学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

本を読むことの暗黒面/ショウペンハウエル『読書について』を読む

はじめに

世の中のほとんどの読書論は「本は読まないよりも読んだ方がいい」、「本を読んだ方が教養が身につき考えも深く豊かになっていく」という考え方、言わば読書に対するある種の性善説を前提にしてきました。
 
僕もそういう考え方に従い、今までそれなりにたくさんの本を読んできました。「本を読むことで、いつかは自分も世間一般の人があまり考え着かないようなことを考え着くことができるようになるはずだ」。「いつかは自分も…」そう自分に言い聞かせながら自分なりの読書道を歩んできました。けれども、そういう考えに対して真正面から直滑降で向かってくる影があります。これは身構える必要がありそうです。
 
ショーペンハウエルの『読書について』は、読書が持つ昼の顔、つまり読書の効用については正面からは何一つ述べようとはしません。むしろ著者がこの本の中で何よりもまず読者の注意をうながそうとしているのは、本を読むことの暗黒面、読書がもたらす「害毒」の部分です。この本はよくある「読書のすすめ」のようなものではありません。むしろ、《いかに本を読まずにすませるか》を説いた本なのです。
 
 
 
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本を読むことの暗黒面

本を読むこと自体が読者にもたらす害毒、それは多読の害です。よく「本を読めば頭が良くなる」と言いますが、ショーペンハウエルはそのような意見には断固反対します。

読書は、他人にモノを考えてもらうことである。
だから、
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でモノを考える力を失って行く。
これはつまり、人は読書によって利を得ると同時に毒をも得る、ということです。確かに、本をたくさん読むことで、他の人があまり知らないようなことを知ることができるという利点はあるでしょう。けれども、そうした利を得ると同時に「自分でモノを考える力を失って」しまうという毒もまた回るのだということです。
 

速読に適さない本について

《人生の限られた短い時間の中でいかにたくさんの本を読むか》は読書家にとって永遠の課題でしょう。書店には本まるまる一冊を5分もかからずに読むことができると豪語する速読術についての解説書がたくさん並んでいますが、現代の忙しい読書家たちのそういうニーズを反映したものでもあるのでしょう。確かに、一週間に一冊しか読めないよりは、毎日一冊の本を読めた方がいいに決まってます。
 
例えば、我が家の本棚に並んでいるポール・シーリィのフォトリーディング解説書『あなたもいままでの10倍速く本が読めるには監訳者の神田昌典さんの手による速読がいかに素晴らしいものであるかを描き出した印象深いエピソードが載っているのですが、その部分を読んで見ましょう。
 
先日、私は、田町の書店で本を何冊も買った。
次の下車駅まで、三駅あったので、その間、フォトリーディングで本を読んだ。
ペラ、ぺラ…。
一秒一ページのペースである。
そのとき、私の隣に座った人も本を読んでいた。
彼の目は、ページの上に停まっていた。動かない。
かわいそう
悪いと思ったが、私は、そう感じてしまった。想像してみてほしい。この違いは、将来、どんな差になるんだろう。
一年後。三年後。五年後、そして十年後。
それは、あなたの人生にどれだけの違いを生むのか
私は、感謝した。
この知識に出会ったことに…。
 
当時、この本を読んだ僕は、フォトリーディングがもたらすこの夢のような世界に惹かれ、すぐにこの本に書かれている方法を実行にうつしました。「みかん集中法」はすぐに出来るようになりました。しかし、何度試しても左右に開いたページのあいだに著者が言うような「ソーセージのようなページ」をなかなか見つけることができず、僕は結局、速読術の習得を断念したのでした。
 

速読を否定しておいて多読は否定しないという欺瞞

速読術では、一冊の本のはじめから終わりまでを同じテンポで読んだりはしません。自分の関心をそそらない退屈な部分はドンドンすっとばして読んでも一向にかまわない。冗長な説明、くどくどしい描写や作者の考察、どうでもよい小話の類は抜かして読んだところで、別に誰も見ていないんだから叱られることもありません。だから、本に対して速読を仕掛ける読者というのはロラン・バルトが言うように「舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客」に似ています。
 
ところがそれに対して、僕が好んで読むような本、例えばジャック・デリダの『真実の配達人』のような本で、速読のようなことをやろうとすると、これはもう全くどうにもなりません。『真実の配達人』を「5分もかからずに」読んで分かることなんて、せいぜい「確かラカンを批判してたな」ということぐらいのモノでしょう。現代の哲学書は急いでとばし読みすることができないようにできているからです。そういう本を好んで摂取してきた自分にとって速読術は、相容れない別世界の何かのように感じてしまったのです。
 
だから結局、一度は速読に興味を持ったものの身につけることが出来ずに終わってしまい、電車の中で本の頁と長い時間にらめっこしているような人たちを「かわいそうに」と憐れむような人類の高みに登りつめることはついに出来なかったのですが、それでも僕は、速読術は使わないにしてもできるだけたくさんの本を読めるようになりたいという多読に対する憧れのようなものは以前と変わらずに持ち続けて来たのでした。
 

多読の害

ところが、ショーペンハウエルに言わせれば、そもそも「本をたくさん読むこと」自体が無用であるばかりか、害毒を垂れ流すものでさえあるというのです。というのも、多読を誇っているような人間というのは、「いつでもただちに本に向かうという生活を続け」た結果、「精神から弾力性をことごとく奪い去」られて自分でモノを考えることをやめてしまった人間、不必要なことでいつも頭がパンパンな単なる「馬鹿」だからです。多読家のような「馬鹿」をマネる必要など全くないのだと彼は断言します。たくさんの音楽を聴いたからといって、耳が良くなるわけでは必ずしもないように、たくさんの本を読んだからといって頭がよくなるわけではありません。それどころか、多読をつつしまなければ、人間は知識だけの「馬鹿」になってしまうのだ、と本書は警告します。これは速読を否定しつつも多読には憧れを抱いてきた僕にとっては目から鱗の箴言でした。
 
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」。だから、自分の頭で考えようとする人にとって、多読ほど有害なものはありません。自分の頭でモノを考える人たちは、客観的に把握したこと以外は言葉として表そうとしません。彼らは「自説をまず立て、その後で初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び自説の強化に役立てようとするにすぎ」ません。
 
それに対して、多読を誇る人間がやることと言えば、せいぜい「いろいろな人の言葉や意見、さらにまたそれに他の人が加えた反論などを報告する」ことぐらいのものです。それはさながら、旅行ガイドブックを何冊も読んで、その土地の通になった人のようなものです。「こういう人は報告すべき材料をいろいろと持ちあわせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も、明瞭な基礎知識も欠いてい」るのが普通です。これらは全て僕にも当てはまることであり正直読んでいて身につまされる思いがします。
 
 
 
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 『読書について』に対する現代の多読家たちの反応

現代の著名な読書家たちの書評サイト、例えば、2000年からスタートし今や1533冊目に突入している松岡正剛の千夜千冊や、1時間で10冊の本が読め年間5000冊もの戦闘力を誇る小飼弾さんの404 Blog Not Foundなどは、『読書について』の著者の目には、次のように映ることでしょう。
そのすべては古ぼけた観念、買いあさった古道具にすぎず、複製品をさらに複製したようにすり切れて色つやも失せている。型どおりのいかにも陳腐な文句に流行語を織り交ぜた彼らの文体は、さながら正真正銘の貨幣を通貨として使用する小国のおもむきを呈する。自分の力で何一つ鋳造しないからである。
 この辛辣な言葉は、多読家たちの努力を無化するどころではありません。自分の頭では何一つ考えずに『読書について』の箴言をコピペしただけで何かを考えたつもりになっている僕にとってもずいぶんと耳の痛い言葉です。
 
