学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

生きる速度/宇野維正『小沢健二の帰還』の感想

いつの日か多くを告げねばならぬ者は、多くを内に秘めて沈黙する。
いつの日か稲妻を発しなければならない者は、長いあいだ ― でなければならない。
ニーチェ*1

小沢健二の帰還

小沢健二の帰還

小沢健二の帰還』は小沢健二が「雲」として私たちの頭上を漂っていた“空白期”の活動に焦点を当てて書かれた本だ。『春にして君を想う』を遺して突如公の場から姿を消した1998年から『流動体について』を携えてフジロックで帰還する2017年までの19年もの間、彼は一体どこで何をしていたのだろうか?人の人生で面白いのは、そこに含まれた空自の数々、ある種の欠落部分であり、何年にも及ぶカタレプシー*2のようなものなら大抵の人の生涯にも含まれている。

ー このあいだ「さよならなんて云えないよ」の宣材のプロフィールを見たんですけど、『犬キャラ』が消えていたんですよ。
荒川 そうなんですか!ついに!
ー 驚きましたね。まず、東大卒業からはじまるんですよ。もちろんフリッパーズ・ギターなんて出てこないし、いきなり小泉今日子とCMで共演。そのあと「今夜はブギーバック」になるんですよ。『犬キャラ』のことは一言も触れていない。どんどん過去が消えていく人なんですよ。
-『前略・小沢健二様』P97

『前略・小沢健二様』でも繰り返し指摘されているように、小沢健二には、自らの〈過去〉を消去して〈現在〉を加速度的に上書きしていく記憶喪失者としての一面がある。おそらく本人によっていずれは“無かったこと”にされるであろう過去(=下書き)とは一体どういうものだったのだろうか?そういうゲスな好機心を抱きながら何となく本書を手に取ったのだが、この本が伝える「小沢健二の空白期」は当初期待していたものとはぜんぜん違っていた。

ニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオで1999年に録音されたMarvin Gayeの『Got To Give It Up』のカバー。ヒップホップの揺らぐビートの洗礼を受けた同時代のR&Bに共鳴するかのようにブラックミュージックのビート・プログラミングを導入した2002年の異色作『Ecletic』(折衷)。2005年に開始され中南米やアフリカやアジアの国々*3で放浪者(=Vagavond)として生活していた時期の様子を伝える童話連載『うさぎ!』。首都としての東京ではなく、ローカルな場所としての東京、世界の中の一地方都市としての東京について歌った2012年の「東京の街が奏でる」公演…。

途切れ途切れには知っていた“空白期”の活動を本書を通じて改めてまとまった形で辿り直してみると、その内実は“空白”どころかこちらの予想のはるか斜め上を行く多彩で濃密なものだった。2017年はテレビにラジオ、新聞ネット等のさまざまな媒体で小沢健二の言葉を耳にした一年だったが、そんな充実した今の活動も本書で「空白期」と表現される足かけ19年にも及ぶ試行錯誤を土台にしたものであることがよくわかる。小沢健二は長きに渡るそんな試行錯誤の日々を「生きる速度」という短い言葉で説明している。

小沢 「えーと、人それぞれ、生きるペースってあるじゃないですか。」
うさぎ 「生きるペース。ふむふむ。」
小沢 「別の言い方をすると、みんな生きるうえで問題に直面した時には、それを解こうとするのだけど、人によって問題を解くのにかかる時間は違うし、問題そのものも違う、と言うか」
うさぎ 「わかるような、わからないような」
小沢 「ほら、学校のテストとかだと、同じ問題が配られて、同じ時間内で答えるわけだけど…」
うさぎ 「あー、学校じゃなくて日常生活では、みんなそれぞれ違う問題にぶち当たって、それぞれのやり方でその問題を解いてく、と」
小沢 「そうそう。子どもも大人も、よく見ると、それぞれの人が直面している問題とか、引きずってる問題とかは、一人一人全然違って。そのそれぞれ違う問題を、それぞれ違うペースで、違う文法で解こうとしたり、やめたり、また解こうとしたり、色々あるわけで」
うさぎ 「なるほど」
小沢 「ともかく、誰かが十年くらいかけて何かを問題を解いたとして、その問題は、他の誰かは一か月とか一年で解く問題なのかもしれない。あるいは他の誰かは一生解かない問題なのかもしれない。そういう風に、本当はみんなに、いろんな生き方とか、生きる速度があるわけで。もちろん、「周りに合わせて」みたいな圧力がかかるし、それはそれで良い面もあるけれど、無理に合わせると、ひどいゆがみが出たりする」
-「小沢健二に聞く」『ひふみよ』2010年1月19日更新

小沢健二が一体どんな問題を解こうとしていたのかは分らないし分かる必要もない。人はそれぞれ引きずっている問題が違うのだから。ただ、彼が不意に発した「生きる速度」の一語に触発されて、10年もの空白をかかえてパリの街に帰還した主人公が過去(=下書き)と向き合う覚悟を決めるフィッツジェラルドの傑作短編『バビロンに帰る』を新年早々読み返した。2018年も自分なりのペースでブログを更新していこうと思う。

*1:1883年にニーチェが『曙光』の或る献呈本に書き記した詩

*2:ストア派の把握的表象の理論については神崎繁『西洋哲学史2』収録の近藤智彦「ヘレニズム哲学」を参照。

*3:ペルー、ベネズエラボリビア、日本、ラオス、ネパール、メキシコ、バングラディシュ、レソト王国、ヨルダン、エチオピア南アフリカ…etc。

2017年を振り返る(音楽篇)

