学者たちを駁して

人文書中心の読書感想文

2019年を振り返る(読書)

総括

2019年の前半は哲学書を、9月の中国旅行(成都西安)を挟んでその前後は三国志遺跡本を中心に三国志関連書籍を読んでいた。仕事で気を揉むことが多かった後半は読書をする余裕がなく、通読した冊数は去年より大幅に少なくなってしまった。途中で投げた本も数多い。そんな中、去年一年を振り返って感銘を受けた3冊をあえて選ぶとすれば↓

⑴中川正道・張勇『涙を流し口から火をふく、四川料理の旅』

涙を流し口から火をふく、四川料理の旅 (KanKanTrip)

涙を流し口から火をふく、四川料理の旅 (KanKanTrip)

  • 作者:中川 正道,張 勇
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2014/08/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
もともとは四川省で食べ歩くために買った本だが、新大久保や高田馬場池袋北口にある“現地系”の中華料理店を開拓する際の手引きとしても使えるので重宝してる。本書を読む限り、四川料理は辛さだけでも6種類の辛さ*1を識別し、料理ごとに使い分けているらしく、たいへん奥が深い。ぐるなびではなく、本書や大众点评を片手に東京を歩いていると、ゆっくりと中国化していくもう一つの東京の姿が見えてくる。

⑵渡邉義浩『人事の三国志

人事の三国志 変革期の人脈・人材登用・立身出世 (朝日選書)

人事の三国志 変革期の人脈・人材登用・立身出世 (朝日選書)

三国時代の人脈形成のメカニズムをピエール・ブルデューの概念を用いて説明しようと試みた労作。諸葛亮孔明が徐州に所有する自分の土地を離れて、荊州の地で儒教的教養を基盤に"臥龍"の「名声」を確立していく様子が「文化資本」の概念を用いて描かれている。乱世においては、跋扈する賊からの攻撃に対して維持することが難しく持ち運びにも難がある大土地所有(=経済資本)よりも、身につけた文化を基盤にした名声(=文化資本)の方が、維持も持ち運びも簡単だったからである。渡邉先生の本にハズレなし!

⑶木澤佐登志『ニックランドと新反動主義

内容については既に紹介済み。リズムの良い文体が読んでて心地よく、雑誌やネットで著者の文章を目にするとつい読んでしまう。連載中のエッセイ『失われた未来を求めて』も面白いです。

2019年に読んだ本(全22冊)
著者 タイトル レート
ハイデガー ハイデッガー選集第7 哲学とは何か ★★★☆☆
市田良彦 ルイ・アルチュセール - 行方不明者の哲学 ★★★☆☆
神崎繁 フーコー ★★★★☆
神崎繁 魂(アニマ)への態度 ★★★☆☆
神崎繁 ニーチェ ★★★★☆
小林昭文 アクティブラーニング入門2 ★★★☆☆
木澤佐登志 ニックランドと新反動主義 ★★★★☆
佐藤俊樹 社会科学と因果分析:ウェーバーの方法論から知の現在へ ★★★☆☆
渡邉義浩 三国志 運命の十二大決戦 ★★★☆☆
渡部昇一 ドイツ参謀本部 ★★★☆☆
陳寿 正史三国志5 蜀書 ★★★★☆
中川正道・張勇 涙を流し口から火をふく、四川料理の旅 ★★★★☆
渡邉義浩・田中靖彦 世界歴史の旅 三国志の舞台 ★★★☆☆
渡邉義浩 人事の三国志 ★★★★☆
渡辺精一 知れば知るほど面白い「その後」の三国志 ★★★☆☆
さくら剛 三国志男 ★★★☆☆
高野秀行+清水克行 世界の辺境とハードボイルド室町時代 ★★★☆☆
青井硝子 雑草で酔う ★★★★☆
清水麻里絵・宇都宮仁 最先端の日本酒ペアリング ★★★☆☆
ピエール・ブルデュー ハイデガーの政治的存在論 ★★★☆☆
映画秘宝編集部 新世紀ミュージカル映画進化論 ★★☆☆☆
安田峰俊 さいはての中国 ★★★☆☆
2019年に読んだマンガ(全26作品)
著者 タイトル 進捗
とよたろう ドラゴンボール超 9/11巻
田畠裕基 ブラッククローバー 20/23巻
西森博之 今日から俺は!! 全38巻
石塚真一 BLUE GIANT SUPREME 8/9巻
山本崇一朗 からかい上手の高木さん 11/12巻
沙村広明 波よ聞いてくれ 6/7巻
芥見下々 呪術廻戦 7/7巻
押切蓮介 ハイスコアガール 全10巻
縞野やえ 服を着るならこんなふうに 1/9巻
高橋のぼる 劉邦 5/6巻
山本崇一朗 それでも歩は寄せてくる 1/2巻
おかざき真里 阿吽 9/10巻
近藤笑真 あーとかうーしか言えない 2/2巻
智弘カイ・カズタカ デスラバ 1/6巻
岩明均 ヒストリエ 11/11巻
遠藤達哉 SPY×FAMILY 1/2巻
藤本タツキ チェンソーマン 4/4巻
河添太一 不徳のギルド 4/巻
藤本タツキ ファイアパンチ 全8巻
ゆうきまさみ 新九郎、奔る! 2/巻
岩明均 寄生獣 全10巻
宇佐崎しろ アクタージュ 8/9巻
宮下英樹 センゴク一統記 全15巻
ゆでたまご キン肉マン 68/69巻
宮下英樹 センゴク権兵衛 17/17巻
所十三 疾風伝説 特攻の拓 全27巻

マンガは『チェンソーマン 』『アクタージュ』『あーとかうーしか言えない』を貪るように読んだ。『ハイスコアガール』が最終回を迎えて寂しい。
その他、仕事で出版が決まって原稿書いたり、同人誌に寄稿したり香港民主化デモのとき近くにちょうど居合わせたり、孔明の北伐のルートを辿り直したり、台風19号が成田に直撃したせいで出張先のハワイで帰宅難民と化したりと、何かと落ち着かない動きの多い一年だった。

*1:①麻辣(マーラー)…しびれる辛さ。②煳辣(フーラー)…油で焦げる唐辛子の辛さ。③香辣(シャンラー)…油で引き出した花椒と唐辛子の辛さ④鮮辣(シェンラー)…キダチ唐辛子や青唐辛子の辛さ⑤糟辣(ザオラー)…糟漬け唐辛子の辛さ。⑥酸辣(スアンラー)…酢っぱさ+辛さ

2018年を振り返る(読書)

総括

2018年の前半は文章読本を読み、後半は組織論と認知症対策の本を読んでいた。

特に↓に挙げる3冊については特に感銘を受けたので、いずれ再読するつもりでいる。

カール・シュミット『独裁』

独裁―近代主権論の起源からプロレタリア階級闘争まで

独裁―近代主権論の起源からプロレタリア階級闘争まで

民主主義的に義論を交わしていたのでは、企業に必要不可欠の迅速な意思決定は不可能、あらゆる企業は多かれ少なかれ”独裁“体制でなければ生き残っていけないんじゃないか ー そう言う仮説のもとで手に取った本。カール・シュミットは、ナチスへの関与も含めて国家の統治を語る上では色々と問題の多い人だと思う一方、企業の統治を考える上では極めて有用な著述家だと思ってる。たった一人の人間(専制君主)による独裁だけでなく、複数の人間(委員会)による独裁についても詳述されていてたいへん勉強になる。

樋口範雄『入門・信託と信託法』

入門・信託と信託法 第2版

入門・信託と信託法 第2版

  • 作者:樋口 範雄
  • 出版社/メーカー: 弘文堂
  • 発売日: 2014/04/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
登録認可制に移行する以前のFXのように法的にグレーで胡散臭い印象しか持てなかった〈信託〉だが、この本はそうした先入観を拭い去ってくれた。〈信託〉の法理とそのポテンシャルが初学者にもわかりやすく書かれているからだ。とりわけ参考になったのは〈委任〉と〈信託〉の違いについての記述。部下や同僚など、誰かに自分の仕事を委ねる時、その任せ方が〈信託〉なのか〈委任〉なのかで色々と違いが出てくるんだという気づきを得た。信任義務や利益相反についてここまで詳細にパターン分けしてくれた本は読んだ事がなく、自分の仕事を先に進める上でも大いに役に立った。