それでは、その生涯を読書に費やしてきた現代の多読家たちは、『読書について』にどんな反応を示しているのでしょうか。非常に気になるところですが、
 
松岡正剛さん
小飼弾さん
 
の順に見て行きましょう。
 
松岡正剛さんの場合
 
松岡正剛さんは2006年12月8日の1164夜ショーペンハウエルを取り上げているのですが、『意志と表象の世界』の話題とデカンショ節の思い出話に終始し、『読書について』には一言も触れていません。多分ガチで殴り合うのを避けて敵前逃亡したか、自分が殴られていることにさえ気づいていないのでしょう。
 
小飼弾さんの場合
 
小飼弾さんの方は、2009年3月16日付けで『読書について』をガチで論じている文章があるのですが、正直言ってぜんぜん納得のいくものではありませんでした。彼は冒頭で勇敢にも次のように宣言します。
ショウペンハウエルの読書論をまだ読んでいない人は、読書しているとは言えない。それを読んで「ぎくっ」ってなったことがない人も、読書しているとは言えない。

そしてそれに反駁できない人は、ショウペンハウエルを充分知っているとは言えない。

つまり、自分はすでにショーペンハウエルを「反駁」し、心置きなく読書に勤しむ権利を手に入れているのだと。で、実際に小飼さんがどう「反駁」したのかと言うと、要するに『読書について』というのは、自分より本が売れた大嫌いな母親に対する「嫉妬」の情から出た「負け犬の遠吠え」なのだと、だから多読家に対するショーペンハウエルの攻撃の数々はスルーでOK、何も気にせず今まで通り読書に勤しんでもかまわないのだ、というものです*1
 
しかしながら、『読書について』における多読家への攻撃のすべては、ショーペンハウエルによる読書の定義、《読書とは他人にモノを考えてもらうことである》という命題から発しています。ところが、小飼さんはこの命題の真偽について一言も論ずることなく局外においた上で、「母への嫉妬」みたいな下世話な身辺事情をあげつらって光の速さで10カウントを数え上げ、一人で勝手に大勝利を宣言してしまっています。
 
「反駁」とは相手が導き出した結論に対する反論を伴う推論です。ところが、404 Blog Not Foundの記事のどこを探しても、『読書について』でショウペンハウエルが「導き出した結論に対する反論を伴う推論」などありはしません。小飼さんがやっていることは「反駁」ではありません。ショウペンハウエルの『読書について』を「反駁」すると称して、小飼さんが実際にやっているのは、気に入らない論敵のゴシップ記事を書くことで相手の評判を貶め、本の内容そのものから読者の目をそらせるというもので、凡そ論理的な「反駁」とは性質を異にするものです。
 
ところで、小飼さんは著者を取り巻く身辺事情がその著者の作品を本質的に制約すると考えているようですが、ショウペンハウエルは、ある作品とそれを書いた著者の身辺事情との関係についてまさにその反対のことを述べています。
作品著者の精神のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、常に比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だがそれだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間の書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくてためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々に何の興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。
作品は著者の「身辺事情を凌ぎ圧倒」します。作品はそれを書いたものの身辺事情によって制約されるがままになったりはしません。そして、作品にだけ「楽しみを見出し、著者には興味をおぼえないという高度な水準」に達した読者にとって、著者の身辺事情は「何の興味も与えることができ」ません。これは裏を返せば、作品の内容そのものに楽しみを見出すのではなく、著者の下世話な身辺事情を知ることに喜びを見いだすような読者というのは、ショウペンハウエルに言わせれば、読者としては二流の読者だということです。たとえ1時間で10冊本を読めようと、年間で5000冊の読書を達成しようと、二流が二流であることに変わりはないのです。
 
 
 
 
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教養主義に抗うための処方箋

さて、 「できるだけ本を読むな」「多読を控えて自分の頭で考えよ」とショウペンハウエルは勧めるのですが、正直、本で得た知識に頼らずに自分の頭で考えるのは、僕を含めて大多数の人間には勇気がいることです。僕は大学生の頃、何かを研究する時には「まず先行研究がそれについて何を述べているかを調べるように」と教わりました。でも、言われた通りに先行研究を調べているうちに、自分が最初に立てた仮説が先行する研究者のそれに比べていかに思慮が浅く幼稚なものであるかに気づかされて打ちのめされ、自分の知能指数の低さとアイデアの稚拙さを何度も嫌悪したものでした。当時の僕は自分が本物のバカであることが周囲にー何よりも自分自身にーバレるのを恐れていました。「もしかしたら自分のIQは100を割ってるんじゃないか。絶対下の方だ」と常日頃から疑っていたので、あてにならない自分の頭で考えることは極力避け、大量の文献を読み漁ってそれっぽい先行研究を適当にコピーしてレポートにまとめるという単純作業を繰り返しているうちに大学を卒業してしまったのでした。「あの頃、濫読にあてた時間を少しでも頭を使うことに割いていれば…」今思うとホントにもったいないことをしていたなぁと後悔する次第です。
 
ずいぶん後になってから気づいたことですが、どうやら当時の自分と似たようなことを感じていた人たちは世界にはたくさんいるようです。例えば、ジル・ドゥルーズという20世紀のフランスの哲学者は、『口さがない批評家への手紙』の中で次のような想いを吐露しています。
私の世代は、哲学史によって虐殺されたにひとしい最後の世代だといえる。哲学史というものが哲学における抑圧の機能をはたしているのは明らかだ。はっきり言って、あれは哲学におけるオイディプスだ。「あれこれ読んで、あれについてのこれを読まないうちから、まさか君は自分の名において語るつもりじゃあないだろうな」というわけだ。私の世代にはうまく切り抜けることのできなかった者もたくさんいる。
 「◯◯を読んでないうちからまさかお前は自分の名において△△を語るんじゃないだろうな?」という抑圧的で教養主義的な無言の圧力は、当時の文系の世界ではありふれたものでした。でも、先行研究の歴史の重圧によって押し潰されてしまうぐらいなら、『読書について』の9ページにある次の美しい一節を胸に秘めつつ、自分の名において何かを語るという邪なことに手を染めた方がまだマシなのではないでしょうか。
だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、 一つの洞察も、他人の著わした本をのぞきさえすれば、みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。-ショーペンハウアー『読書について』P9
《自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる》。この言葉には哲学史というオイディプスに敢然と戦いを挑み続ける純度の高い闘争心が込められています。哲学史に虐殺されて心が挫けてしまった者の口からはこういう大胆で堂々とした勇ましい言葉は聞けないものです。

哲学史というものを始めたのはヘーゲルです。そして、ショウペンハウエルは当時のドイツを支配していたヘーゲル哲学のことを「法螺吹き」と呼び、その荘厳な体系に対して猛然と挑みかかりました。それにもかかわらず、世間一般のイメージではショウペンハウエルは世を拗ねた「厭世家」ということになっています。誰かの肩越しに『読書について』を読むのではなく、彼の言葉に耳を傾けてみて欲しい。多分この著者に対して与えられた「厭世家」という肩書きが的外れなものであることに気づくはずです。 

『読書について』は上で述べたこと以外にも有益な考察を数多く含んでいます。それらはすべて重要なものです。
 
 
 
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読書がもたらす利と毒

考えてみれば当たり前のことですが、何事にも良い面と悪い面があります。読書も同じで、本を読むことにも良い面と悪い面の両方があると考えるのはきわめてまっとうな考え方であって、読書がもたらす良い面ばかりをあげつらい、悪い面を言わない凡百の読書論と言うのは、それだけでもうダメな証拠のように思えてきます。

ショーペンハウエルの『読書について』はそうした嗤うべき素朴さとは全く無縁であり、通常そうした素朴さに加えられる罰を免れています。というのも、この本の著者は、読書がもたらす良いものと悪いもの、その効果=結果を完璧に熟知していたからです。
 