2017年に聴いた音楽を聴いた順番に並べてみた。

2017年に聴いた音楽
アーティスト名 タイトル
HYUKOH Panda Bear
HYUKOH 20 - EP
A Tribe Called Quest We got it from Here... Thank You 4 Your service
Brian Eno Reflection
CODE KUNST MUGGLES' MANSION
テヨン I - The 1st Mini Album - EP
長岡成貢 PURPLE
A Taste of Honey A Taste of Honey
Jah9 9
Lee Fields & The Expressions Special Night
相対性理論 TOWN AGE
THE BAMBOOS You Ain't No Good
でんぱ組.inc サクラあっぱれーしょん - EP
でんぱ組.inc WORLD WIDE DEMPA
でんぱ組.inc WWDD
Erykah Badu Baduizm
Anthony Hamilton Comin' From Where I'm From
あるぱちかぶと ◎≠
YungGucciMane JADE
Suchmos THE KIDS
Luedji Luna Um Corpo no Mundo
The xx I See You
John Legend Darkness and Light
Ed Sheeran +
Julie Byrne Not Even Happiness
Guts Paradise for All
Various Artists 加山雄三の新世界
Spoon Hot Thoughts
水曜日のカンパネラ SUPERMAN
Childish Gambino Awaken, My Love!
竜人25 DUET - EP
Parcels Overnight
Jamiroquai Automaton
Jose James Love In a Time of Madness
Sampha Process
空中カメラ Dr.KIDS LIFE
Thundercat Drunk
サニーデイ・サービス DANCE TO YOU
iri Watashi
Tuxedo Tuxedo II
Lukas Graham Lukas Graham
電気グルーヴ TROPICAL LOVE
Ed Sheeran ÷
Gorillaz Humanz
HYUKOH 23
SEEDA 花と雨
Dragon Ash MAJESTIC
左とん平 とん平のヘイ・ユウ・ブルース
かまやつひろし あゝ、わが良き友よ
Mary J Blige Strength of a Woman
辻井伸行 リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 / ラヴェル:夜のガスパール
キミドリ キミドリ
Alfred Beach Sandal + STUTS ABS+STUTS - EP
Calvin Harris Funk Wav Bounces Vol. 1
STUTS Pushin'
Train a girl a bottle a boat
Gorillaz Demon Days
Gorillaz Plastic Beach
水曜日のカンパネラ クロールと逆上がり
Cornelius FANTASMA
Curtis Mayfield Something to Believe In
Shunské G & The Peas PEAS OF MIND
Vibrazioni Productions Espressione Globale
Phoenix Ti Amo
Jamiroquai Dynamite
原田知世 音楽と私
Curtis Mayfield Curtis
小沢健二SEKAI NO OWARI フクロウの声が聞こえる
ちゃんみな CHOCOLATE
Lianne La Havas Blood
堀込泰行 エイリアンズ (Lovers Version)
のん エイリアンズ
堀込泰行 GOOD VIBRATIONS
Ida Nielsen Sometimes a Girl Needs Some Sugar Too
Common & John Legend Glory (From the Motion Picture "Selma")
Keith Sweat Dress to Impress
竜人25 WIFE
サニーデイ・サービス Popcorn Ballads
PUNPEE MODERN TIMES
Migos Culture
Ruby Francis Traffic Lights
山下達郎 REBORN
Weezer Pacific Daydream
Izzy Bizu A Moment of Madness
Ibeyi Ash
T-Groove Rollers Skate EP
N.E.R.D No One Ever Really Dies
Kendrick Lamar DAMN.

総括

全部で88枚。去年は39枚だったので倍近くの枚数を聴いたことになる。
2017年に一番聴いたアルバムは↓

Calvin Harris - Funk Wav Bounces Vol. 1

open.spotify.com

で、特にSlideRollinSkrt On Meの3曲は目覚まし時計に吹き込んでいたせいもあって、鳴ると即座にもう出勤時間だと勘違いして思わず体が身構えるぐらいには聴き込んだ。

聴取の媒体はこの一年で完全にストリーミングに移行した。Youtubeで音楽を聴くことはほぼ無くなった。ストリーミングサービスはこれまでずっとApple Musicを使っていたが、9月からはSpotifyをメインに切り替えた。今のところ両者を並行して使っているけれども、コストのことを考えるといずれはどちらかを切り捨てることになるだろう。

楽曲のアーカイブはAppleMusicの方が若干充実している*1のに対して、SpotifyはプレイリストやSNSの機能が優れている。個人的にはデータベースの充実度よりも未知の音楽との出逢いのチャンスを重視したいので、多分Spotifyの方を残すことになると思う。

とは言え、マンガと同じく音楽もまた、今年はランダム刺激に身を委ねたせいか、自分から積極的にまだ見ぬ音源を“狩り”に出かける機会はほとんど無かった。新譜の主要な情報源も結果的に以下の三つにほぼ限定されることになった。

今年の前半は『ミュージック・マガジン』の新譜欄を、5月から7月末にかけてはフジロックの出演アーティストの新譜を中心に聴いていた。2017年はフジロック*2清竜人25のラスト▽コンサートのような大規模な音楽イベントだけに留まらず、都内某所で行われたJanusz Olejniczakのコンサートやベヒシュタイン・サロンでの企画のような演者と観客の距離が近いアットホームなイベントにも参加できたのが良かった。

そして、荒木町のREVO*3には年間通じてノンジャンルで新旧の色んな良い曲を教えてもらい本当にお世話になった。そう言えば、2017年心のベストテン第1位は週末の深夜にカウンターの隅っこで酩酊しながらよくかけてもらったこの曲だった。

堀込泰行 - エイリアンズ(Lovers Version)

エイリアンズ(Lovers Version)

エイリアンズ(Lovers Version)

2018年も引き続き良い音楽が鳴っている場所に足を運ぶようにしたい。

過去記事

rodori.hatenablog.com

*1:SpotifyにはないCurtis Mayfiledや2017年に復活した小沢健二の楽曲がApple Musicにはアーカイヴされている。

*2:

*3:

2017年を振り返る(読書篇)