ハーバート・A・サイモン『システムの科学』

システムの科学

システムの科学

市場メカニズム、組織のヒエラルキー人工知能、デザイン、進化、企業の意思決定…etc。「人工物」をキーワードに多種多様なテーマを横断的に取り扱ったアイデアの武器庫のような本。一読しただけでは内容どころか本書の狙いさえ十分に理解できなかった。でも面白い。本書を読む前と読んだ後ではみえる世界が違ってくる。こう言う本は学生の間に読んでおきたかったが仕方がない。また読もう。

その他、ふと思い立ってドラッカーの本に手を出したり、サッカーや軍隊の戦術本をかじったり、長らくご無沙汰していた社会学の勉強を再開したりと、普段読まないようなジャンルの本に挑戦した一年だった。マンガについては例年通りで特筆すべきことはなかったと思う。

2018年に読んだ本(全33冊)

著者 タイトル レート
ヱクリヲ編集部 エクリオ vol.7 ★★★☆☆
山口文憲 読ませる技術 ★★★☆☆
石黒圭 文章は接続詞で決まる ★★★☆☆
斎藤美奈子 文章読本さん江 ★★★★☆
千葉雅也 メイキング・オブ・勉強の哲学 ★★★☆☆
松村劭 戦術と指揮 ★★★☆☆
稀見理都 エロマンガ表現史 ★★★☆☆
ジャック・デリダ 赦すこと ★★★☆☆
前田鎌利 社内プレゼンの資料作成術 ★★★☆☆
武地一編著 認知症カフェハンドブック ★★★☆☆
高橋政史 すべての仕事を紙1枚にまとめてしまう整理術 ★★★☆☆
山本芳久 トマス・アクィナス ★★★☆☆
バルタザール・グラシアン 賢者の教え ★★★☆☆
マイケル・ハマー リエンジニアリング革命 ★★★☆☆
山本七平 日本的革命の哲学 ★★★☆☆
ルイ・アルチュセール 哲学においてマルクス主義者であること ★★★☆☆
浅井千穂 入門TA ★★★★☆
大井玄 「痴呆老人」は何を見ているか ★★★☆☆
井筒俊彦 イスラーム哲学の原像 ★★★★☆
ハーバート・A.サイモン システムの科学 ★★★★☆
河合保弘 家族信託活用マニュアル ★★★★☆
野中郁次郎 知的機動力の本質 ★★★★☆
五百蔵容 砕かれたハリルホジッチ・プラン ★★★☆☆
ミシェル・フーコー わたしは花火師です ★★★☆☆
塩野七生 マキアヴェッリ語録 ★★★☆☆
P.F.ドラッカー ドラッカーの実践マネジメント教室 ★★★☆☆
樋口範雄 入門・信託と信託法 ★★★★☆
五百蔵容 サムライブルーの勝利と敗北 ★★★☆☆
三谷宏治 経営戦略全史 ★★★★☆
岸政彦他 社会学はどこから来てどこへ行くのか ★★★☆☆
カール・シュミット 独裁 ★★★★☆
仲正昌樹 思想家ドラッカーを読む ★★★☆☆
植島啓司 世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く ★★★☆☆

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2017年を振り返る(読書)

2017年に読んだ本28冊を読んだ順番に並べてみた。

2017年に読んだ本
著者 タイトル 評価
グレゴリー・ベイトソン 精神と自然 生きた世界の認識論 ★★★★☆
アルチュセール 不確定な唯物論のために ★★★☆☆
ベルクソン ベルクソン講義録Ⅲ 近代哲学史講義・霊魂論講義 ★★★★☆
アドルノ 三つのヘーゲル研究 ★★★★☆
蓮實重彦 「知」的放蕩論序説 ★★★☆☆
野坂昭如 新宿海溝 ★★☆☆☆
Various Writers 前略 小沢健二様 ★★☆☆☆
東浩紀 ゲンロン0 観光客の哲学 ★★★☆☆
國分功一郎 中動態の世界 ★★★★☆
千葉雅也 勉強の哲学 ★★★☆☆
ハイデガー アリストテレス「形而上学」第9巻1-3 ★★★★★
ハイデガー シェリング講義 ★★★★☆
ピーター・ブラウン 古代末期の世界 ★★★☆☆
ロラン・バルト ロラン・バルト講義集成2 〈中性〉について ★★★★★
ドッズ ギリシァ人と非理性 ★★★☆☆
堤清二三浦展 無印ニッポン ★★☆☆☆
アガンベン バートルビー ★★★★☆
読書猿 アイデア大全 ★★★★☆
フーコー 自己と他者の統治 講義 ★★★★☆
デリダ 友愛のポリティックス Ⅰ ★★★☆☆
カール・シュミット 政治的なものの概念 ★★★☆☆
神崎繁 内乱の政治哲学 ★★★★☆
串田純一 ハイデガーと生き物の問題 ★★☆☆☆
経産省若手プロジェクト 不安な個人、立ちすくむ国家 ★★★☆☆
カール・シュミット 政治神学再論 ★★★★☆
田中イデア ウケる!トーク術 ★☆☆☆☆
宇野維正 小沢健二の帰還 ★★★☆☆
武者英三監修 日本酒完全バイブル ★★★☆☆

総括

今年の前半はずいぶん前に読んだハイデガーの二つの講義とRBの『中性について』の講義の再読に殆どの時間を費やし、後半は政治哲学の本を読み進めることに時間を割いた。

そんな中、特に強く心を動かされた本をあえて3冊挙げるとすれば次の3冊になる。

読書猿『アイデア大全』

アイデア大全

アイデア大全

IBMのBPRデュルケムの宗教社会学を同一平面上で論じた書物など未だかつて有っただろうか。一見縁もゆかりもないように見える事柄同士を一つに結び合せるのが人文知の醍醐味であり、本書は端から端までそんな創意工夫[inventio]に満ち溢れている。現象学を媒介[medium]にしてジェンドリンの『フォーカシング』レヴィナスのタルムード弁証法の間の隠された連関を明らかにしたP34-35の記述はまさにその典型だろう。いつも傍に置いて道具箱として使い倒したい一冊。

神崎繁『内乱の政治哲学』

内乱の政治哲学 忘却と制圧

内乱の政治哲学 忘却と制圧

2016年10月16日に亡くなった『アリストテレス全集』の編纂者による遺稿集。ヘーゲルマルクスといった近代の哲学者たちが『アリストテレス知性論の系譜』をどのように消化したかを論じた「補論 アリストテレスの子供たち」が特に素晴らしかった。

ベルクソンの『霊魂論講義』やアガンベンの『バートルビー -偶然性について』、E・R・ドッズの『ギリシャ人と非理性』等とセットで読むことで古代から中世を経て現代にまで至る知性論の系譜の地下水脈を簡潔に辿り直すことができる良書だと思う。

フーコー『自己と他者の統治』

啓蒙とは何か』というカントの『批判』的問いかけの傍らで、政治と哲学、哲学と現実の関係について考え抜いた最晩年の講義録。今年の後半、政治哲学系の本を読み始めるきっかけになった本。

講義の題材として選ばれる古典は、

等々、僕のような初学者でも取っつきやすいものばかりだし、フーコーによるその解説も懇切丁寧で読み易い。6372円という法外な値段設定を度外視すればフーコーの入門書としても最適な本だと思う。

ところで、フーコーはこの講義の冒頭で、英米分析哲学とドイツのフランクフルト学派というカントの『批判』が基礎づけた「二つの偉大な伝統」について駆け足で整理した後、自分自身の「哲学的な選択」について明瞭に語っている。最後にその箇所を引用して2017年最後の更新を終えようと思う。

それでは皆様、よいお年を。

現在わたしたちが直面している哲学的な選択とは次のようなものであると思われます。一般的な真理の分析哲学として提示されるような批判哲学を選ぶべきなのか、それとも、われわれ自身の存在論現在性の存在論という形態をとる批判的思考を選ぶべきなのか。そして、ヘーゲルからニーチェマックス・ウェーバー等々を経てフランクフルト学派に至る、後者の哲学の形がひとつの考察の形態を打ち立てたのであり、もちろん、可能な限り私もそこに加わりたいと思うのです。
フーコー『自己と他者の統治』P27