僕も含めて読書に少なくない時間をかける読書家という人種にとって、本を読むことはもはや人生の一部のようになってしまっています。そして、『読書について』の箴言の数々はそういう人間をターゲットにして書かれているため、感心はしても心のどこかではどうしても反発を覚えてしまいがちです。自分の人生にとってかけがえのないものを否定されたように感じるからです。しかし、多読がいかに自分の人生にとって不可欠なものであったとしても、それにもかかわらず、多読が偽であるという命題は成立し得ます。なぜなら、麻薬常習者にとっても麻薬が偽であることに変わりないように、その人の人生にとって多読が不可欠なものであるということと、それが真であるかどうかということは、本来なんの関係もないものだからです。
 
数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。ーショーペンハウアー『読書について』

 

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

*1:本当はその後に「これからも献本よろしくお願いします」とばかりに献本先に媚びへつらう記事が続いているのですが、ここで貴重な時間を割いてまでこれ以上この安っぽい記事を論評するつもりはありません。

女の子同士の不可能な出産ーー東浩紀の『魔法少女まどか☆マギカ』disを巡って

魔法少女まどか☆マギカ』における「ループ」の理論的意味

東浩紀は『魔法少女まどか☆マギカ』のダメな点について、次のようにTweetしている。 

  東浩紀の『まどマギ』disは今に始まった事ではない。彼は『まどマギ』に対して、当初から一貫して否定的な態度を維持してきた。しかし、彼が同作を叩くのは、よく言われるように、彼が原案を担当した『フラクタル』が商業的に失敗に終わったのと対照的に、同時期に放送された『まどマギ』が大成功を収めて、単なる「アキバ系狙い撃ち」にとどまらない広い支持を獲得したことに対する、私怨から発したものでは断じてない。

  というのは、彼の考えでは、『まどマギ』の作品構造の本質は、女の子同士の同性愛関係で生じる不可能なセックス=生殖を描くことで観客が癒されるという点にあるのだが、そのような、同性愛的作品世界がもたらす一種の癒しに対する疑念を、東は『まどマギ』が放送されるはるか以前からはっきりと表明しているからだ。少なくとも2003年の時点において、彼は聡明にも、異性が登場しない同性愛的な作品世界(例えばやおい系)で好んで描かれる「不可能な出産」というモチーフに否定神学的な匂いを嗅ぎ取っていた。

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※『フラクタル』のDVD売り上げは『まどマギ』のそれの1/70である。

  最新作『セカイからもっと近くに』では、セカイ系の作品群において頻出するループというモチーフが、「不能性」を意味するものであることが示されている。そして、登場人物たちがループという「不能性」から抜け出るには、東によれば、生殖という「現実界的な」経験をもってしかあり得ない。要は、男女の性的差異がなければ、セカイ系的なループを脱出できない。

  したがって、例えば、性的差異を抹消した『存在と時間』の現存在一元論では、クラインの壺の循環構造を脱出できないし、「女の子しかいない」『まどマギ』の同性愛的な設定では、セカイ系的ループを脱出できない。

 

  東にとって「尊いこと」として賞賛されるべき性行為の唯一の場は、夫婦の寝室である。生殖へと定められ、あるいは生殖によって価値あるものに変化させられているような性行為だけが、有用かつ生産的であり、セカイ系的なループを抜け出すことができる。接吻や口唇性交、同性愛者たちの肛門性交のような「産めよ、殖やせよ」*1に関係のないただひたすら快楽だけを目指す社会的再生産に直結しないような性行為は、有罪や悪徳ではないにせよ、少なくとも肯定的に語られることはない。

  同性愛者たちのそれのように、性的に転倒した者たちのセックスは、生殖という「現実的なもの」にはけっして到達し得ないということ。東浩紀にとって『まどマギ』と『存在と時間』は、セカイ系的ループを脱出できないという点では同じ「不能性」なのだ。

異性愛規範の特権化と生政治の歴史的関連性

 歴史を遡ってみるならば、生産のサイクルにはめ込むことができないような同性愛者たちの性行為を役立たず(=不能)とみなす類の言説の数々を見出すことは容易である。 

 同性愛は、古代ローマでは犯罪とみなされていたし、ナポレオン法典は同性愛を悪徳の一つに数えあげていた。 

 例えば、プロイセンの刑法第143条は、男性の同性愛を動物との性交(獣姦)と同列に扱い処罰すべきものとして規定していた。医師たちによって何一つ医学的根拠がないと当時から非難されていたにもかかわらず、同国の刑法143条は、統一後のドイツ帝国においても、刑法175条として存続した。

プロイセン刑法143条

男性間あるいは人間と動物の間に行われた自然に反する猥褻行為を行う者は懲役に処せられ、また公民としての結婚の権利を喪失することもある。

  それにしても、なぜこのような条文が当時のドイツにおいて存続し続けたのだろうか?道徳的な理由からか?そうではない。理由は簡単で、人口問題である。

  当時、ドイツ帝国の人口は減少の一途を辿っていた。後に第一次世界大戦と呼ばれることになる戦争を準備していたこの国にあって、人口の減少は国力の衰退およびそれに伴う戦争での劣勢を帰結する頭の痛い問題だった。人口減少の解決を考えていた当時のこの国の支配層にとって子供を産まない同性愛者たちの性行為は、許容することが「不可能なもの」だった。 

 今日、性は、経営し管理すべきもの、生産のシステムの中にはめ込み、万人の利益のために調整し、最適の条件で機能すべきものとして語られている。 

 フーコーの『性の歴史』によれば、性が行政の対象となったのは、18世紀に入ってからである。それ以降、性は、行政機関の管轄に属し、経営・管理の手続きを要求するようになる。 

 彼によれば、18世紀における権力の技術において最大のトピックの一つは、経済的・政治的問題としての人口の問題だった。それは富としての人口であり、労働力としての人口である。政府はついに気がついたのだ。相手は、単に臣下でも民衆でさえもなく、人口という形式で捉えられた住民であることを。このような人口を巡る行政的な配慮の中心にはいつも性があった。 

 確かに、それ以前から、国が富み強大であろうとするならば、その人口は多くなければならないと言われ続けてはいた。しかし、一つの社会の未来と運命が、単に結婚の決まりや家族構成だけでなく、住民の一人ひとりが性を用いるその仕方にかかっているなどと言い出したのは、この時が始めてだった。 

同性愛に対する態度の捻れ

 19世紀のドイツ帝国刑法175条から、生殖の規則正しいメカニズムに従わない不規則な性の「不能性」を告発する21世紀の日本の文芸評論へと、まっすぐに通じる道を引くことができるかもしれない。 

 人口問題に配慮する生-政治*2の権力と、同性愛をはじめとする倒錯的性愛に対する有罪宣告とは一つの歴史的連関を形作っているーーそのことを誰よりもはっきりと言い切った『性の歴史』以来、人はいくつもの留保を挟むことなしには、もはや夫婦の寝室での生殖活動を「尊いこと」として手放しに賛美することなどできないし、生産システムに対する非貢献をかどに同性愛を非難することなどできはしない。ましてや生殖につながる異性愛者の「現実界的な」性行為だけが存在論のループ構造を抜け出すことができるなどと主張する「哲学」を「素朴に」開陳しようものなら、性器中心主義の誹りを免れないだろう。 *3

 東浩紀はそのことを十分に承知している。確かに冒頭で引用したTweetを読む限り、彼は生殖につながるか否かという観点から、同性愛者たちの「不可能な出産」を貶め、異性愛者による生殖活動を「尊いこと」として賛美しているように見えなくもない。 

 しかしながら、彼は他方で、非生殖的で倒錯的な性愛に対して消極的とはいえ一定の理解を示してもいるし、一夫一婦制の下での夫婦間の生殖活動への手放しの賛美に対して一定の留保を示してもいる。最後まで読めば、『セカイからもっと近くに』はけっして「生殖万歳の本」ではないし、彼は、個人的には、「異性愛だろうが同性愛だろうがなんでもいいと思って」いるし、「同性愛者の権利拡大」を支持してもいる。

  それにもかかわらず、彼は「女の子しかいない」『まどマギ』をあくまで非難しようとする。なぜそうするのか?政治的なレベルで「同性愛者の権利拡大を支持」するのであれば、それこそ文学のレベルでも同性愛者の権利拡大を支持するような理論的枠組みを提供した方がより一貫していると言えるのではないのか?政治的主張と文学的主張の間の彼の捻れは一体どういうことなのか?同性愛を存在論のレベルで肯定するような一個の哲学的言説を生み出すことを彼は目指すべきではないのか?