2017年に読んだ本28冊を読んだ順番に並べてみた。

2017年に読んだ本
著者 タイトル 評価
グレゴリー・ベイトソン 精神と自然 生きた世界の認識論 ★★★★☆
アルチュセール 不確定な唯物論のために ★★★☆☆
ベルクソン ベルクソン講義録Ⅲ 近代哲学史講義・霊魂論講義 ★★★★☆
アドルノ 三つのヘーゲル研究 ★★★★☆
蓮實重彦 「知」的放蕩論序説 ★★★☆☆
野坂昭如 新宿海溝 ★★☆☆☆
Various Writers 前略 小沢健二様 ★★☆☆☆
東浩紀 ゲンロン0 観光客の哲学 ★★★☆☆
國分功一郎 中動態の世界 ★★★★☆
千葉雅也 勉強の哲学 ★★★☆☆
ハイデガー アリストテレス「形而上学」第9巻1-3 ★★★★★
ハイデガー シェリング講義 ★★★★☆
ピーター・ブラウン 古代末期の世界 ★★★☆☆
ロラン・バルト ロラン・バルト講義集成2 〈中性〉について ★★★★★
ドッズ ギリシァ人と非理性 ★★★☆☆
堤清二三浦展 無印ニッポン ★★☆☆☆
アガンベン バートルビー ★★★★☆
読書猿 アイデア大全 ★★★★☆
フーコー 自己と他者の統治 講義 ★★★★☆
デリダ 友愛のポリティックス Ⅰ ★★★☆☆
カール・シュミット 政治的なものの概念 ★★★☆☆
神崎繁 内乱の政治哲学 ★★★★☆
串田純一 ハイデガーと生き物の問題 ★★☆☆☆
経産省若手プロジェクト 不安な個人、立ちすくむ国家 ★★★☆☆
カール・シュミット 政治神学再論 ★★★★☆
田中イデア ウケる!トーク術 ★☆☆☆☆
宇野維正 小沢健二の帰還 ★★★☆☆
武者英三監修 日本酒完全バイブル ★★★☆☆

総括

今年の前半はずいぶん前に読んだハイデガーの二つの講義とRBの『中性について』の講義の再読に殆どの時間を費やし、後半は政治哲学の本を読み進めることに時間を割いた。

そんな中、特に強く心を動かされた本をあえて3冊挙げるとすれば次の3冊になる。

読書猿『アイデア大全』

アイデア大全

アイデア大全

IBMのBPRデュルケムの宗教社会学を同一平面上で論じた書物など未だかつて有っただろうか。一見縁もゆかりもないように見える事柄同士を一つに結び合せるのが人文知の醍醐味であり、本書は端から端までそんな創意工夫[inventio]に満ち溢れている。現象学を媒介[medium]にしてジェンドリンの『フォーカシング』レヴィナスのタルムード弁証法の間の隠された連関を明らかにしたP34-35の記述はまさにその典型だろう。いつも傍に置いて道具箱として使い倒したい一冊。

神崎繁『内乱の政治哲学』

内乱の政治哲学 忘却と制圧

内乱の政治哲学 忘却と制圧

2016年10月16日に亡くなった『アリストテレス全集』の編纂者による遺稿集。ヘーゲルマルクスといった近代の哲学者たちが『アリストテレス知性論の系譜』をどのように消化したかを論じた「補論 アリストテレスの子供たち」が特に素晴らしかった。

ベルクソンの『霊魂論講義』やアガンベンの『バートルビー -偶然性について』、E・R・ドッズの『ギリシャ人と非理性』等とセットで読むことで古代から中世を経て現代にまで至る知性論の系譜の地下水脈を簡潔に辿り直すことができる良書だと思う。

フーコー『自己と他者の統治』

啓蒙とは何か』というカントの『批判』的問いかけの傍らで、政治と哲学、哲学と現実の関係について考え抜いた最晩年の講義録。今年の後半、政治哲学系の本を読み始めるきっかけになった本。

講義の題材として選ばれる古典は、

等々、僕のような初学者でも取っつきやすいものばかりだし、フーコーによるその解説も懇切丁寧で読み易い。6372円という法外な値段設定を度外視すればフーコーの入門書としても最適な本だと思う。

ところで、フーコーはこの講義の冒頭で、英米分析哲学とドイツのフランクフルト学派というカントの『批判』が基礎づけた「二つの偉大な伝統」について駆け足で整理した後、自分自身の「哲学的な選択」について明瞭に語っている。最後にその箇所を引用して2017年最後の更新を終えようと思う。

それでは皆様、よいお年を。

現在わたしたちが直面している哲学的な選択とは次のようなものであると思われます。一般的な真理の分析哲学として提示されるような批判哲学を選ぶべきなのか、それとも、われわれ自身の存在論現在性の存在論という形態をとる批判的思考を選ぶべきなのか。そして、ヘーゲルからニーチェマックス・ウェーバー等々を経てフランクフルト学派に至る、後者の哲学の形がひとつの考察の形態を打ち立てたのであり、もちろん、可能な限り私もそこに加わりたいと思うのです。
フーコー『自己と他者の統治』P27

関連記事



過去記事


2017年を振り返る(マンガ篇)

2017年に読んだマンガ全30作品を面白かった順番に並べてみた。

2017年に読んだマンガ

著者 タイトル 状態
山本崇一朗 からかい上手の高木さん 7巻まで
沙村広明 波よ聞いてくれ 4巻まで
木多康昭 喧嘩稼業 最新話まで
福本伸行 銀と金 全10巻読了
押切蓮介 ハイスコアガール 7巻まで
福本伸行 最強伝説黒沢 全11巻読了
福満しげゆき 中2の男子と第6感 全4巻読了
岩明均 ヒストリエ 10巻まで
冨樫義博 HUNTER×HUNTER 最新話まで
石塚真一 BLUE GIANT SUPREME 3巻まで
押切蓮介 狭い世界のアイデンティティー 全1巻読了
あだち充 ラフ 全6巻読了
宮下英樹 センゴク権兵衛 最新話まで
あだち充 クロス・ゲーム 全17巻読了
涼川りん リトル・ケイオス 1巻まで
カガノ・ミハチ アド・アストラ ─スキピオとハンニバル─ 5巻まで
眉月じゅん 恋は雨上がりのように 9巻まで
小山ゆう あずみ 全48巻読了
タナカカツキ サ道 全1巻読了
藤田和日郎 双亡亭壊すべし 1巻まで
吾峠呼世晴 鬼滅の刃 1巻まで
山田芳裕 へうげもの 23巻まで
中村真理子 天智と天武-新説・日本書紀- 3巻まで
堀尾省太 ゴールデンゴールド 2巻まで
王欣太 達人伝~9万里を風に乗り 17巻まで
藤田和日郎 うしおととら 2巻まで
河本ほむら 賭ケグルイ 4巻まで
森川ジョージ はじめの一歩 最新話まで
近藤ようこ 五色の舟 全1巻読了
うめざわしゅん パンティストッキングのような空の下 全1巻読了

総括

今年はそんなに意識してマンガを読んだ記憶はなかったにも関わらず、こうして振り返ってみると結果的に去年と同じぐらいの量を読んでいた。とは言え、夢中になって貪るように読んだのは、『からかい上手の高木さん』ぐらいで、《『HUNTER×HUNTER』と『喧嘩商売』が再臨するまでの間に暇つぶしで他の作品に当たってみた》…ような印象の低調な一年だった。そのせいもあって、去年と代わり映えのしない作品が並んでいる。