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過去記事


2017年を振り返る(マンガ)

2017年に読んだマンガ全30作品を面白かった順番に並べてみた。

2017年に読んだマンガ

著者 タイトル 状態
山本崇一朗 からかい上手の高木さん 7巻まで
沙村広明 波よ聞いてくれ 4巻まで
木多康昭 喧嘩稼業 最新話まで
福本伸行 銀と金 全10巻読了
押切蓮介 ハイスコアガール 7巻まで
福本伸行 最強伝説黒沢 全11巻読了
福満しげゆき 中2の男子と第6感 全4巻読了
岩明均 ヒストリエ 10巻まで
冨樫義博 HUNTER×HUNTER 最新話まで
石塚真一 BLUE GIANT SUPREME 3巻まで
押切蓮介 狭い世界のアイデンティティー 全1巻読了
あだち充 ラフ 全6巻読了
宮下英樹 センゴク権兵衛 最新話まで
あだち充 クロス・ゲーム 全17巻読了
涼川りん リトル・ケイオス 1巻まで
カガノ・ミハチ アド・アストラ ─スキピオとハンニバル─ 5巻まで
眉月じゅん 恋は雨上がりのように 9巻まで
小山ゆう あずみ 全48巻読了
タナカカツキ サ道 全1巻読了
藤田和日郎 双亡亭壊すべし 1巻まで
吾峠呼世晴 鬼滅の刃 1巻まで
山田芳裕 へうげもの 23巻まで
中村真理子 天智と天武-新説・日本書紀- 3巻まで
堀尾省太 ゴールデンゴールド 2巻まで
王欣太 達人伝~9万里を風に乗り 17巻まで
藤田和日郎 うしおととら 2巻まで
河本ほむら 賭ケグルイ 4巻まで
森川ジョージ はじめの一歩 最新話まで
近藤ようこ 五色の舟 全1巻読了
うめざわしゅん パンティストッキングのような空の下 全1巻読了

総括

今年はそんなに意識してマンガを読んだ記憶はなかったにも関わらず、こうして振り返ってみると結果的に去年と同じぐらいの量を読んでいた。とは言え、夢中になって貪るように読んだのは、『からかい上手の高木さん』ぐらいで、《『HUNTER×HUNTER』と『喧嘩商売』が再臨するまでの間に暇つぶしで他の作品に当たってみた》…ような印象の低調な一年だった。そのせいもあって、去年と代わり映えのしない作品が並んでいる。

展望

今年一年ただ漫然とマンガを読んでしまった反省を踏まえ、来年は時間の許す限り以下の項目に取り組んで行きたい。

  • マンガ雑誌の購読媒体を紙媒体から電子媒体に切り替える。
  • Webマンガを定期購読する。
  • マンガ系のブログを定期購読する。
  • あだち充作品の体系的な読み直しを推進する。
  • 三原順の作品について考えをまとめる。

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過去記事

哲学の非経済的性格について/デリダ『友愛のポリティックスⅠ』を読む

 『友愛のポリティックスⅠ』は、デリダが研究ディレクターを務めたパリの社会科学高等研究院(EHESS)で1988年から1989年に行われたセミナー*1の第1回講義の講義原稿に、大幅な加筆修正を施して出版された書物である。本書の執筆が開始されたのは1994年であり、この年のデリダは、「数多くのプロジェクトを抱えて倒れそうな程に」忙殺されていた。ロンドンから帰国してすぐ、彼はマウリツィオ・フェラーリ*2に宛てた手紙の中で次のように愚痴っている。

わたしのほうは、かつてないほど忙殺されています(特にあの『友愛のポリティックス』、7月の終わりまでに書き上げると約束してしまったあの呪われた書物のせいです)。この夏、他の仕事、特に〔カプリでのセミネールに関わるテクスト〕『宗教』*3もあるなかで、どうやったらこの状況を切り抜けられるのか、分からないのです!」

 

 さて、この「呪われた書物」は政治的なものと家族的なものの関係を主題として論じている。『政治的なものの概念』*4は伝統的に家族のモチーフ、とりわけ兄弟のモチーフと密接に結びついてきた。例えば、フランス革命のあの有名なスローガン「自由・平等・博愛=友愛=兄弟愛[flaternite]*5」はまさにそうだし、第二次世界大戦後の日本の民主化や日米同盟は言うに及ばず、民主主義が「兄弟的同盟関係」なしに規定されることは稀だった。東浩紀の最近の著作『ゲンロン0 観光客の哲学』もまた、目次を読めば明らかなように、政治哲学と「家族の哲学」の固い絆を隠そうとはしていない。

 近代の政治思想は、家族から市民社会を経て国家へと至る弁証法を考案したのだが、国家へと至るいかなる弁証法も、この弁証法によって止揚されるものから決して切り離されたりはしなかった。国家的なもの≒政治的なものが、家族や市民社会から完全に切り離して考えられることはなかった。

 本書においてデリダは、数ある『政治的なものの概念』の中から友愛(フィリア)という"特権的な"テーマを選択し*6プラトン*7アリストテレス*8からキケロ*9やアウグウスティヌス*10を経てモンテーニュ*11へと至る友愛[φιλια]に関する古典の数々を読み直した上で、それらの伝統的な言説のうちに兄弟[αδελφος]のモチーフが形を変えて「過度なくらいに規則的に」回帰して来る事に着目し、次のように問いかける。

主要な問いは、まさにこの領域における哲学的な正典のヘゲモニーに関わるものである。いかにしてその正典は頭角を現したのか。あの力はどこからその正典へとやってきたのか。いかにして正典は、女性的なるものあるいは異性愛、女性同士の友愛あるいは男女間の友愛を排除してきたのか。そこではなぜ友愛の女性的な、あるいは異性愛的な経験が本質的なものとして考慮されないのか。なぜここまでエロス〔性の衝動〕とフィリア〔友愛〕のあいだの不均質性があるのか。

 と言うことで、デリダのこの試論の賭け金=争点は兄弟であり、兄弟愛、換言すれば、男性同士の友愛である。という事はつまり、ーデリダはなぜか決してそのことを表立って口にはしないのだがー暗黙理に男性同士の同性愛も一連の脱構築的分析の射程のうちに収められていることになるだろう。友愛についての正典の著者たちが決して語ろうとはしなかった兄弟愛の家族主義的で男性中心主義的で同性愛的な諸前提を、さらには本書で「親子関係の図式論」と名指されるもの、すなわち、祖先・種族=種類・性[Geshlecht]・血・生まれ・自然[φυσις]=本性[natura]の概念セットを、デリダは執拗に問い詰めていく。

なぜ友は兄弟のようであるのだろうか?生まれを同じくする分身が持つこの近接性を越えて行くような友愛を夢想してみよう。親族関係を越えて行くような友愛を。親族関係とは、もっとも自然なものでありながら同時にもっとも不自然なものである。

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P5

 デリダの考えに従えば、親族関係一般にはある種の「不自然なもの」、『ユリシーズ』でジョイスが言うような「法律上の虚構」が必ずと言っていいほど含まれている。純粋に実在的な系譜学的絆など有りはしない。それは「夢見られた条件」でしかなく、徹頭徹尾デリダが「幻想」と呼ぶものの次元に属している。家族の系譜は「つねに定立され、構築され、導出されるのだ」。本書において、父で有ることの虚構性は当然のこととして前提され疑われることは無い。

そしてそれはまた、フロイトまで含む人々がそれについて何を言ってきたにせよ、母で有ることについても真である、かつてなく真である。「誕生」のあらゆる政治、あらゆる政治的言説は、この点について、信でしかあり得ないものを濫用しているのだ、一つの信にとどまると他の人々なら言うであろうものを。政治的言説において誕生、自然あるいは国民にーさらには人間的兄弟愛の諸国民あるいは普遍的国民にさえー訴えるあらゆるもの、この家族主義のすべては、この「虚構」を再自然化することにある

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P154

 兄弟もまた虚構の再自然化の例外ではない。

ーでも、兄弟とは何だろう、どう思う?
ーうん、兄弟とは何だろう?人は兄弟に生まれつくのだろうか?
ー親愛なる友よ、そいつは馬鹿げた問いじゃないか、そうに決まってるさ。
ーそうかな。自然のなかで兄弟に出会った事があるかい?自然のなかで、いわゆる動物の誕生の際に?兄弟性には法と名前が、象徴が、言語が、契りが、誓約が、言語的なもの、家族的なもの、そして民族的なものが必要だ。
(中略)親愛なる友よ、兄弟とは常に盟友である兄弟、義兄弟=法律上の兄弟[blother in low]、養子縁組による兄弟[foster brother]だとは思わないか?
ーそれに姉妹は?彼女も同じ事例に収まるのだろうか?兄弟性の一事例なのだろうか?