  先の彼のTweetをもう一度読んでみよう。

 

  「そんな話をいつかできたらいいですな」という部分から容易に想像がつくように、現時点では、おそらく彼自身もまだその願望をうまく合理化することができていないのだろう。 

 したがって、将来いつの日か書かれるだろう東浩紀による真っ正面からの『魔法少女まどか☆マギカ』批判に備えて、あり得べき争点をあらかじめ抽出し、彼に先回りして論じておくことが望ましいだろう。そして、それはおそらくラカンマルクスを巡るものになるだろう。それは、『存在論的、郵便的』第二章において東が素描したプログラムに従えば、「アルチュセールイデオロギー論を郵便的隠喩から再検討すること」、すなわち、複数イデオロギー装置が交錯する「階級闘争の場」(=ネットワーク空間)を強調したアルチュセールAIEを巡るものになるはずである。

性を巡る東浩紀ミシェル・フーコーの理論的差異

東浩紀『網状言論F改』

性的欲望[セクシュアリティ]とオタク系文化の関係に切り込んだ2003年のアンソロジー『網状言論F改』によれば、『動物化するポストモダン』で主題として論じられた「動物化」という概念は、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』のような当時のラカン派のオタク論へのカウンターとしての意味があった。 

 ラカン派は人間の性の問題を主体の側からしか考えようとしない。しかし、一つの「動物として」人間を見るならば、「性にはまず生殖の問題がある。」と東は言う。ラカン派は、フロイトがけっして無視することがなかったものを省略している。動物的本能の次元、すなわち生殖だ。「個人の生活で言えば、妊娠であり、出産で」ある。それに対してラカン派が語るのは、支えのない作用、根を欠いた枝葉、生殖抜きの性的欲望に過ぎないのではないか。 

 もちろん「 生殖がない」性的欲望もある。例えば、同性愛がそうだ。そういう倒錯的な性的欲望を考えるのであれば、生殖のことを無視しても差し支えはないのかもしれない。しかし、それだけでは、人が生まれて死ぬという「現実」、生(性ではなくて)については何も語ることができない。

東 ラカン精神分析は、フロイトが持っていた夾雑物を捨てて、かなり近代ヨーロッパの哲学に寄り添って組み上げられた体系でしょう。人間(象徴界)と神(現実界)の関係しか扱えない。だから動物的な次元が扱えない。性関係はそこには入ってこないから、存在しないことになった。そのために「存在」という言葉の意味まで変えてしまった。〔…〕

 ラカン派の枠組みでは動物としての人間を扱えない。ラカン派の語る性は、セックス抜きのセクシュアリティにすぎない。「動物的」な次元、「単に男と女がセックスをして殖える次元」、この次元を抜きにして性を語ることはできない、と彼は言う。

ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ』

 それに対して、フーコーの『性の歴史Ⅰ』はどうか?この著作が、出版当時のフランスで支配的なイデオロギーだったラカン派へのカウンターとしての意味を持っていたことは、周知の事実だ。

  ならば、性的欲望に対して生殖を、主体に対して動物という「現実」を、という点において、フーコーと東の立場は一致しているのではないか?

  一般に『性の歴史』は、「生(=性ではなくて)や生殖の管理」が「現代社会の秩序維持の上で重要な問題」であることを論じた書物して読まれている。別の言い方をすれば、同書は「動物的な次元」、「単に男と女がセックスをして増える次元」、「精子卵子が結合し、子宮が膨らみ、じゃんじゃか人間が殖えていく次元」について語ったものとして読まれている。それゆえ、フーコーと東は、一見、立場を同じくしているようにも見える。 

 ところが、『性の歴史』(特に第五章)をよく読めば、事態がそれほど単純ではないことがすぐにわかる。

  二つの問題を区別しておかなければならない。

  一方の問題は、性的欲望[セクシャリティ]の分析は、本当に動物的な身体の省略を必然的に伴うものなのか、という問いだ。この点に関して、『性の歴史』ははっきり否と答えている。人間の動物的な身体は消されなければならないどころか、問題は身体を、分析のただ中に出現させることであり、その分析とは、動物的な次元と、主体的な次元とが、人間の生を標敵にする権力の技術の進展に伴って複雑に絡み合うような分析である。 

 それは、人間の動物的身体をどのように知覚したかとか、それにどういう意味づけをしたのかを調べるような、身体についての考え方の歴史ではなく、具体的な身体の歴史的分析であり、具体的な身体において最も物理的で、最も動物的なものを資本として用いる権力の技術についての歴史である。

  他方、先の問いとははっきりと区別されるべきもう一つの問題はこうだ。生殖や妊娠を動物的な「現実」の側に、生殖抜きの雑多で主体的な性的欲望[セクシュアリティ]を混沌とした観念や幻想の側に置くのは、果たして正当なことなのか、という問いだ。この点に関して「性の歴史』は、生殖という「動物的な次元」を、最終的な決定機関として位置付けるようなものの見方そのものに対して、はっきりとNOを突きつけている。 

 「(決定)不能性」を乗り超える最終審級としてのセックス=生殖という観念を拒否する『性の歴史』の立場は、セカイ系的な不能性(=ループ)を抜け出すためにセックス=生殖という「現実界的な」経験を最後の切り札として持ち出してくる東浩紀の立場と真っ向から対立している。 

 『性の歴史』の課題は、生殖や妊娠、性器や性本能といった「セックス」が性的欲望にどのようにして従属しているかを歴史的分析を通じて明らかにすることだった。性的欲望は極めて「現実的」かつ歴史的な事象であり、それが自己の機能に必要な要素として、「セックス[性器、性本能]」という概念を生み出したことを『性の歴史』は明らかにした。

  フーコーは、セックス=生殖という何らかの「現実的」な決定機関があって、それが「象徴的」秩序との接触面において、性的欲望という多形的な作用を二次的に生み出すのだ、などと想像する者の素朴さを繰り返し叱った。「セックス」は反対に、性的欲望の装置のうちで、最も観念的でかつ内面的ですらある要素であり、そのような性的欲望を、生-権力が、身体の物理的「現実」に対する支配の中で、経営・管理していくのである。 

 たとえ否定的なものとしてであっても最終審級としてのセックス=生殖という観念を断固拒否すること、それはフーコーにとって、マルクス主義からキッチリと足を洗うことを意味していた。要するに、存在論的/主体的/象徴界的な上部構造が、「郵便的/生殖的/現実界的」な下部構造によって規定されていると考えるような唯物論=二層構造論は成り立たないということだ。

唯物論に対する二つの態度

 思うに、東浩紀の残念な点は、彼が一冊の書物として真っ正面からきちんと構築したものを読めば、「おーっ」とか、「なるほどっ」という感じがするのだが、著作以外の彼が気を許した仲間との対談とか、日常のちょっとした思いつきについてTweetしているのをみると、「ようするにマルクス主義者じゃないか、マルクス主義の尻尾がまだ切れてないじゃないか」、と思えるようなことを無防備に言ってしまっている点にある。 