展望

今年一年ただ漫然とマンガを読んでしまった反省を踏まえ、来年は時間の許す限り以下の項目に取り組んで行きたい。

  • マンガ雑誌の購読媒体を紙媒体から電子媒体に切り替える。
  • Webマンガを定期購読する。
  • マンガ系のブログを定期購読する。
  • あだち充作品の体系的な読み直しを推進する。
  • 三原順の作品について考えをまとめる。

関連記事



過去記事

『ゲンロン7』収録の鼎談「接続、切断、誤配」の感想。

『ゲンロン7』の「哲学の再起動」特集に収録されている國分功一郎×千葉雅也×東浩紀の鼎談「接続、切断、誤配」を読んだ。文化的な運動である限りは近代を批判していられたポストモダニズムも、政治運動に応用された瞬間に近代的な主体のモデルを使わざるを得なくなったこと等、鋭い指摘がいくつもあっておもしろかった。以下、鼎談の後半で特に気になった点をメモ。

 

 「明日から本気出す」論というのは、基本的に遠近法的倒錯で成立している。事後的に振り返ってしか見えるはずのない可能性を、まだその時点が来ていない現時点で勝手に先取りし、いまここに存在しているかのようにふるまう行為です。ほんとうはすべての可能性なるものは、本気を出して成功したあと、事後的に振り返って「ああ、あのときすでにポテンシャルがあったんだな」と発見できるものでしかないのに、その未来を勝手に先取りして可能性の現前を宣言している。そこが滑稽なんですね。

 ー東浩紀編『ゲンロン7』P26

上の発言の内容自体に詳しく立ち入らなくとも、次のことは明らかに見て取れる。それは、可能性[potentia]がいつ・どのようにして・現実に眼の前に有りうるのかということが話題になっていると言うことである。

この発言は、可能性が《で有るか》ではなく、可能性が《いかに有るか》、可能性が眼の前に有るその有り様に関わっている。可能性の本質[essentia]ではなく、その現実性[existentia]を際立たせて取り出すことが出来るかどうかが問題なのだ。

東浩紀はこの問題を独特の仕方で否認する。彼にとって可能性は、二重の意味で有ラヌモノ、現実には存在しないものだからである。それが有る「かのように」「見える」のは、ただ見かけの上でそう「見える」だけのことにすぎない。

東にとって可能性は、まず第一に、「事後的に振り返ってしか見えるはずのない」ものである。「可能性なるもの」は、何らかのポテンシャリティ(可能性)が発揮され(=本気を出し)た後、「事後的に振り返って」はじめて「ああ、あのときすでにポテンシャルがあったんだな」という形で発見できるようなものでしかない。したがって、可能性は、それが見出された時点では常にモハヤ…ナイという意味で有ラヌモノである。

第二に、可能性は「まだその時点が来ていない」もの、まだ私たちの眼の前に現前してはいないものである。それ故、可能性は常にイマダ…ナイと言う意味でも有ラヌモノである。 

その結果、可能性は、イマダ…ナイもの(未来)であると同時にモハヤ…ナイもの(過去)でもあり、「いまここ」には決して現前し得ないものと言うことになるだろう。可能性は東にとって二重の意味で有ラヌモノであり、かつて現前した試しもないし、今も現前しないし、今後も決して現前することがないような奇妙な代物である*1。それはいつも「後からしか分からない」。言わば、想起の対象でしかない。

  可能性は有らぬ・可能性はつねにすでに私たちの眼の前から逃れ去っている・可能性は事後的=遡行的にしか知り得ないー可能性が現前すること、すなわち、可能性が現に眼の前に存在することを執拗に否認する東のテーゼは、古代ギリシアのメガラ派のテーゼを彷彿させる。いやむしろ、メガラ派にはかろうじて遂行(抑止の解除)という現実化の契機があったのに対して、東派の議論には現実化の契機がいっさい無いのだから、メガラ派のテーゼをより過激にしたものと言えるのかも知れない。いずれにせよ、メガラ派のテーゼとプラトン・アリストテレスによるその論駁についてはずいぶん前に書いたことがあるのでここでは繰り返さない。

 

            ◆

 

今回注目しておきたい点は、可能的なものの現実化についてのメガラ派類似の議論と事後性[Nachtragjichkeit]の論理*2の興味深いカップリングが、最初期の著作である『存在論的、郵便的』の冒頭部にまで遡って見出すことができることである。ここではただ、問題の所在を明確にするために『存在論的、郵便的』の該当箇所を確認するだけに留めておこう。

フッサールの〕この論理は常識的に考えてきわめて強い。確かに歴史は一つしかないし、理念的対象もまた事後的にしか、つまりそれが現実化(歴史化)してしか知られることがない。とすればフッサールの議論は現実的に正しく、その批判は難しい。

 -東浩紀存在論的、郵便的

幾何学の起源』におけるフッサールの「現実的に正し」い議論に抗うために、手紙が「行方不明になる危険につねに晒されている」ことの指摘、かの有名な郵便物の誤配のモチーフが『存在論的、郵便的』に登場するのは引用箇所のすぐ後である。郵便的脱構築の全体を支える事後性の論理は、根本的には、可能的なものが現前することに対する執拗な否認によって要請されている。

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メガラ派類似のテーゼ・事後性の論理・郵便物誤配のテーゼ。以上の三位一体を論駁するためには、差し当たり、可能的なものの現実化の問いを仕上げる必要がある。より詳しく言えば、現実には存在しないけれども「いまここに存在しているかのように」見える可能性を「事後的に」描き出すのではなくて、イマダ遂行されてはいナイが、それにもかかわらず、実在的であるような可能性の有り方を「先取り」とは別の仕方で描き出す必要がある。換言すれば、イマダ・モハヤ現実化の過程にはナイにもかかわらず、ただ単に可能的なものと考えられただけではなくて、現実に現前している可能性はいかにして有るのかを問わなければならない