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P232

 ありとあらゆる兄弟関係は「法律上の虚構」を含み込み、デリダによれば、自然ナ兄弟など存在しない。誰かと兄弟≒友で有るためには、何よりもまず「法」や「契り」や「誓約」が必要であるとデリダは言う。まるで「法」や「言語」の外では兄弟や姉妹を想像し得ないかのように。

 

 だが、それにしても、デリダが通りすがりに指摘する「誓約による兄弟」とは具体的にどう言うものなのだろうか?「誓い合った兄弟」、Schwurwbruderchaft[兄弟になるという誓約]とは一体何なのか?それはおそらくこのエントリーの冒頭で引用した本書の「主要な問い」に関わるものであり、都市国家[πολις]の誕生=起源に関わるものでもあるのだが、この問題のアウトラインを明瞭に理解するためには、本書を超えて社会学の知見が必要にして不可欠となるだろう。少なくとも系譜学的かつ家族中心主義的な兄弟愛の図式の脱構築的分析においてデリダが生涯手放すことのなかったエミール・バンヴェミニストの『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』*12と同程度には。

 ここで家共同体[Hausgemeinschaft]についてのマックス・ウェーバーの不可欠な示唆を参照しておこう。以下に見られる標識は、これから先に必要とされる諸々の作業の巨大さと錯綜の合図である。兄弟のモチーフを分析する上で「法」と「名」と「象徴」と「言語」だけで事足りると考える哲学者の軽率さと傲慢さに、慎重さと謙虚さとを対置するには差し当たりこれらの標識だけで十分だろう。

 このエントリーは、いまだ極めて不明瞭な諸領域における予備的と言えるか言えないか程度の一歩をあえて踏み出そうとするものに過ぎない。デリダにとって「忌々しき」存在であるウェーバー*13の諸論考をデリダの意に反して全文引用し、この上なく貴重な知に属するものを綿密に捉え返し、『友愛のポリティックス』の記述と突き合わせなくてはならない。

 以下ではただそこから、このエントリーの趣旨の一貫性にとって、とりわけ兄弟の都市社会学的意味論に関わるものにとって、内容の面からも方法論的規則の面からも最も重要になるであろうものだけを取り上げる。まず第一に問題となるのは、一言で言えば、共同体[gemeinschaft]としての家族に不可欠な構成要素としての経済的なものである。

永続的な性的共同関係(ゲマインシャフト)によって支えられている、父・母・子供の間の関係は、われわれにとって、とくに「始源的なもの」のようにみえる。性的共同体と少なくとも概念的には区別しうる「家計」の共同性、つまり経済的な扶養共同体[Versorgungemeinschaft]という概念を別個に立てた場合、後に残された、夫と妻との純性的関係、および父と子供の生理的にのみ基礎づけられた関係が、ともかくも持続するかどうかはきわめて動揺的で疑わしい。なぜなら、父子関係は、父と母との間に安定した扶養共同体を欠くのなら、存在しないのが普通であり、またたとえ存在したところで、常に大きな影響力を持つとは限らないからである。性的交渉という地平に立脚した共同体関係のうちで「始源的」なものと言えば、母と子供の関係のみである。母と子供の関係は一つの扶養共同体であるから、子供が自力で十分な食糧探しをなしうるまで存続するのが自然の理に叶っている。

すぐその次にあるのが、兄弟姉妹の間の養育共同体[Aufzuchtsgemeinschaft]である。ミルク仲間[ομογαλακτες]というのは、最も親しい親戚に対する特別な名称である。ここでも決定的なのは、共通の母胎という自然に属する事実ではなく、むしろ経済的な扶養の共同性なのである。特殊な社会形象としての「家族」の生成を問題にするや否や、あらゆる種類の共同体関係は、たしかに、性的および生理的な関係と交錯する。歴史的にきわめて多義的な概念は、個々のケースにおけるその意味が明晰化されてはじめて有用なものとなる。このことについてはのちに述べよう。

マックス・ウェーバー『経済と社会』第2部第3章第1節(『世界の名著61ウェーバー』P554〜555)

 純粋に性的な関係のみに支えられた父・母・子供のフロイト的三角関係を「始源的なもの」とみなすことへの懐疑という点でウェーバーデリダと同じ前提を共有しているようにみえる。だが、ウェーバーデリダが単にほのめかすだけで兄弟を巡る一連の脱構築的分析の中で表立っては顧みようとはしなかったもの、すなわち経済的なものについて率直に語っている*14。より正確に言えば「政治的なものの敵」としての経済的なものについて語っている。

兄弟は同じ母胎から生まれる限りで自分たちを兄弟と名指すのではない。兄弟で有ることにとって共通の母胎という「自然に属する事実」は「決定的」な要因ではない。むしろ、「社会」に属する事柄、換言すれば、同じミルクで育った仲間であることが兄弟で有ることを基礎付ける。要するに、「家計[οικος]の共同性」や「経済的な扶養の共同性」が兄弟で有ること、さらには共同体としての家族関係一般を基礎付けるのである。

 誰かと誰かが兄弟で有るためには、「法と名前が、象徴が、言語が、契りが、誓約が」あるだけではまだ十分ではない。友愛(フィリア)をめぐる哲学的言説の脱構築的分析においては、おそらく家計=炉[οικος]のテーマ系の導入が、経済的なものの導入が「決定的」な役割を果たすことになるはずである。

 

フィリアの意味論的焦点に炉があるとすれば、そしてフィリアがオイケイオテースなくしては成り立たないとすれば、あまりこじつけめくことなくこう言うことができるだろう。本書を方向づける問いとは〔…〕炉=家なき友愛の問い、オイケイオテース*15なきフィリアの問いだと言うことになろう*16〔…〕非エコノミー的な友愛、それは可能だろうか?それ以外の友愛があり得るだろうか?それ以外の友愛があるべきだろうか?。

デリダ『友愛のポリティックスⅠ』P241

 

 以上である。『友愛のポリティックスⅠ』が241頁もの紙幅を割いてようやく辿り着いた場所を、『経済と社会』はわずか2頁であっさりと後にする。241頁を超えてなお「呼びかけ」のままに留まろうとする際限の無い哲学的分析をわずか2頁にまで節約=縮減する「社会学的分析」のこの経済性、哲学者の饒舌と社会学者の寡黙さのこの興味深い対比は多分に「概念」の経済(=節約)的性格に関わっている。

 

そして同時にまた、この対比は、「概念」でも語でもない差延[differance]の時間かせぎ的性格にも関わっている。デリダの本を読むといつも不満に思うのだが、何よりもまず第一の不満は、脱構築には時間=金がかかることである*17。『友愛のポリティックス』*18は、『世界の名著61ウェーバー*19に比べて1頁当たりのコスパが悪いのだ。脱構築的分析のこの非経済的性格、浪費ぐせ、高コスト体質は、おそらくまだ誰にも真っ正面から問いに付されたことはない。生産性の向上を常に追い求める上司が遅々として仕事の進まない出来の悪い部下を叱りつけるように、なぜ哲学的分析は社会学的分析に比べてこうも時間がかかるのですか?とこの本の著者を問い詰めることもできるだろう。

 

最後に、パリの或る「呪われた組織」に必死に自分を売り込んで研究員として就職したばかりの哲学者による*20社会学的分析についての今となっては希少=高価な証言を引いてとりあえずの終わりとする。

デリダ 社会学的分析に用いられる概念が、マルクス派、ウェーバー派、その他いかなる理論に基づくものであれ、それらは概念である限りにおいて脱構築〉の対象にならざるを得ず、またアカデミックな制度に組み込まれている限りにおいて、やはり〈脱構築〉の対象にならざるを得ない。この点で私は社会学的分析の限界を指摘しておきたいのです。
浅田彰 なるほど。
ー座談会 ジャック・デリダ×柄谷行人×浅田彰『超消費社会と知識人の役割』*21

 

参考
友愛のポリティックス I

友愛のポリティックス I

 

 

 

世界の名著 61 ウェーバー (中公バックス)

世界の名著 61 ウェーバー (中公バックス)

 

 

 

主体の後に誰が来るのか?