 それに対して、かつて共産党員だったにもかかわらず、対談での発言を見る限り、フーコーにはそういうところが全然なく、唯物論的なモノの見方をきれいさっぱり「始末」してしまっているように見える。

 マルクス主義者たちの数ある著作の中で、唯物論についてもっとも曖昧ではない仕方で語った書物は、レーニンの『唯物論と経験批判論』だと言われている。同書によれば、唯物論が観念論に優越するのは、人間の脳が登場する以前から自然があったからだ。別の言い方をすれば、人類が存在して物事を考えるようになる以前から自然が存在していたからだ。『唯物論と経験批判論』をいくら読んでも観念論に対して唯物論が勝るとレーニンが主張する根拠はそれ以外には見つからない。自然哲学こそが唯物論が自らを正当化する唯一つの根拠なのだ。

  唯物論者たちが崇め奉る自然哲学に対して、フーコーの態度は懐疑的だ。例えば、1976年にジャック・リュフィエの本に寄せた書評の中で、彼は「分子のひとかけらから、何百万年も一挙に駆け抜けて、生命の全歴史を辿り、人間社会へと至るような」唯物論による「壮大な総合の試みを信用するな」と私たちに警告している。なぜなら、かつて、マルクス主義者たちが「饒舌に語ってみせた、そうした自然の哲学からは、しばしば最悪の結果しか生まれなかった。」からである。

  唯物論的な自然哲学に対する懐疑の念がフーコーの著作には骨の髄まで染み付いている。したがって『性の歴史』の戦略上の最大の敵は、唯物論だ。唯物論者にならないためには、どうすればよいのか。私たちの言説と行為から、私たちの心情と快楽から、いかにして唯物論を一掃したらよいのか。私たちの立ち居振る舞いの中に深く食い込んでいるこの唯物論をどうしたら追い出せるのか。キリスト教を信じるモラリストたちが魂の襞の間に刻み込まれてしまった肉欲の痕跡を追い求めたように、フーコーは、身体の中に残る唯物論のもっとも微細な痕跡にさえ監視の眼を向ける。

  唯物論に対するフーコーの懐疑的な姿勢に対して、東浩紀の方は、唯物論がかつてもたらした厄災に対する記憶がまるでない。おそらく彼は唯物論的な意匠を何か「良いもの」であるかのように考えている。史的唯物論に対する屈託のなさ、先行世代の左翼的教養の伝統から歴史的にスッパリ切れている点が東浩紀の面白いところであり、同時に限界でもあるのだろう。

  例えば彼は『思想地図』第4号の中沢新一へのインタビューの中で、文学を分析するための新たな概念として自らが提起する「アーキテクチャ」について次のように述べている。

思想地図の第三号で特集している「アーキテクチャ」とは、唯物論の新しい形のつもりです。人間の行動、思考のほとんどは外在的な条件に規定されている。それが唯物論の柱です。

 上記の発言において東は、今や失われてしまった唯物論という古き良き伝統の復興者として振舞っている。そこには先行世代に見られたような唯物論に対する逡巡のようなものが見られない。もちろんこれは唯物論に対して死ぬまで懐疑的な姿勢を貫いたフーコーとは対照的なものである。

  日本の批評史に目を転じれば、かつて吉本隆明は、マルクス主義者たちの唯物論的で自然哲学的なものの見方への批判から、「物質的条件」に必ずしも束縛されないフーコーの自由な思考様式に深く魅了された。

それに対して、柄谷行人は、先行世代である吉本隆明を批判するにあたって、吉本がマルクスを読む中で、唯物論など「意味がない」と言い切り、「物質的条件」を捨象したことに注目し、マルクスにおける「自然史」の重要性を執拗に強調した。

 『日本近代文学の起源の起源 ――柄谷行人『柳田国男論』について - 鳥籠ノ砂』によれば柄谷の唯物論的なものへの拘りは、1986年の『柳田国男論』に始まり2011年の『世界史の構造』を経て、今年、文藝春秋より出版される予定の『遊動論――山人と柳田国男』においても通底していると言う。

東浩紀が提案する文学やアニメ作品の「環境分析」は、批評史的には、おそらく上に述べたような柄谷の批評的試みの延長線上に位置付けることができる。その発想は本質的に唯物論的なものであり、その初発の問題設定においてアンチ唯物論的なフーコーの権力論とは異質なものであるはずだ。にもかかわらず、フーコーの『監獄の誕生』を「アーキテクチャ」に結びつけて権力を語る試みが後を立たないのは一体どういうことなのか?

オタク論とセクシュアリティの関係

 

 しかし、上で語られている「気づき」が、装われたナイーブさであることは明らかだ。10年前の『網状言論F改』では、彼のオタク論が「性差の問題とかセクシュアリティの問題に話が行くのを避けようとしているように見える」という小谷真理からの指摘に対して、次のようにコメントしている。

 その点については、僕の立場は、オタク系文化の問題、とりわけ95年以降のギャルゲー系萌え文化とセクシュアリティの問題は切り離すべきだというものなので、単にそれを繰り返しているだけですけど。〔…〕

小谷  でも、ギャルゲーって、セクシュアリティの話じゃないの?

 だから、表面的にはそう見えるけど、実は違うんだというのが僕の主張ですよ。

来たるべき『まどマギ』批判において、東浩紀は、これまでは「切り離」して考えていた性差やセクシュアリティの問題を、オタク系文化の「動物的な」下部構造に接続することを積極的に試みるようになるだろう。その時、フーコーの『性の歴史』は、かつて『監獄の誕生』がそうであったように、理論的源泉の一つとして参照され、創造的に誤読されるのだろう。

だがしかし、同時に次のことを絶対に忘れないようにしよう。『性の歴史』が最終的な決定機関としてセックス=生殖を想定するような唯物論的な発想を拒否していたということを。性倒錯の問題を扱った優れたページにおいて、同書が、生殖や性器の至上権を認めないような同性愛者たちの倒錯的性行為を肯定的に語り得る視点を提出していたことを。

人間において性倒錯の多形的な集合を描いては消し去って行くのは歴史であり、自然の奥底から人間の生を有無を言わさず決定しているような生物学的事実をそうした集合に見ようとしてはならないのである。そんなことを思いながら、フーコーの『性の歴史』第一巻と東浩紀(編)の『網状言論F改』を読み終えた。

唯物論的見解では、歴史における究極の決定的要因は直接的生命の生産と再生産である。ところが、これにはまたしても二通りの意味がある。一方では、食物・衣服・住居・そのために不可欠な道具など、生きるための手段の生産であり、もう一方では人間自身の生産、種の存続である

エンゲルス家族私有財産および国家の起源』

追記

上でも引用させていただいたブログ『鳥籠ノ砂』の籠原スナヲさんからこの記事に対する応答がありましたので、この場を借りて応答したいと思います。

これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂

http://sunakago.hateblo.jp/entry/2014/02/17/054408

 

籠原さんは上の記事の中で、柄谷行人は『トランスクリティーク』の時に「上部構造と下部構造の対立」、すなわち、幻想と物の間の対立を「脱構築してしまった」ことを指摘した上で、「物質的条件」に対する柄谷の拘りをロシア系の唯物論みたいな下部構造決定論と同一視するのは正確ではないと述べています。実際、柄谷行人の著作を読み返してみましたが、確かに籠原さんのおっしゃる通りだと思いました。たとえば、1978年の岸田秀との対談で、柄谷は、「幻想」と「物」について次のように語っています。

柄谷 フェテシュというのは物ですね。

岸田 物ですね。

柄谷 しかし、いわゆる物としてのものじゃない。以前にお会いしたとき、ぼくは岸田さんの「史的唯幻論」について多少文句をつけたことがありますけどね。それをいまくりかえしていうと、岸田さんは、それを「史的唯物論」に対立して考えておられるんだけども、ぼくは、マルクスの場合の「物」もいわゆる「物」じゃないと思う。逆に幻想といわれているものはどうかというと、あるものを幻想というためには、なにか幻想ではないものをはっきり持ってない限り、幻想といえないでしょう。つまり、自然科学なり生理学なりね。ニーチェにしても、フロイトにしても、幻想ということをいうときには必ず現実的な物をもってきている。

