさらに二つに分け、計四つに分類した。すなわち、静止している数が「数論」、運動している数が「音楽」、静止している量が「幾何学」、運動している量が「天文学」というふうに〔…〕。
ここから「数論」「音楽」「幾何学」「天文学」の四科(puadrivium)という学問の基礎科目が生まれ、これをベースに、「文法学」「修辞学」「論理学」が加わって、「リベラルアーツ(liberal arts)」と呼ばれた中世以降のヨーロッパの大学での教養カリキュラム「自由七学科」が形成される。〔…〕「リベラル・アーツ」ということばには、「人間の精神を自由にするための教養」という意味が込められている。
-浦久俊彦『138億年の音楽史』P212-213

ところが、これら自由七学科の「学者たち」には、誰もがそれぞれ自分の教えているものこそが他の何にも増して重要だと言い立てる傾向がありました。セクストゥスにとって「学者」とは、今の言葉で言えば「〜主義者」、既に前もって権威づけられた何らかの"立場"からしかモノを言えないドクマティスト[δογματικός](=独断論者)を意味していたのです。

「学者たち」は既に権威づけられた或る任意の"立場"からモノを言うことで、自分自身を無敵のもの・不死身なものとみなそうとします。ところがそれに対してセクストゥス・エンペイリコスのような懐疑家は、そうした"立場"の硬直性と恣意性に対して抵抗を試みます。「学者たち」は、自分たちのモノの見方を何にでも適用できると強弁し、一切のものの間に引かれた境界線を消し去ろうするのですが、懐疑家はそのような振る舞いに断固として抗うのです。

懐疑家[σκεπτικός]と聞くと、ただ疑うためだけに疑おうとする疑り深い人々、相対主義的で軟体動物的なめんどくさい人物をイメージしがちです。けれども、懐疑[σκέψις]にはもともと、鵜呑みにせずに実際に「調べてみる」こと、「境界線に眼を向ける」と言う意味があり、懐疑家とは本来、境界線を吟味する人たちのことを言うのです。ブログ名の『学者たちを駁して』には、以上に述べたような意味での懐疑家たらんとする意志が込められています。

3.自分のブログで一番オススメの記事

ジャック・デリダのハイデガー論を『テニスの王子様』の必殺技に結びつけて論じた『哲学にとってタブーとは何か』、柄谷行人の占い師としての側面を際立たせて取り出した『柄谷行人と占星術』も捨て難いですが、一つだけオススメを挙げるとすれば、マックス・ウェーバーの古代資本主義論について書いた↓の記事です。

rodori.hatenablog.com

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

  • このブログを書いてなかったら絶対に知りえなかったような面白いブログを発見できたこと。
  • 親切な人たちにブクマやツイッターを通じて色んな事を教えてもらったこと。

5.はてなブログに一言

「学び」のサブカテゴリーに哲学・思想・批評・リベラルアーツのカテゴリーを作って欲しい。

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

参考

学者たちへの論駁〈1〉 (西洋古典叢書)

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138億年の音楽史 (講談社現代新書)

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