主体の後に誰が来るのか?

 

デリダ『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算ージャン=リュック・ナンシーとの対話』収録。

注 

*1:デリダのセミナーは彼が社会科学高等研究院の教授に就職した1984年から2003年までの19年間セミナーを開講された。

「哲学の国籍=国民性と哲学のナショナリズム
1.国民、国民性=国籍、国民主義1984-1985)
2.ノモス、ロゴス、トポス(1985-1986)
3.神学-政治的なもの(1986-1987)
4.カント、ユダヤ人、ドイツ人(1987-1988)

「友愛の政治」
5.友愛の政治(1988-1989)

6.他者を好んで食べる(カニバリズムの修辞学)(1989-1990)

7.他者を食べる(1990-1991) 

「責任=応答可能性の問題」

8.秘密に責任を持つ(1991-1992)

9.証言(1992-1993)

10.証言(1993-1994)

11.証言(1994-1995)

12.敵対/歓待(1995-1996)

13.敵対/歓待(1996-1997)

14.偽証と赦し(1997-1998)

15.偽証と赦し(1998-1999)

16.死刑(1999-2000)

17.死刑(2000-2001)

18.獣と主権者(2001-2002)

19.獣と主権者(2002-2003)

*2:1956-現在。イタリアの哲学者。新実在論

*3:『宗教』とは、「単なる理性の限界内における宗教の二源泉」というサブタイトルを持つ宗教論『信と知』のことである。1994年2月末、「最も明白でありかつ最も曖昧な、宗教」をテーマについて意見交換をするために、デリダ、ガダマー、ヴァッティモ、フェラーリスなど数名の哲学者がイタリア南部のカプリ島のホテルに集まった際の講演原稿に加筆修正を加えて出版された。

*4:カール・シュミットの著作『政治的なものの概念』を参照。

*5:鳩山由紀夫による解説『友愛とは』を参照。

*6:デリダにとって友愛[φιλια]は、哲学[φιλοσοφια]の根本構造を規定する要素として特権的な意味を持つ。その部分を読んでみよう。

われわれは、ここで、われわれが特権化する観点から見て、もっとも重要なもの、すなわち哲学の問いに限定しよう。哲学としての友愛、友愛としての哲学、哲学的-友愛、友愛的-哲学、友愛-哲学は、〈西洋〉において、つねに切り離しえない概念だった。何らかのフィロソフィアなくして友愛はない、フィリア〔友愛〕なくして哲学〔フィロソフィ〕はない。友愛-哲学。最初から、われわれは、政治的なものを、この連結符の傍らで検討している。

友愛と哲学の結び付きは、フィロ(友愛)とソフィア(知恵)の二つの語から成る哲学[philosophia]の語源からして明らかであり、フィロソフィアのフィロ(友愛)をどのように解釈するかという問題は、いつの時代も哲学者たちの「傍ら」にあり、謎に満ちたこの問いかけは彼らの内なる問いであり続けてきた。この点について、デリダと同時代人のジル・ドゥルーズは次のように語っている。

哲学という語に含まれた「友愛」にどのような意味を持たせるべきなのか。プラトンでも、ブランショの『友愛』という本でも、友愛との関係で思考の問題を取り上げていることに変わりはないが、果たして「友愛」の意味は同じなのだろうか。

 

友愛をめぐる問いにはまだ答えがありません。哲学者は賢人ではなく、友人である、だから友愛も、当然ながら哲学の内なる問いだということになるわけですが、では、誰の友人であり、何の友なのか。コジェーブやブランショやマスコロは、友人をめぐる問いをとらえ直し、思考そのものの核心にこれを位置づけています。謎に満ちたこの問いを全身で受け止めるのでなければ、そして困難は承知の上でこの問いに答えるのでなければ、哲学の何たるかはわかりようがないのです。
ドゥルーズ『記号と事件』収録「哲学について」

もし仮に、哲学者が賢人[σοφος]ではなく友人であるならば、哲学者は一体誰の友人であり、哲学は何の友なのか。ドゥルーズはこの問いに答えて、哲学者が友として接する相手として音楽を挙げている。

いずれにせよ、哲学の本質には友愛が帰属し、友愛のうちには常にすでに哲学が有る。哲学と友愛ー相互に帰属し合う両者の関係に 固有な点をあえて『形而上学』的に表現するならば、ακολούθησις[互いに随伴すること]として、さらにまた、αντιστρεφειν[互いに向きあうこと]として把握することができるだろう。哲学[φιλοσοφια]と友愛[φιλια]は、どちらも他方の後を追いかけ、一方の有るところには他方もまたすでに姿を現しており、両者は互いに随伴し合う相互帰属関係にある。これはつまり、哲学と友愛は、互いに相手から目を離すことは決してないということである。

*7:プラトン『リュシス』、『メネクセノス』、『国家』

*8:アリストテレス『エウデモス倫理学』7巻、『二コマコス倫理学』8・9巻

*9:キケロ『ラエリウス、友愛について』

*10:アウグスティヌス『告白』

*11:モンテーニュ『友愛について』

*12:バンヴェニストの『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』への言及は、1991年以降、年を追うごとに目に見えて頻繁になり、以後最後のセミナーまで途切れることはなかった。

*13:「しかし、将来いかにして、どの媒体〔メディア〕、来るべき解釈学が迎えるどんなシュライエルマハー[Schleiermacher]に差し向けられた、どのヴェールを、織物、fichu WWWeb[忌々しきWWWeb]を相手に、この機織り術の職人(『ポリティコス』のプラトンならばヒュパンテースと呼ぶでしょう)が格闘することになるのか、私たちは知りません。来るべきヴェーバー[Weber]が、その上に署名し、そこで私たちの歴史へ署名を書き込み、この歴史を教えようとするであろう fichu Web[Webという fichu]が何か、私たちには決して知ることはできないのです。」

デリダ『異邦人の言語』

*14:“社会空間”を性的なもの/非性的なもので直和分割する際に、法と言語を無前提に等閑視して、経済的なものを排除するような学説は社会学の内部にも存在する。例えば宮台真司『彷徨える河』論を参照。

*15:オイケイオテースはたいていconvenance[適合、ぴったりしていること]と翻訳される。親しいもの(オイケイオス)。

*16:哲学の主導的問いが存在の問いだとすれば、デリダの問いは、家なき存在の問いと言うことにもなるだろう。

*17:友人と友愛を育むのに時間がかかること、友愛と時間の関係については『友愛のポリティックスⅠ』P33-37を参照。

*18:4200円。298頁。

*19:1800円。720頁。

*20:デリダが「呪われた組織」ENS(高等師範学校)を退職してもう一つの「呪われた組織」EHESS(社会科学高等研究院)に就職したのは、1983年12月末から1984年初頭にかけてのことである。この時期のデリダのアカデミックな研究機関への就職活動の詳細についてはブノワペータース『デリダ伝』P477〜480を参照。

*21:朝日ジャーナル1984年5月25日収録。「現代思想がTシャツになる」と聞いて無邪気に喜ぶデリダが垣間見れる貴重な記事である。

デリダ脱構築〉は最大のマーケットを日本に見出したことになりますね(笑)

プロティノスについて

プロティノス*1とその学派について書かれた以下のテクストを流し読みした。

以下では、プロティノスの生涯およびその思想の歴史的な位置づけ、並びに彼が実質上の創始者となったアレクサンドリア学派(新プラトン主義)の後世への影響について忘れないうちに簡単にまとめておく。