岸田 そうですね。幻想でないものを持ってきている。

柄谷 マルクスもそうですね。その場合にはたいがい十九世紀的な生理学あるいは物理学ですね。一応その場合のモデルになってるのは。しかし、本当に難しい問題というのは、物であるが物ではないような、また幻想がそのまま物であるような、そういう種類の物を扱うことじゃないか。たとえば幻想といっても、頭のなかにあるといった幻想じゃなくて、われわれが持っている幻想というのは、物よりももっと現実的なものですよね。

岸田 そうですね。人間にとって現実的なものとはすなわち幻想なのであって、われわれはそういう意味での幻想にしか接触を持っていない…。

 ― 柄谷行人×岸田秀フェティシズムについて』(1978年)

 

どうやら柄谷行人は、「物」という語をかなり拡張した意味で使っているようです。ところが、僕の書いた記事は、柄谷が「物」に込めていた拘りをすべて局外に置いた上でロシア系の唯物論者が言う意味での「物質」と同一視してしまっています。この同一視が「物質的条件」に対する柄谷の拘りを不当に排除していたということになると、柄谷行人の「唯物論」の後継者として東浩紀を位置づけるというこの記事の時代解釈全体が問題になりかねません。その間違いがわかった今、この記事そのものを削除してあらためて書き直したい気持ちでいっぱいです。けれども、ブクマを付けてくださってる方も少なからずいらっしゃいますので、恥を忍んでこのまま放置することにしました。

 

籠原スナヲさん(id:suna_kago)へ

いつも刺激を受けながら読ませて頂いてます。このような駄文にお返事をいただき、どうもありがとうございました!

柄谷行人のあの独特な「物」の用法については、稿を改めて書きました。書いた瞬間に精魂尽き果ててしまったので今回の記事では「対幻想」云々までは踏み込むことができませんでした。遅くなってしまいましたが、↓の記事をもって籠原さんへの応答とさせていただきたいと思います。

 

関連記事

柄谷行人と占星術

 http://rodori.hatenablog.com/entry/2014/05/25/162046

参考

 

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

 

 

参考リンク

TINAMIX, 網状言論F

東浩紀×千葉雅也 新著『動きすぎてはいけない』をめぐるやりとり - Togetterまとめ

『フラクタル』 東浩紀「魔法少女まどかマギカはアキバ系狙い撃ちアニメ(笑)」 : にゅうにゅうす

 注

*1:「産めよ、増えよ、地に満ちよ」 - 『創世記』9:1-17

*2:人口として構成された生きる人々に固有の諸現象、すなわち健康・衛生・出生率・寿命・人種といった諸現象によって統治実践に提起される諸問題を、18世紀以来合理化しようと試みてきたやり方のことをフーコーは生-政治と呼んでいる。

*3:『生きることを学ぶ、終に』の中で、ジャック・デリダはこの問題についてはっきりと自分の意見を述べている。

もしわたしに立法権があれば、民法典と政教分離法から「結婚」という言葉と概念をあっさりと削除することを提案するでしょう。宗教的な、聖化された、異性愛的なー子を産むという誓い、永遠の貞潔さなどを伴ったー価値観である「結婚」というものは、世俗国家がキリスト教会に対して行った妥協の産物ですーとりわけその一夫一婦制において。これはユダヤ的なものでもイスラム的なものでもありません(結婚は前世紀にヨーロッパ人からユダヤ人に押し付けられたもので、マグレブのユダ人のあいだでは、数世代までは義務ではありませんでした)。この曖昧なもの、もしくは宗教的かつ聖化された偽善である「結婚」ということばと概念を削除して、性や数に拘束されないパートナーのあいだにおける、いわば一般化され、改善され、洗練され、しなやかで現状にぴったりあったパクス[pacs]である、契約で定められた「民事的融合」をそれに置き換えるべきなのです。[…]これはユートピアですが、そういうときはやってくると思います。」

ジャック・デリダ『生きることを学ぶ、終に』P45-46

悪の凡庸さについて/映画『ハンナ・アーレント』を観る

ハンナ・アーレント』という映画を神保町の岩波ホールで観た。平日の昼間なのでどうせそんなに客は入っていないだろうとタカをくくっていたら、思いのほか劇場は中高年のカップルで満席。上映前にチケットが売り切れてしまうほどの反響だった。
 
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イェルサレムのアイヒマン

映画は、ユダヤ系哲学者のハンナ・アーレントが著した『イェルサレムのアイヒマン』というレポートを巡る騒動の一部始終を描いている。物語は、1960年、中南米に逃れていた元ナチス党員アドルフ・アイヒマンをイスラエル当局が捕縛するシーンから始まる。彼は、ナチス政権下のドイツにおいてホロコーストの指導的役割を果たした人物として指名手配中だったのだ。アイヒマンは、イスラエルの首都エルサレムに移送され収監される。アーレントは、アイヒマンの裁判を傍聴するため、エルサレムに向かう。
 
アイヒマンはエルサレムにおいて現地のユダヤ人たちから「野獣」と呼ばれていた。「檻」に入れられているのは600万人もの同胞を殺戮した「野獣」である。アーレントも少なからずそう思っていたー実際にアイヒマンを見るまでは。しかし、彼女が法廷で見たアイヒマンは、彼女が想っていたものとまったく違っていた。アイヒマンは、「野獣」ではなく、平凡などこにでもいる「普通の人」だったのだ。
 
法廷において、アイヒマンは弁明する。自分はただ単に、総統の、上からの命令に従っていただけで、担当する案件を事務的に処理していただけだ。強制収容所で起こったことについて、自分はいかなる積極的な関与もしていない。自分は直接手を下していないのだから、罪の意識もない。ただひたすら上からの命令に従っていただけなのだ。要するに、彼は単なる役人にすぎないのだ。
 
その上、アイヒマンには反ユダヤ的な感情もない。自分は当時、命令に対する義務感と良心の両極を揺れ動いていたのだと、彼は言う。上に逆らっても仕方がない。上からの命令に反抗したところでどうせうまく行くはずもない。アイヒマンにはそういうシニカルな世界観が「叩き込まれていた」。総統の命令に反抗することを可能にするような「市民の勇気」などというものは、当時のナチス親衛隊の「ヒエラルキー」には存在しなかったのだ、と彼は言う。
 

悪の凡庸さについて

アーレントはアイヒマンの裁判を傍聴しながら強制収容所の事態を次のように診断した。当時、アイヒマンの「思考」は停止していた。彼は「思考不能」に陥っていた。強制収容所の悪の実行犯であるはずのアイヒマンの悪には深さがない。アイヒマンが為した深さを欠いた悪を、アーレントは「悪の凡庸さ」と名づける。
 
エルサレムでの傍聴を題材にアーレントは『イェルサレムのアイヒマン』の執筆に取り掛かる。テーマは「悪の凡庸さ」である。『イェルサレムのアイヒマン』は報告する。アイヒマンは、異常者でもなければ、「野獣」でもなく、平凡などこにでもいる「普通の人」である。したがって、悪の原因をアイヒマン個人に求めることはできない。古来、西欧では、悪とは利己心によるものだと思われてきた。ところが、20世紀において、600万人ものユダヤ人を殺戮した強制収容所の悪とは、特定の個人の利己心がもたらしたものではまったくなかった。強制収容所の悪とはそのようなものではなくて、人間を無用の存在にしてしまうような悪である。強制収容所という機構において、アイヒマンは、善悪の判断をなすことができる「人間」というよりもむしろ、上からの命令を粛々と事務的に処理する機械のような存在である。そのような機械に転化していたアイヒマン個人の責任を問うことは、責任の所在を特定の個人に帰属させてスッキリすることしかもたらさず、そのような解決は、強制収容所の悪の意味を哲学的に思考するアレントにとってはほとんど意味をなさない。彼女は言う。強制収容所とは「無意味が生まれる所」である、と。
 