 一連の問題の背後には、おそらく哲学することの根本問題が隠れている。それは、ある意味で有ラヌモノノ有への問いであり、否定的なものの本質と存在一般の本質への問いでもあるからだ。メガラ派が提起しアリストテレスがつけた現前の『形而上学』への道筋は、20世紀前半にハイデガーによって辿り直され、今のところアガンベンが引き継いでいる。ところが、あたかもそんな哲学史など鼻から存在しないかのように「事後性」の名の下に可能的なものの現実化を単なる"遠近法的倒錯"として却下する神学が至る所に存在する…。「可能的なもの自体を経験すること」ー『勉強の哲学』以後の千葉雅也が人間中心主義を回避するような仕方でポテンシャリティをどう肯定するか》という問題に着手し始めたのは以上のような背景があってのことなのだろう。

神学者たちが欲しているのは、アリストテレスの書板を決然と割ってしまうこと、世界から可能性の経験をすべて抹消してしまうことである。…可能性という範疇がいずれにせよムタカッリムーン*3たちの世界から(そしてキリスト教神学者において彼らに相当する者たちの世界から)抹消されたことは確かであり、人間の潜勢力のすべてが基礎を奪われたというのも確かである。あるのは今や、神のペンの為す説明不可能な動きだけであり、その予兆を許すものや、書板の上で待っているものなど、何もない。世界のこの絶対的な脱様相化に抗して、ファラーシファ*4たちはアリストテレスの遺産に対する忠実さを守り続ける。じつのところ、哲学とは、その最深の意図においては、潜勢力の堅固な要求であり、可能的なもの自体を経験することの構築なのである

ー ジョルジュ・アガンベンバートルビー - 偶然性について』P25

過去記事

rodori.hatenablog.com

参考
ゲンロン7 ロシア現代思想II

ゲンロン7 ロシア現代思想II

 

 

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

 

 

*1:散種の時間性

*2:事後性ーシニフィアンがまず先に有って、それについて「後から」意味が与えられること。
「言説には時間が含まれている。言説は時間の中に次元と厚みを持っている…私が一つのフレーズを言い始める時、あなたにその意味がわかるのは、私が言い終わってからである。
ラカン『セミネールV』1957.11.6

*3:神学者のこと。

*4:哲学者のこと。

Tripping Out ネタ まとめ

ベースラインが印象的なCurtis Mayfieldの名曲Tripping Outネタを時系列で一覧表にまとめてみました。


www.youtube.com


一覧表内のリンクは列ごとに以下のルールで貼っています。

アーティスト名 曲名 備考
Real Thing Rainin' Through My Sunshine 1978 『Step Into Our World』収録。
山下達郎 Paper Doll 1978 『GO AHEAD!』収録。
Curtis Mayfield Tripping out 1980 『Something to Believe in』(1980年)収録。
山下達郎 甘く危険な香り 1982 TBS系ドラマ『あまく危険な香り』主題歌。
ORIGINAL LOVE 接吻 -kiss- 1993 日本テレビ系ドラマ『大人のキス』主題歌。
小沢健二 天使たちのシーン 1993 犬は吠えるがキャラバンは進む』収録。
Cornelius Bad moon rising 1994 『THE FIRST QUESTION AWARD』収録。
KDD Big Bang KDD 1996 『Opte Pour Le K』収録。
Camp Lo Black Nostaljack 1997 『Uptown Saturday Night』収録。
Paris Match Silent Night 2002 『song for you』収録。
Toshi Breaking Through 2004 『Time to Share』収録。
DJ Deckstream Tripping Out 2009 『Music Castle』収録。
The Others & Distinction Disko 2010 『Disko / Under Score』収録。
Andrei Tripping Out 2012 『Legendary Edits』 収録。
Sticks and Moon Trip 2012 『Stick Bukowski EP』収録。
Rhye Last Dance 2013 『Woman』収録。
Bleu Toucan Ananas 2014 Salade de Fruits』収録。
Ken Ring E De Sant Ken? 2014 『Det Började För Längesen』収録。
KS French Trippin Dub 2014 Edits EP V4』収録。
KANDYTOWN THE YESTERDAY Ep.2 2015
Deelicious Tripping out (Original Mix) 2015
KEN KEN & URBAN VOLCANO SOUNDS そして、カーティスは途方に暮れる 2016
CRU Fetiche 2017 『Tens Mesmo De Querer』収録。

哲学の非経済的性格について/デリダ『友愛のポリティックスⅠ』を読む

 『友愛のポリティックスⅠ』は、デリダが研究ディレクターを務めたパリの社会科学高等研究院(EHESS)で1988年から1989年に行われたセミナー*1の第1回講義の講義原稿に、大幅な加筆修正を施して出版された書物である。本書の執筆が開始されたのは1994年であり、この年のデリダは、「数多くのプロジェクトを抱えて倒れそうな程に」忙殺されていた。ロンドンから帰国してすぐ、彼はマウリツィオ・フェラーリ*2に宛てた手紙の中で次のように愚痴っている。

わたしのほうは、かつてないほど忙殺されています(特にあの『友愛のポリティックス』、7月の終わりまでに書き上げると約束してしまったあの呪われた書物のせいです)。この夏、他の仕事、特に〔カプリでのセミネールに関わるテクスト〕『宗教』*3もあるなかで、どうやったらこの状況を切り抜けられるのか、分からないのです!」

 

 さて、この「呪われた書物」は政治的なものと家族的なものの関係を主題として論じている。『政治的なものの概念』*4は伝統的に家族のモチーフ、とりわけ兄弟のモチーフと密接に結びついてきた。例えば、フランス革命のあの有名なスローガン「自由・平等・博愛=友愛=兄弟愛[flaternite]*5」はまさにそうだし、第二次世界大戦後の日本の民主化や日米同盟は言うに及ばず、民主主義が「兄弟的同盟関係」なしに規定されることは稀だった。東浩紀の最近の著作『ゲンロン0 観光客の哲学』もまた、目次を読めば明らかなように、政治哲学と「家族の哲学」の固い絆を隠そうとはしていない。

 近代の政治思想は、家族から市民社会を経て国家へと至る弁証法を考案したのだが、国家へと至るいかなる弁証法も、この弁証法によって止揚されるものから決して切り離されたりはしなかった。国家的なもの≒政治的なものが、家族や市民社会から完全に切り離して考えられることはなかった。