プロティノスの生涯

西暦205年にエジプトの地方都市リュコで生まれたプロティノスが「哲学への愛に燃え立った」のは28歳の時で、彼は当時の大きな学問的運動の中心地であったアレクサンドリアに遊学し、アンモニオス・サッカス*2に師事して11年間に渡り哲学を研究した。三世紀中葉のアレクサンドリアでは文献考証的な学問が育成されていた。ピュタゴラスプラトンアリストテレスに関する数多くの注解がそこで生まれ、そうした文献考証的なアレクサンドリアの風土は古典古代のさまざまな哲学書を註釈するプロティノスの講義のスタイルを決定づけることになった。アレクサンドリアから戻ると彼はローマに定住した。40歳の時だった。彼はこの地で学校を開設したが、そこでの教育は大きな成功を収めている。数多くの元老院議員が彼の授業を聴講し、皇帝ガリエヌス*3やその妃サロナもプロティノスを尊敬したと言う。

プロティノスは称賛の念を引き起こしただけではない。周囲の人々にとっては俗世を超越した神的な存在と映ったようである。プロティノスの弟子であり良き理解者でもあったポルプュリオス*4は読心術とでも言うべきものを彼に認めている。ポルプュリオスが自殺しようと思ったとき、プロティノスはそれを見抜いてシチリアへの旅行を勧め、そこでポルプュリオスは立ち直ることができた。

ポルプュリオスはまた、魔法を解く力をも彼に認めている。エジプトのある司祭が悪魔を呼び出してくれとプロティノスに頼んだとき、登場したのは神だった。なぜなら、実際彼に伴っていたのは神だったからである。

ー『ベルクソン講義録Ⅳ』P12

プロティノスにとっては神的なものと接触し、それと合一することが人間に許された究極の浄福であったことは言を待たない。彼自身もその生涯において少なくとも四度の法悦を経験している。プロティノスは270年にローマで66歳の生涯を終えた。彼の最後の言葉は「私は私の内なる神的なものと万物の内なる神的なものとを結びつける努力をしている」であったと言う。

『エンネアデス』

プロティノスの著作は主として聴講者の質問に答えるという形を取っている。それらは晩年の16年間に書き記された。現在にまで伝わっている論文集『エンネアデス』は、301年にポリュプュリオスが編集し公刊したものであり、彼はプロティノスが書き残した各論文の主題の類似性に着目しながら、総じて簡単なものから難しいものへ、短いものから長いものへと移っていく九篇の論文から成る六つのグループをまとめあげた。ポルプュリオスはこれら九篇で一組のグループを「エンネアス(九つで一組みのもの)」と呼び、その複数形である『エンネアデス』が後世においてポルプュリオス編『プロティノス全集』のタイトルとみなされるようになった。

ヘレニズム

プロティノスが書いたものを熱心に読んだのは、厳しく自分を律したおかげで晩年に成功を収めながら、それでも安心立命できないでいる人たちだった。「肉体をまとっていることを恥じてい」たプロティノスと同じく、彼の取り巻き達もまた、霊魂がなぜ肉体と結びつき堕落することになったのかという問題に悩まされていた。彼らは自分たちのことをヘレネス(ギリシア至上主義者)」と呼び、自分たちの考え方のことを「ヘレニズム(ギリシア至上主義)」と呼んでいた。

ヘレニズムは差し当たり、知的な折衷主義、漠たる道徳主義、宗教的には異教的、精神的にはギリシア的な文化として特徴付けることができるだろう。ヘレネスは総じてプラトン以来の伝統的「教養[παιδια]」と深く結びつき、古代末期に東方から伝来したグノーシス派やキリスト教徒の考え方を受け容れようとはしなかった。プロティノスは「エネアス」Ⅱ・9においてグノーシス派の論者を論駁しているし、彼の弟子の一人であるアメリオスもまた、グノーシス派のゾストリエンを論駁する40冊の書物を著している。

キリスト教批判の第一線でもプロティノスの後継者たちは活躍した。ポリュプュリオスは広範な学識に基づいたキリスト教批判を展開しており、その批判は19世紀のキリスト教批判に匹敵する程の水準に達している。また、ポリュプュリオスの弟子だったイアンブリコス*5は、一時的ではあるもののキリスト教徒に勝利した。と言うのは、キリスト教を国教化したコンスタンティヌス*6の甥にあたるユリアヌス帝*7をヘレニズムの信奉者に仕立て上げたからである。

プロティノスが身を置いたヘレニズムという保守的な環境は彼に決定的な影響を及ぼした。彼は当然のことながら、東方からの文化的侵略に対してギリシア哲学の総体を対置するよう促された。「ただし、単に並置によってことを運ぶのではなく、ギリシア哲学の思想の地下深くを」掘り下げることで彼はそうしたのだが、「その結果プロティノスは、この思想を湧出せしめた源泉それ自体をも湧出させた程だった」。

後世に与えた影響

ルネサンス期においてギリシア古典期の教養が復活できたのはヘレネスたちのおかげである。キリスト教が国教化された後もアレクサンドリア学派のプロクロス*8ギリシアの神々を称える『神学原論』を書いているし、ギリシア古典期の哲学の最良の部分を受け継いで中世ヨーロッパに伝えた聖アウグスティヌス*9否定神学創始者の一人であるディオニシウス・アレオパギタ*10にとってもプロティノスの哲学が重要な意義を果たしている。

プロティノスを実質上の創始者とするアレクサンドリア学派(新プラトン主義)が後世に与えた影響は計り知れない。12世紀に至るまでキリスト教圏やイスラム教圏でギリシア古典期の哲学だと信じられていたのは、実は古代末期においてヘレネスたちが復活させた哲学だった。ルネサンス期の西欧において復興されたプラトンもまた、ギリシア古典期のプラトンそのものではなく、ヘレネスたちが復活させた新プラトン主義のプラトンだったのである。

 

参考

 

世界の名著 15 プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (15)(中公バックス)

世界の名著 15 プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (15)(中公バックス)

 

 

 

ベルクソン講義録〈3〉近代哲学史講義・霊魂論講義

ベルクソン講義録〈3〉近代哲学史講義・霊魂論講義

 

 

 

 

ベルクソン講義録〈4〉ギリシャ哲学講義

ベルクソン講義録〈4〉ギリシャ哲学講義

 

 


 

 

 

哲学史講義〈中巻〉

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神秘哲学 一九四九年― 一九五一年 (井筒俊彦全集 第二巻)

神秘哲学 一九四九年― 一九五一年 (井筒俊彦全集 第二巻)

 

 

 

新プラトン主義を学ぶ人のために

新プラトン主義を学ぶ人のために

 

 

古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか? (刀水歴史全書)

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*1:205-270年

*2:175-243年頃

*3:在位253-68年

*4:234-305年

*5:240-325年

*6:272-337年

*7:331-363年。古典的教養を身につけ、ヘレネスたちの代弁者たちであった彼は、帝位に就いた後に異教を復活させてキリスト教を転覆しようと専心したが、363年にペルシャ遠征で戦死した。享年32歳。傷口からしたたる血を空に向けてほとばしらせながら彼が残した最期の言葉はよく知られている。「ガリラヤ人(キリスト教徒の蔑称)よ、汝ら勝てり。」

*8:412-485年

*9:354-430年

*10:6世紀頃初頭から東方キリスト教会に現れ、後に西ヨーロッパにも伝えられた文章群の著者と言われる人物。使徒パウロから受洗したアテネのアレオパギタ(裁判官)デュオニュシオスがそれらの文書の著者と信じられてきたが、現在ではプロクロスの影響を受けた人物であることがほぼ定説となっている。

午前三時の思想/ドゥルーズ『消尽したもの』を出発点に。

立っているよりは座っている方が、座っているよりは寝転んでいる方がくつろげるし気分がいい。去年の10月、ジャック・デリダとロラン・バルトを比較しながら姿勢について書いた時

 
に加えて、
 
  • 横になること、寝転ぶこと
 
という第三の姿勢があるのでは…という疑念がフッと頭を掠めた。ただその時はもう夜中の二時三時だったので、それ以上展開はできずに力尽きて寝てしまったのだが、今にして思うと、やはり姿勢については夜を徹してとことんまで踏査する余地が残っていたように思う。僕がそういう感想を持つに至ったのは、サミュエル・ベケットのテレビ作品について書かれたドゥルーズの小論『消尽されたもの』を読んだことがきっかけだった。
 