アーレントによれば、「思考」とは、人間に善と悪の分別、つまり、モラルをもたらすはずのものである。ところが、全体主義は人間を「思考不能」に陥らせてしまった。
 

ハイデガーナチス入党

しかし、なぜアーレントは、強制収容所の悪の原因を、人間の「思考不能」に求めたのか?キーになるのはおそらく、物語に断片的に挿入されるハイデガーについての回想シーンである。映画の中でハイデガーは、(明らかに不穏なBGMと共に)「思考」についての哲学的思索を展開する。物語の中でハイデガーは、アーレントを本当の「思考」へと導いてくれた師として描かれている。ところが、彼女が考える全体主義の真の恐ろしさとは、自分に真の「思考」を教えてくれたハイデガーその人の「思考」さえも、「不能」に陥らせてしまった点にある。周知のように、ハイデガーは、1933年の総長就任講演『ドイツ大学の自己主張』を境に、ナチスに入党し、反ユダヤ主義にも加担していた。師であり恋人でもあったハイデガーの愚かな振る舞いにアーレントは動揺を隠せない。あのハイデガーの「思考」さえも不能にしてしまう全体主義の本質とはいったい何なのか?そこにこそ強制収容所の悪の秘密があると彼女は重く受け止める。全体主義が持つ思考停止機能こそが、ホロコーストの悲劇をもたらしたのだ。
 

ユダヤ人指導者たちによるホロコーストへの協力

エルサレムのアイヒマン』は、アイヒマンの凡庸な悪を指摘するだけでは終わらない。当時のユダヤ人指導者層が、実は、強制収容所に協力していたという事実を暴露した。当時のユダヤ人社会は、この記述に対して、アイヒマンを弁護するだけでは飽き足らず、同胞をも傷つけたと猛反発し、アーレントのもとにクレームが殺到する。友人たちは次々と彼女のもとを去って行く。家族同然の付き合いだった友人ハンスさえもがアーレントに対してこう告げる。「もう君とは笑えない」。彼女は苦悩する。
 

アーレントの弁明

映画のクライマックスは、周囲から浴びせられた非難に対するアーレントの弁明シーンだ。彼女は大学の講堂で次のように弁明する。まず第一に、自分はけっしてアイヒマンを弁護などしていない。それは根拠のない中傷にすぎない。アイヒマンを理解することと、アイヒマンを許すことは別の問題。自分はアイヒマンを理解するために、彼の凡庸さと、悪を結びつけたが、彼を許してなどいない。だから、私は彼の死刑には賛成である。
 
続いて、ユダヤ人指導者による協力について。当時、ユダヤ人の指導者たちがナチスに協力していなければ、強制収容所の悲劇は何百万単位の悲劇には拡大しなかったはずだ。当時の彼らには別の仕方で対応する選択もあったはずだと、彼女は主張=肯定する。問題は、当時のユダヤ人指導層のモラルが、ナチズムにだらしなく加担してしまうまでに、壊滅していたことにある。要するに、強制収容所の悲劇とは、加害者であるドイツ人と被害者であるユダヤ人(指導者層)の共同作業によって史上空前の規模にまで拡大されたものなのだ。したがって、強制収容所の問題を考える上でもっとも重要なことは、全体主義が、加害者のモラルのみならず、被害者であるユダヤ人のモラルさえも崩壊させることに成功した点にある。それゆえ、強制収容所の悪とは、ユダヤ人に対する悪ではない。言うまでもなく、ドイツ人もユダヤ人も同じ人間である。強制収容所の悪とは、ユダヤ人に対する悪というよりはむしろ、人類全体に対する悪なのだ。そのような人間の思考を不能に陥らせるような悪から決して目をそむけないこと、そのような新たな悪について思考することを始めることが、今こそ必要なのだ。
 
大学講堂でのアーレントの弁明演説は、聴衆の大喝采で幕を閉じる。しかし、それは同時に学生時代からの無二の親友ハンスとの絶交をも意味していた。被害者であるはずのユダヤ人同胞もまた悲劇に加担していたというアーレントの主張=肯定をあくまで自分がユダヤ人であることにこだわるハンスは受け入れることができない。「君は傲慢な人間だ」と訣別の言葉が告げられる。同胞であるはずのユダヤ人社会にさえ妥協しようとしないアーレントの孤独は深まる。
 

悪は根源的なものではない。

映画のラスト。親友ハンスとの訣別をもたらすことをあらかじめ知っていたとしても『イェルサレムのアイヒマン』を発表したかと尋ねる夫に対して、アーレントは答える。たとえ結果をあらかじめ知っていたとしても、それでも自分は、あのレポートを書き発表しただろう。強制収容所の真実を追求することを、本当のことを言うことを自分はけっしてやめなかっただろう。ハンスは友である、されど…、真理はそれ以上の友であり、
いやしくも真理を全うするためには、親しい者をも棄てるほうが一層よいことであり、またそうすべきだ、と考えられるであろう、とくに知を愛する人間である以上は。なぜなら、真理と友のいずれも親しいものではあるが、友以上に真理に尊敬の念をいだくことは敬虔なことなのだから。
*1
 そして、最後にかすかに希望のようなものが示されて映画は幕を下ろす。彼女は言う。悪は、それ自体が『全体主義の起源』であり、強制収容所の大量虐殺をもたらすところの凡庸な悪は、けっして根源的なものではないのだ。根源的なものは、善だけであり、悪は根源的なものではないのだーと。*2
 
ところで、人間にとって、根源的なものはただ善だけであり、《悪は根源的なものではない》という『ハンナ・アーレント』の命題は、悪についてプラトンが下した結論と同じものであると僕は思う。プラトンの考えはこうである。何人たりとも、自らすすんで悪をなすものはいない。自分の行っていることが自分にとって悪いことであると知りながら、なおも不正を行おうとする者は一人もいない。むしろ、人が悪を為すのは、彼がその行いが自分には善いことだと誤って信じているからである。プラトンの考えでは、《誰でも、怒りや・報復や・快楽などの感情に惑わされて、その知識に反する行いをするものである》という世の常識は全くの誤謬である。誰ひとりとして進んで悪くなる者などいない。悪は人間にとって本質的なものではない。それでは、なぜ人は悪をなすのか?悪の原因は何か?プラトンに従えば、悪の原因は無知にある。何が正しくて何が善いことであるかについての知識が欠けていること、それが悪の源泉なのである。《無知は悪の源泉である》。私たちは《正しさとは何であるか》、《何が善きことであるか》についてよく考えなければならない。善についての知識は、必ずや善き行為を結果として生じさせることになるだろう。知は、善き行いの条件であり、逆に言えば、たとえその行為が善意によってなされたものであったとしても、それが知を欠いてなされるならば、それはつねに悪を招き寄せる可能性をはらんでいるということになるのである。
 