 本書においてデリダは、数ある『政治的なものの概念』の中から友愛(フィリア)という"特権的な"テーマを選択し*6プラトン*7アリストテレス*8からキケロ*9やアウグウスティヌス*10を経てモンテーニュ*11へと至る友愛[φιλια]に関する古典の数々を読み直した上で、それらの伝統的な言説のうちに兄弟[αδελφος]のモチーフが形を変えて「過度なくらいに規則的に」回帰して来る事に着目し、次のように問いかける。

主要な問いは、まさにこの領域における哲学的な正典のヘゲモニーに関わるものである。いかにしてその正典は頭角を現したのか。あの力はどこからその正典へとやってきたのか。いかにして正典は、女性的なるものあるいは異性愛、女性同士の友愛あるいは男女間の友愛を排除してきたのか。そこではなぜ友愛の女性的な、あるいは異性愛的な経験が本質的なものとして考慮されないのか。なぜここまでエロス〔性の衝動〕とフィリア〔友愛〕のあいだの不均質性があるのか。

 と言うことで、デリダのこの試論の賭け金=争点は兄弟であり、兄弟愛、換言すれば、男性同士の友愛である。という事はつまり、ーデリダはなぜか決してそのことを表立って口にはしないのだがー暗黙理に男性同士の同性愛も一連の脱構築的分析の射程のうちに収められていることになるだろう。友愛についての正典の著者たちが決して語ろうとはしなかった兄弟愛の家族主義的で男性中心主義的で同性愛的な諸前提を、さらには本書で「親子関係の図式論」と名指されるもの、すなわち、祖先・種族=種類・性[Geshlecht]・血・生まれ・自然[φυσις]=本性[natura]の概念セットを、デリダは執拗に問い詰めていく。

なぜ友は兄弟のようであるのだろうか?生まれを同じくする分身が持つこの近接性を越えて行くような友愛を夢想してみよう。親族関係を越えて行くような友愛を。親族関係とは、もっとも自然なものでありながら同時にもっとも不自然なものである。

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P5

 デリダの考えに従えば、親族関係一般にはある種の「不自然なもの」、『ユリシーズ』でジョイスが言うような「法律上の虚構」が必ずと言っていいほど含まれている。純粋に実在的な系譜学的絆など有りはしない。それは「夢見られた条件」でしかなく、徹頭徹尾デリダが「幻想」と呼ぶものの次元に属している。家族の系譜は「つねに定立され、構築され、導出されるのだ」。本書において、父で有ることの虚構性は当然のこととして前提され疑われることは無い。

そしてそれはまた、フロイトまで含む人々がそれについて何を言ってきたにせよ、母で有ることについても真である、かつてなく真である。「誕生」のあらゆる政治、あらゆる政治的言説は、この点について、信でしかあり得ないものを濫用しているのだ、一つの信にとどまると他の人々なら言うであろうものを。政治的言説において誕生、自然あるいは国民にーさらには人間的兄弟愛の諸国民あるいは普遍的国民にさえー訴えるあらゆるもの、この家族主義のすべては、この「虚構」を再自然化することにある

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P154

 兄弟もまた虚構の再自然化の例外ではない。

ーでも、兄弟とは何だろう、どう思う?
ーうん、兄弟とは何だろう?人は兄弟に生まれつくのだろうか?
ー親愛なる友よ、そいつは馬鹿げた問いじゃないか、そうに決まってるさ。
ーそうかな。自然のなかで兄弟に出会った事があるかい?自然のなかで、いわゆる動物の誕生の際に?兄弟性には法と名前が、象徴が、言語が、契りが、誓約が、言語的なもの、家族的なもの、そして民族的なものが必要だ。
(中略)親愛なる友よ、兄弟とは常に盟友である兄弟、義兄弟=法律上の兄弟[blother in low]、養子縁組による兄弟[foster brother]だとは思わないか?
ーそれに姉妹は?彼女も同じ事例に収まるのだろうか?兄弟性の一事例なのだろうか?

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P232

 ありとあらゆる兄弟関係は「法律上の虚構」を含み込み、デリダによれば、自然ナ兄弟など存在しない。誰かと兄弟≒友で有るためには、何よりもまず「法」や「契り」や「誓約」が必要であるとデリダは言う。まるで「法」や「言語」の外では兄弟や姉妹を想像し得ないかのように。

 

 だが、それにしても、デリダが通りすがりに指摘する「誓約による兄弟」とは具体的にどう言うものなのだろうか?「誓い合った兄弟」、Schwurwbruderchaft[兄弟になるという誓約]とは一体何なのか?それはおそらくこのエントリーの冒頭で引用した本書の「主要な問い」に関わるものであり、都市国家[πολις]の誕生=起源に関わるものでもあるのだが、この問題のアウトラインを明瞭に理解するためには、本書を超えて社会学の知見が必要にして不可欠となるだろう。少なくとも系譜学的かつ家族中心主義的な兄弟愛の図式の脱構築的分析においてデリダが生涯手放すことのなかったエミール・バンヴェミニストの『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』*12と同程度には。

 ここで家共同体[Hausgemeinschaft]についてのマックス・ウェーバーの不可欠な示唆を参照しておこう。以下に見られる標識は、これから先に必要とされる諸々の作業の巨大さと錯綜の合図である。兄弟のモチーフを分析する上で「法」と「名」と「象徴」と「言語」だけで事足りると考える哲学者の軽率さと傲慢さに、慎重さと謙虚さとを対置するには差し当たりこれらの標識だけで十分だろう。

 このエントリーは、いまだ極めて不明瞭な諸領域における予備的と言えるか言えないか程度の一歩をあえて踏み出そうとするものに過ぎない。デリダにとって「忌々しき」存在であるウェーバー*13の諸論考をデリダの意に反して全文引用し、この上なく貴重な知に属するものを綿密に捉え返し、『友愛のポリティックス』の記述と突き合わせなくてはならない。

 以下ではただそこから、このエントリーの趣旨の一貫性にとって、とりわけ兄弟の都市社会学的意味論に関わるものにとって、内容の面からも方法論的規則の面からも最も重要になるであろうものだけを取り上げる。まず第一に問題となるのは、一言で言えば、共同体[gemeinschaft]としての家族に不可欠な構成要素としての経済的なものである。