                  ◆
 
あの時の自分と同様、ドゥルーズもまた、「立っているよりは座っている方が、座っているよりは」横たわって「寝転んでいる方が」気分がいいというテーゼから出発する。けれども、彼にとって「横たわることは決して終わりや殺し文句ではなく、終わりの直前であり」、横たわる者には、起き上がったり、寝返りを打ったり、あるいは這いまわったりする可能性がまだ残っている以上、一切を終わらせることができずに、十分な休息をとって回復し、のうのうと生き延びてしまう可能性がなお残っている。つまり、横たわる姿勢、寝転ぶ姿勢は、消尽する者(=もう手遅れの者)よりもむしろ、疲労する者(=まだリカバリー可能な者)にこそふさわしい。
 
では一体、ありとあらゆる可能性と訣別した消尽する者にふさわしいのはどういう姿勢なのか?それはベケットが『夜と夢』の中で描き出す姿勢であり、「学習机に座ったまま、うなだれた頭は手の中にやすらい、両手はテーブルの上、頭は手に支えられてテーブルとすれすれの高さにある」ような姿勢である。
 
これは座ったまま、起き上がることも横になることもできず死をを待つのみというもっとも恐るべき姿勢である。
おそらくベケットにおいて横たわった作品と座った作品(これだけが最終的なものだ)を区別しなければならない。座った状態の消尽と、横たわり、這いつくばり、あるいは釘付けになった状態の疲労との間には本性上の違いがある。
ドゥルーズ『消尽したもの』

 横たわる者には、四肢を動かし、這い回って逃げ惑い、体勢を立て直して反撃できるチャンスがまだ残っている。佐藤十兵衛のように。だが、『夜の夢』の登場人物は、横になることもできず、夜が来てもテーブルの前に腰掛けたまま、萎えた頭は囚われた両手の上に置かれている。

夜テーブルの前に腰掛け、頭は両手の上…死んだ手を見るため、死んだ頭をあげた…

 閉じた暗い所で板切れの上にはただ頭蓋骨が置いてあるだけ…

 両手と頭は一つの小さな塊になり…

ベケット『夜と夢』 

 こうなってしまえばもはや《為す術なし》であり、座ったままそこから立ち上がることはもうないだろう。疲れ果てて前のめりに倒れ込んだ者は、単にモハヤ何モ実現スル事ガ出来ナイだけに過ぎない。ところが、消尽した者は、モハヤ何一ツ可能ニスル事サエ出来ナイのだ。『夜と夢』に登場する呪われた人物は、あらゆる疲労の彼方で「さらに終わるために」一切の可能事に向かって絶縁を宣告する。

 
                                        ◆
 
『夜の夢』において、登場人物は、縮こまった両手に虚ろな頭を置きカッと目を見開いてただ座っている。そして夜。彼は夢を見るのだが、その夢は眠っている時に見る夢ではなく、かといって真昼のまどろみの中で見る白昼夢というわけでもなく、夜の闇の中で目をカッと見開いたままで見る不眠症者の夢である。
人はしばしば、白昼夢や覚めたまま見る夢と、睡眠中の夢とを区別することだけで満足する。しかしそれは疲労と休息の問題にすぎない。こうして人は第三のおそらくもっとも重要な状態をとらえ損なうのだ。それは〔…〕不眠の夢(それは消尽にかかわる)である。消尽したもの、それは目を見開くものである。われわれは眠りながら夢を見ていたが、いまや不眠のかたわらで夢を見る
ドゥルーズ『消尽したもの』

 人は疲れるものであり、だからこそ眠ることができる。逆に言えば、疲れを知らない消尽した者は眠ることができない。もしそうだとすれば、疲労と消尽とが「本性上」異なるものである以上、疲労の果てに眠りの中で見る夢と、消尽した者が不眠のかたわらで見る夢の「本性上の違い」を見届けた上でなければ、このエントリーを真の意味で「終わらせる」ことはできないことになるだろう。

 
不眠の夢ー「この夢は、作り出さなければならない。」不眠症者の夢は、欲望の深みでひとりでに生まれる睡眠中の夢の如きものではない。不眠の夢は、イメージのように何もないところから新しく作り出され、制作されなければならない。ところが夢=イメージを作り出すのはそう簡単にはいかない。何かや誰かを単に思い浮かべるだけではまだ十分ではない。ドゥルーズの考えでは、夢=イメージを作り出すには、横にならずに目をカッと見開き、座ったままで寝ずの番をする「暗い精神」のある種の「緊張」状態、すなわち『夜と夢』の登場人物が強いられているような不眠状態の強度[intensio]が必要不可欠となる。ドゥルーズにとって不眠とはある特異な目覚め(=覚醒)がもたらす徹夜の警戒態勢*1のことであり、疲れを知らぬ精神の緊張、一時も注意を怠らぬ寝ずの番の緊張状態のことなのだ。
 
そして、十中八九は失敗するほどに困難な夢=イメージの制作作業にみごと成功した暁には、これ以上ないほどの至高のイメージが脳=スクリーンの中へと侵入することになるだろう。だが、それは輪郭の定かではない人の顔や物の姿であり、噴射するや否や微かな残り香だけを残して霧散する香水の匂いのように、「たった一息で」たちまち消え失せる束の間のものでしかない。おそらく、
イメージは、それ自身の消滅や散逸の過程と不可分なのだ。その過程が時期尚早にせよ、そうでないにせよ。イメージとは一つの呼吸、息吹であるが、それは消滅の途上で吐き出されるものだ。イメージは消えるもの、己れを使い果たすもの、すなわち失墜である。それはその高さ、すなわち零以上のその水準によってそれ自体定義されるような純粋な強度であり、強度は、ただ落下することによってその水準を描くのだ
ドゥルーズ『消尽したもの』

 イメージとは消えゆくもの、消尽するもの、「すなわち失墜である」。あるいはただ落下することによってのみその強度を測定しうるような『崩壊』と言い換えてもいい。《人生とは崩壊の過程である》という書き出しで始まるスコット・フィッツジェラルドのエッセイほど不眠症者の生み出すイメージ=夢についてのドゥルーズの考えを要約しているものは他にない。

 
                   ◆
 
事実、ドゥルーズが最もリスペクトした小説家の一人でもあるフィッツジェラルドは、齢27歳にして不眠症を患い、後年『眠っては覚め』という見事なエッセイを残している。
もしも不眠症が属性の一つになるとするならば、それは三十代の後半に現れ始める。あの七時間という貴重な睡眠時間は、突然二つに分裂する。幸運な人であれば夜になって最初に訪れる甘美な眠りと朝方の最後の深い眠りとがあるわけだが、この二つの中間に、不吉な絶えず拡がってゆく間隙が生まれる。
フィッツジェラルド眠っては覚め
甘美な夜と朝方の薄明かりの間に拡がるこの不吉な間隙こそが、他でもない、不眠症患者フィッツジェラルドに固有の活動時間である。
ぼくはたいてい寝酒を飲んでベッドに入るー同時にやる仕事として、かなり堅苦しい読書をいくらかやる。そういう主題の、比較的薄い本を選び、最後の葉巻を吸いながらうとうとするまで読み続ける。いよいよあくびが出始めたところで、しおりを挟んで本を閉じ、煙草を暖炉に捨て、電気のボタンを押す。最初は左を下にして横になる。そうすると心臓の鼓動が落ち着くと聞いたことがあるからだ。すぐに昏睡
フィッツジェラルド『眠っては覚め』
真夜中から二時半まで。そこまでは何事もなく万事快調に進む。ところが、時計の針が午前三時を指すや否や、「本物の夜、最も暗い時間が始ま」るのだ。
 