悪についての以上の考えは、ニーチェによって、後には、アーレントに哲学することを教えたハイデガーによって徹底的に批判されている。悪は、『ハンナ・アーレント』によれば、人間の現存在にとって根源的なものではない。それは本当だろうか?ハイデガーの『シェリング講義』を思い出そう。そこではむしろ、悪こそが人間の本質をなすものだと考えられている。動物は悪を為すことができないが、人間は悪を為すことができる。人間的自由の本質には悪が帰属し、そのことによって人間は、動物以下の存在に落ちることができる。ハイデガーは悪をなしうることこそが人間を人間たらしめる所以だと考えていた*3。それに対して、『ハンナ・アーレント』は、『人間の条件』から悪を除外しようと企てている。つまり、悪が人間(的自由)の本質に帰属するか否かを巡ってこの師弟は真っ向から対立しているのである。一体どちらが正しいのか?それは今なお目下係争中の難問であり、その真偽については慎重に判断しなければならない。この映画の意義は、むしろそれとは別のところにある。すなわち、ホロコーストという最悪のものが、けっして異常な人間によってではなくて、どこにでもいるような「普通の人」によって、生み出されたものであるという問題を改めて提起したことがそれである。その意味でこの映画は、僕も含めて、ホロコーストとか反ユダヤ主義とか全体主義のような問題を心のどこかで対岸の火事のように感じている人たちにとっては、はじめてハンナ・アーレントの著作に向き合ういいきっかけになるのではないだろうか。
ハンナ・アーレント [DVD]
 

関連記事 

↑の記事では、ハイデガーの『シェリング講義』について触れています。

参考

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

 

  

シェリング講義

シェリング講義

 

 

アーレント=ハイデガー往復書簡

アーレント=ハイデガー往復書簡

 

 注

 

*1:アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻第6章1096a14

*2:「悪が事物の本質に属することはあり得ない。悪はただちに、有らぬものとしての正体を明らかにする。悪から逃れ、その境遇を変えようとする衝動は、悪からは決して切り離すことができないものだ。悪の内に、われわれは現実における矛盾を感じている。まことの本質だけが、純粋な意味で善く、かつ完全なものである。」

*3:同じような考え方を、『差異と反復(上)』のドゥルーズにも認めることができる。ドゥルーズによれば、人間だけが愚か=創造的になることができる。「愚かさは、動物性ではない。」動物は、自らを「愚かな存在にさせないそれ特有の形式〔本能=思考パターンの有限性〕によって保護されている。」

梅原猛の創価学会批判

美と宗教の発見 (ちくま学芸文庫)

美と宗教の発見 (ちくま学芸文庫)

本書のちくま学芸文庫版には、『創価学会の哲学的宗教的批判』という評論が収録されています。タイトルからわかるように、創価学会の教えを一個の哲学とみなしてその内在的な批判を試みたものです。

残念なことに著者が仕事上で学会のお世話になってしまったため、この批判がこのあと展開されることはついにありませんでした。しかしながら、創価学会の教えを哲学的に批判する試みは現在に至るまでほとんどなく、その意味で非常に価値のある試みだったように思います。

梅原によれば、創価学会の思想には二つの大きな源流があります。

1.新カント派の価値論
2.日蓮の生命論

初代会長の牧口常三郎によって持ち込まれたのが1、二代目会長の戸田城聖によって持ち込まれのが2です。本書の前半では1が、後半では2が、それぞれ批判的に論じられています。

今日「創価学会」と言えば2の要素を私たちはイメージしがちです。しかし、そもそも「創価」とは「価値の創造」のことです。そのことを踏まえると、2に負けず劣らず1の要素が重要なものあることがわかります。

「真理」はあくまでも認識の対象であって評価の対象ではないと考えた牧口は、「真・善・美」を説いた新カント派の価値論から「真」を追放しました。そして、「真」の代わりに「利」を導入し、「利・善・美」の価値論を彼は説きました。

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追放された「真理」はどこに行ってしまったのでしょうか?価値-評価作用の領域から切り離され、排除された「真理」は、認識作用の領域にすっぽりおさまることになりました。

真理 - 認識作用の領域
価値 - 評価作用の領域

梅原が批判するのはまさにこの二元論です。その成立の当初において「真理」を価値論の領域から排除してしまった創価学会は、自分たちが説く教説の当否を判断する自己批判の精神を失ってしまっている。創価学会がいまだに天台智顗の五時八教の教えや釈迦の入滅についての日蓮の教えのように現代の文献学からすれば非科学的でしかない教えに固執しているのは自己批判の精神が無いからだと梅原は手厳しく批判しています。

義体系の中での「真理」の位置づけの当否はさておき、ドイツ観念論系譜に連なる思想として創価学会のドグマを捉え直すというアイデアは非常にユニークだと感心しました。

真理と霊性/ミシェル・フーコー『主体の解釈学』1982年1月6日の講義のメモ

『主体の解釈学』 1982年1月6日の講義

『主体の解釈学』は、ミシェル・フーコーが1982年に行ったコレージュドフランスでの講義録です。近代以前の人々にとって真理は主体に幸福をもたらすはずのものでした。ところが、近代以後、真理はそのままでは人間を幸福にすることができなくなってしまいます。どうしてこのような変化が生じたのでしょうか?この講義の第一講においてフーコー霊性[spiritualite]をキーワードに真理を求める主体のあり方の歴史的変遷を記述しています。

前近代的な主体が真理に到達する条件

近代以前の人々にとって、主体は、そのままでは真理に到達する権利も能力もないものとみなされていました。確かに主体は生まれながらに物事を認識する能力を持っています。ところが、真理に到達するには認識だけでは十分ではないというのが当時の人々の常識でした。真理に到達するために主体がなすべき事、それは、自らを修正し、変形を加え、当初の自分とは別のものに変身することです。主体が真理に到達するために自らに加えるこうした諸々の変形作業の総体がフーコーの言う霊性[スピリチュリテ]です。

主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性[スピリチュアリテ]」と呼ぶことができるように思われます。

禁欲・魂の浄化・自己の放棄・まなざしの転換・経験の修正など、霊性[spiritualite]には多様な形態があり、主体はこうした霊的諸実践を通じて自分を変形することにより、はじめて真理に到達することができるのです。霊性とは言わば真理に到達する際に主体が支払わなければならないコストのようなものでした。そして、自己を変容させることに成功し、真理に到達することができた主体は、それまでに支払った対価と引き換えにさまざまな恩恵に預かることができました。自らを変形する労苦と引き換えに真理に達した主体が得ることができるこうした恩恵のことをフーコーは「真理の反作用」と呼んでいます。

真理とは主体に天啓を与えるものです。それは主体に至福を与えるものです。それは魂の平穏を与えるものなのです。

近代以降の主体が真理に到達する条件

かつて、真理に到達した時に主体が得ることできる諸効果、すなわち「真理の反作用」は、それに到達するために主体が支払った費用をはるかに上回るものでした。真理には、主体を幸福にし、救うことができる力がありました。ところが、やがて時が経ち、近代に入るとともに、真理と主体の関係もまたそれ以前とは異なるものに変容してしまいます。人々は今や「真理に到達することを可能にするのは認識であり、ただ認識だけである」と考えるようになります。主体は、他には何も要求されることなく、自らの存在を修正したり変容させたりする必要もなく、ただ自らの認識のみによって真理に到達することができると考えられるようになりました。

あの霊感の地点、あの完成の地点、主体が自らについて認識した真理の反作用によって変容するあの瞬間、主体の存在を変形させ、横断し、変容させるあの瞬間、こうしたすべてはもはや存在しえなくなりました。

近代以降の人々にとって、認識は、ただひたすらけっして完成することも終わることもない「進歩」の次元へと開かれました。近代の主体はもはやそれ以前のように霊性という費用を支払い、その見返りとして「真理の反作用」がもたらす啓示や魂の平穏といった至福を得ることもなくなります。人々が真理を認識することによって得る利益とは、せいぜい真理を見出すためにさんざん苦労したあげく、ようやく幾分なりともそれを見つけた際に生ずる取るに足らない心理的・社会的な利益にすぎなくなってしまいます。「真理は近代以降、そのままでは主体を救うことができなくなった。」ことが指摘され、第一講は締めくくられます。

参考リンク

フーコー『主体と解釈学』読解

真理に到達するための近代的な条件についての分析については『哲学と霊性