永続的な性的共同関係(ゲマインシャフト)によって支えられている、父・母・子供の間の関係は、われわれにとって、とくに「始源的なもの」のようにみえる。性的共同体と少なくとも概念的には区別しうる「家計」の共同性、つまり経済的な扶養共同体[Versorgungemeinschaft]という概念を別個に立てた場合、後に残された、夫と妻との純性的関係、および父と子供の生理的にのみ基礎づけられた関係が、ともかくも持続するかどうかはきわめて動揺的で疑わしい。なぜなら、父子関係は、父と母との間に安定した扶養共同体を欠くのなら、存在しないのが普通であり、またたとえ存在したところで、常に大きな影響力を持つとは限らないからである。性的交渉という地平に立脚した共同体関係のうちで「始源的」なものと言えば、母と子供の関係のみである。母と子供の関係は一つの扶養共同体であるから、子供が自力で十分な食糧探しをなしうるまで存続するのが自然の理に叶っている。

すぐその次にあるのが、兄弟姉妹の間の養育共同体[Aufzuchtsgemeinschaft]である。ミルク仲間[ομογαλακτες]というのは、最も親しい親戚に対する特別な名称である。ここでも決定的なのは、共通の母胎という自然に属する事実ではなく、むしろ経済的な扶養の共同性なのである。特殊な社会形象としての「家族」の生成を問題にするや否や、あらゆる種類の共同体関係は、たしかに、性的および生理的な関係と交錯する。歴史的にきわめて多義的な概念は、個々のケースにおけるその意味が明晰化されてはじめて有用なものとなる。このことについてはのちに述べよう。

マックス・ウェーバー『経済と社会』第2部第3章第1節(『世界の名著61ウェーバー』P554〜555)

 純粋に性的な関係のみに支えられた父・母・子供のフロイト的三角関係を「始源的なもの」とみなすことへの懐疑という点でウェーバーデリダと同じ前提を共有しているようにみえる。だが、ウェーバーデリダが単にほのめかすだけで兄弟を巡る一連の脱構築的分析の中で表立っては顧みようとはしなかったもの、すなわち経済的なものについて率直に語っている*14。より正確に言えば「政治的なものの敵」としての経済的なものについて語っている。

兄弟は同じ母胎から生まれる限りで自分たちを兄弟と名指すのではない。兄弟で有ることにとって共通の母胎という「自然に属する事実」は「決定的」な要因ではない。むしろ、「社会」に属する事柄、換言すれば、同じミルクで育った仲間であることが兄弟で有ることを基礎付ける。要するに、「家計[οικος]の共同性」や「経済的な扶養の共同性」が兄弟で有ること、さらには共同体としての家族関係一般を基礎付けるのである。

 誰かと誰かが兄弟で有るためには、「法と名前が、象徴が、言語が、契りが、誓約が」あるだけではまだ十分ではない。友愛(フィリア)をめぐる哲学的言説の脱構築的分析においては、おそらく家計=炉[οικος]のテーマ系の導入が、経済的なものの導入が「決定的」な役割を果たすことになるはずである。

 

フィリアの意味論的焦点に炉があるとすれば、そしてフィリアがオイケイオテースなくしては成り立たないとすれば、あまりこじつけめくことなくこう言うことができるだろう。本書を方向づける問いとは〔…〕炉=家なき友愛の問い、オイケイオテース*15なきフィリアの問いだと言うことになろう*16〔…〕非エコノミー的な友愛、それは可能だろうか?それ以外の友愛があり得るだろうか?それ以外の友愛があるべきだろうか?。

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P241

 

 以上である。『友愛のポリティックスⅠ』が241頁もの紙幅を割いてようやく辿り着いた場所を、『経済と社会』はわずか2頁であっさりと後にする。241頁を超えてなお「呼びかけ」のままに留まろうとする際限の無い哲学的分析をわずか2頁にまで節約=縮減する「社会学的分析」のこの経済性、哲学者の饒舌と社会学者の寡黙さのこの興味深い対比は多分に「概念」の経済(=節約)的性格に関わっている。

 

そして同時にまた、この対比は、「概念」でも語でもない差延[differance]の時間かせぎ的性格にも関わっている。デリダの本を読むといつも不満に思うのだが、何よりもまず第一の不満は、脱構築には時間=金がかかることである*17。『友愛のポリティックス』*18は、『世界の名著61ウェーバー*19に比べて1頁当たりのコスパが悪いのだ。脱構築的分析のこの非経済的性格、浪費ぐせ、高コスト体質は、おそらくまだ誰にも真っ正面から問いに付されたことはない。生産性の向上を常に追い求める上司が遅々として仕事の進まない出来の悪い部下を叱りつけるように、なぜ哲学的分析は社会学的分析に比べてこうも時間がかかるのですか?とこの本の著者を問い詰めることもできるだろう。

 

最後に、パリの或る「呪われた組織」に必死に自分を売り込んで研究員として就職したばかりの哲学者による*20社会学的分析についての今となっては希少=高価な証言を引いてとりあえずの終わりとする。

デリダ 社会学的分析に用いられる概念が、マルクス派、ウェーバー派、その他いかなる理論に基づくものであれ、それらは概念である限りにおいて脱構築〉の対象にならざるを得ず、またアカデミックな制度に組み込まれている限りにおいて、やはり〈脱構築〉の対象にならざるを得ない。この点で私は社会学的分析の限界を指摘しておきたいのです。
浅田彰 なるほど。
ー座談会 ジャック・デリダ×柄谷行人×浅田彰『超消費社会と知識人の役割』*21

 

参考
友愛のポリティックス I

友愛のポリティックス I

 

 

 

世界の名著 61 ウェーバー (中公バックス)

世界の名著 61 ウェーバー (中公バックス)

 

 

 

主体の後に誰が来るのか?

主体の後に誰が来るのか?

 

デリダ『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算ージャン=リュック・ナンシーとの対話』収録。

注 

*1:デリダのセミナーは彼が社会科学高等研究院の教授に就職した1984年から2003年までの19年間セミナーを開講された。

「哲学の国籍=国民性と哲学のナショナリズム
1.国民、国民性=国籍、国民主義1984-1985)
2.ノモス、ロゴス、トポス(1985-1986)
3.神学-政治的なもの(1986-1987)
4.カント、ユダヤ人、ドイツ人(1987-1988)

「友愛の政治」
5.友愛の政治(1988-1989)

6.他者を好んで食べる(カニバリズムの修辞学)(1989-1990)

7.他者を食べる(1990-1991) 

「責任=応答可能性の問題」

8.秘密に責任を持つ(1991-1992)

9.証言(1992-1993)

10.証言(1993-1994)

11.証言(1994-1995)

12.敵対/歓待(1995-1996)

13.敵対/歓待(1996-1997)

14.偽証と赦し(1997-1998)

15.偽証と赦し(1998-1999)

16.死刑(1999-2000)

17.死刑(2000-2001)

18.獣と主権者(2001-2002)

19.獣と主権者(2002-2003)

*2:1956-現在。イタリアの哲学者。新実在論

*3:『宗教』とは、「単なる理性の限界内における宗教の二源泉」というサブタイトルを持つ宗教論『信と知』のことである。1994年2月末、「最も明白でありかつ最も曖昧な、宗教」をテーマについて意見交換をするために、デリダ、ガダマー、ヴァッティモ、フェラーリスなど数名の哲学者がイタリア南部のカプリ島のホテルに集まった際の講演原稿に加筆修正を加えて出版された。

*4:カール・シュミットの著作『政治的なものの概念』を参照。

*5:鳩山由紀夫による解説『友愛とは』を参照。

*6:デリダにとって友愛[φιλια]は、哲学[φιλοσοφια]の根本構造を規定する要素として特権的な意味を持つ。その部分を読んでみよう。

われわれは、ここで、われわれが特権化する観点から見て、もっとも重要なもの、すなわち哲学の問いに限定しよう。哲学としての友愛、友愛としての哲学、哲学的-友愛、友愛的-哲学、友愛-哲学は、〈西洋〉において、つねに切り離しえない概念だった。何らかのフィロソフィアなくして友愛はない、フィリア〔友愛〕なくして哲学〔フィロソフィ〕はない。友愛-哲学。最初から、われわれは、政治的なものを、この連結符の傍らで検討している。

友愛と哲学の結び付きは、フィロ(友愛)とソフィア(知恵)の二つの語から成る哲学[philosophia]の語源からして明らかであり、フィロソフィアのフィロ(友愛)をどのように解釈するかという問題は、いつの時代も哲学者たちの「傍ら」にあり、謎に満ちたこの問いかけは彼らの内なる問いであり続けてきた。この点について、デリダと同時代人のジル・ドゥルーズは次のように語っている。

哲学という語に含まれた「友愛」にどのような意味を持たせるべきなのか。プラトンでも、ブランショの『友愛』という本でも、友愛との関係で思考の問題を取り上げていることに変わりはないが、果たして「友愛」の意味は同じなのだろうか。

 

友愛をめぐる問いにはまだ答えがありません。哲学者は賢人ではなく、友人である、だから友愛も、当然ながら哲学の内なる問いだということになるわけですが、では、誰の友人であり、何の友なのか。コジェーブやブランショやマスコロは、友人をめぐる問いをとらえ直し、思考そのものの核心にこれを位置づけています。謎に満ちたこの問いを全身で受け止めるのでなければ、そして困難は承知の上でこの問いに答えるのでなければ、哲学の何たるかはわかりようがないのです。
ドゥルーズ『記号と事件』収録「哲学について」

もし仮に、哲学者が賢人[σοφος]ではなく友人であるならば、哲学者は一体誰の友人であり、哲学は何の友なのか。ドゥルーズはこの問いに答えて、哲学者が友として接する相手として音楽を挙げている。

いずれにせよ、哲学の本質には友愛が帰属し、友愛のうちには常にすでに哲学が有る。哲学と友愛ー相互に帰属し合う両者の関係に 固有な点をあえて『形而上学』的に表現するならば、ακολούθησις[互いに随伴すること]として、さらにまた、αντιστρεφειν[互いに向きあうこと]として把握することができるだろう。哲学[φιλοσοφια]と友愛[φιλια]は、どちらも他方の後を追いかけ、一方の有るところには他方もまたすでに姿を現しており、両者は互いに随伴し合う相互帰属関係にある。これはつまり、哲学と友愛は、互いに相手から目を離すことは決してないということである。

*7:プラトン『リュシス』、『メネクセノス』、『国家』

*8:アリストテレス『エウデモス倫理学』7巻、『二コマコス倫理学』8・9巻

*9:キケロ『ラエリウス、友愛について』

*10:アウグスティヌス『告白』

*11:モンテーニュ『友愛について』

*12:バンヴェニストの『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』への言及は、1991年以降、年を追うごとに目に見えて頻繁になり、以後最後のセミナーまで途切れることはなかった。

*13:「しかし、将来いかにして、どの媒体〔メディア〕、来るべき解釈学が迎えるどんなシュライエルマハー[Schleiermacher]に差し向けられた、どのヴェールを、織物、fichu WWWeb[忌々しきWWWeb]を相手に、この機織り術の職人(『ポリティコス』のプラトンならばヒュパンテースと呼ぶでしょう)が格闘することになるのか、私たちは知りません。来るべきヴェーバー[Weber]が、その上に署名し、そこで私たちの歴史へ署名を書き込み、この歴史を教えようとするであろう fichu Web[Webという fichu]が何か、私たちには決して知ることはできないのです。」

デリダ『異邦人の言語』

*14:“社会空間”を性的なもの/非性的なもので直和分割する際に、法と言語を無前提に等閑視して、経済的なものを排除するような学説は社会学の内部にも存在する。例えば宮台真司『彷徨える河』論を参照。

*15:オイケイオテースはたいていconvenance[適合、ぴったりしていること]と翻訳される。親しいもの(オイケイオス)。

*16:哲学の主導的問いが存在の問いだとすれば、デリダの問いは、家なき存在の問いと言うことにもなるだろう。

*17:友人と友愛を育むのに時間がかかること、友愛と時間の関係については『友愛のポリティックスⅠ』P33-37を参照。

*18:4200円。298頁。

*19:1800円。720頁。

*20:デリダが「呪われた組織」ENS(高等師範学校)を退職してもう一つの「呪われた組織」EHESS(社会科学高等研究院)に就職したのは、1983年12月末から1984年初頭にかけてのことである。この時期のデリダのアカデミックな研究機関への就職活動の詳細についてはブノワペータース『デリダ伝』P477〜480を参照。

*21:朝日ジャーナル1984年5月25日収録。「現代思想がTシャツになる」と聞いて無邪気に喜ぶデリダが垣間見れる貴重な記事である。

デリダ脱構築〉は最大のマーケットを日本に見出したことになりますね(笑)