突然、病患とか体の変調、異常に鮮やかな夢、暑さや寒さの気候の変化などのために目が覚めてしまう。もちろん睡眠の継続が間違いなく保たれるという空しい希望をもって手早く対策がなされるのだが、その全ては徒労に終わる。明かりをつけ、睡眠薬を一錠飲み、彼は再び本を開くことになる。そして、
起きて散歩をする。寝室から廊下を通って書斎へ行き、また寝室に戻る。もし夏であれば裏のヴェランダへ出る。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』
そうこうしているうちに、睡眠薬がかすかに効き始めるので、ベッドに入り体を丸めて横になり眠ろうとする。挫折の夢、戦争の夢…etc。フィッツジェラルドは、眠りを誘おうとして、さまざまな夢=イメージを作り出すことを試みる。
戦争の夢。日本人が至る所で勝利を収めーぼくの師団は支部五裂し、ぼくは隅々まで知り尽くした土地であるミネソタ州の片隅で守勢にまわっている。そのころ会議を開いていた司令部員と大体指揮官たちは、一発の砲弾によって殺された。フィッツジェラルド大尉が指揮をとることになる。堂々たる威厳をもって…。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 ーしかし、それまでのこと。この夢もまた何年もの使用で薄くすり減ってしまったせいで何の効果もない。不眠症者は眠りを誘発するあらゆる可能性を尽くした後、結局また

裏のヴェランダに戻り、精神の激しい疲労と神経の異常な緊張のせいでー震えるヴァイオリンを奏でる毛の切れた弓のようにー屋根の上に、夜いっぱいのタクシーの甲高い警笛の音や家路を辿る放蕩者の歌声の中に本物の恐怖が広がってゆくのが分かる。恐怖と浪費とー
 
浪費と恐怖ーぼくがそうだったかもしれないし、したかもしれないもの、つまり失われ、使い果たされ、過去のものになり、霧の晴れるように跡形もなくなって、二度と捕らえられないもの。たとえばこんなことを自制し、臆病だったのを大胆に、無分別なのを慎重に、そういうふうに行動することだって出来たはずだ。
 
ぼくはあんなふうに彼女を傷つけなくてもよかった。
ぼくは彼にこんなことを言わなくてもよかった。
壊れないものを壊そうとして、自分自身を壊さなくともよかった。
恐怖は嵐のように襲いかかったー今夜が死後に訪れる夜の前兆だとすればどうだー以来ずっと奈落にのぞむ断崖で震え続けるとすれば、自己の中にある下劣で邪悪なものが人を前進させ、世間の下劣と邪悪が目の前にあるとすればどうだ。取捨選択はない、道はない、希望はないー薄汚ない、悲劇じみたものの反復があるばかりだ。さもなければ、通過することも後退することもできずに永遠に境界線に立ち尽くすことだろう。
 
時計が四時を打つころには、ぼくは一個の幽霊になっている。
ベッドの傍らで、ぼくは両手に頭を埋める。やがて静寂ーそして静寂ーそして突然ーあるいは後になって思い出すとそうなのかもしれない。ー突然ぼくは眠っている

 眠りー本当の眠り、いとしきもの、秘められたもの、子守歌。ぼくを包み、平和や無の中に導いてくれるベッドと枕とは、とても深く暖かいーやがて暗黒の時間に浄化されたあとに、ぼくのが訪れる。

フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 《人生とは崩壊の過程であ》り、空高く舞い上がり、落下することによってのみその高さが測られるような強度である。

生は、つまり、そんなものだった。忘却の瞬間に、生は高く舞い上がり、突然、枕の中に深く落ちて、落ちてゆく
逆らい難い力で訪れ、虹のように輝く-オーロラだ-新しい夜明けだ。
フィッツジェラルド『眠っては覚め』

 

                   ◆

 
一見すると何一つ共通項がないように見えるサミュエル・ベケットスコット・フィッツジェラルドだが、実は両者は不眠の一語によって分かち難く結ばれていたのである。
 
ヘミングウェイの『身を横たえて』に抗して書かれたフィッツジェラルドの『眠っては覚め』は、ベケットの『夜と夢』の卓越した解説としても読むことができる。フィッツジェラルドにとって不眠とは、体を丸めて横になりながらも、なおも緊張を解かない身体、すみずみまで張りつめ、じっと瞳を凝らすことであり、危険を覚悟しながらも、日の出と共にようやく与えられる眠りに胸を踊らせることに他ならない。それは、夜を徹する見張りの緊張状態であり、ドゥルーズフィッツジェラルドの小説に心惹かれた理由は、おそらくこの辺りにあるのだろう。
 
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サミュエル・ベケットスコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイフランツ・カフカ、コンスタン・ギース、ジル・ドゥルーズエマニュエル・レヴィナスモーリス・ブランショにロジェ・ラポルト…西欧において不眠を患う午前三時の思想家は枚挙に暇がない*2。世界全体が眠りにつく午前三時に彼らだけは仕事を始め、一切を変貌させてしまう。彼らにとって、〈夜を徹して有る〉とは、夜更けを過ぎてからの有り様というよりはむしろ、朝になる以前の有り様、ありとあらゆる日の出に先立つ「幽霊」の再来であり、彼らが描き出す「夕暮れの国=西洋は、プラトン的-キリスト教的な西洋よりも、さらには、ヨーロッパという名で考えられる西洋よりも古い、すなわち、より早期のものであり」*3、より初めにあるような「先立ち」を意味している。そして、ここまで来れば、『夜明けの光を見張って』におけるフーコーの予告を否が応でも引かずにはいられない。
われわれの文化において、「眠らずにいること」、見開かれたまま夜を開き、かつ祓い除ける目が担う栄光の意味を、睡眠を睡眠たらしめ、夢を妄想であると同時に運命の呟きたらしめ、光の中に真実をきらめかせる注意深い忍耐力が帯びる権勢の意味を、いつかは問わなければならいだろう朝の覚醒のうちに、そして夜他者が眠る中で明晰さを保つ徹夜状態のうちに、西洋はおそらく自らの根本的限界の一つを描き出してきた。
フーコー夜明けの光を見張って』1963年
その18年後、『全体的なものと個別的なもの』において、おそらくは午前三時の神秘思想に取り憑かれたドゥルーズの個体化論に照準を合わせながら、フーコーは予告通り次のように語ることになる。
寝ずの番のテーマは重要です。このテーマは、牧人の献身なるものが持つ二つの側面を見せてくれます。第一に、牧人は、十分に食べ物を与えられたあと眠りこんでいる羊たちのために行動し、働き、そして献身します。第二に、牧人は、羊たちの様子を見守ります。群れの羊の一頭たりとも見失うことなく全ての羊に注意を注ぎます。かれは、群れをその全体において、また細部において知ることを求められているのです。
牧人的権力とは、群れのそれぞれの構成員に対する個別的な配慮を前提としている訳です。 
われわれの社会だけが、莫大な数の人々の群れを一握りの牧人が相手にするという不思議な、権力のテクノロジーを発展させてきたのです
フーコー『全体的なものと個別的なもの』1981年  
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 眠れない夜のためのブックリスト

消尽したもの

消尽したもの

 

 ドゥルーズの手によるベケット論『消尽したもの』(1992年)の他、『夜と夢』など、ベケットのテレビ作品の台本が四本収録されています。

 僕の大好きな『眠っては覚め』、『意味の論理学』でドゥルーズが論じた『崩壊』、村上春樹が「A+の傑作」と評する短編『バビロン再訪』を読むことができます。不眠との関連では、『崩壊』三部作の一つ『取り扱い注意』がオススメです。

 フーコーの初期の文芸評論を集めた本です。ブランショの弟子ロジェ・ラポルト著『夜を徹して』(1963年)の書評『夜明けの光を見張って』(1963年)が収録されています。タイトルの『夜を徹して』の一語が喚起する「徹夜」「夜警」「見張り」「不眠」「覚醒」などの諸テーマは、言うまでもなく、『監視と処罰』における一望監視装置の分析や、晩年の牧人司牧型権力の分析へと接続することができるでしょう。

 本文の最後で引用した『全体的なものと個別的なもの』(1981年)が収録されたフーコー晩年の論文をまとめた本です。

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

 

  《存在と不眠》について考え続けたユダヤ系哲学者の小論です。

寝ずの番 (講談社文庫)

寝ずの番 (講談社文庫)

 

 著者は不眠症ではありませんが、過眠症を患っていたと言われています。本書にかぎらず『今夜、すべてのバー』でなどの作品においても、眠りについての興味深い記述を発見することができます。

過去記事 

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*1:警戒[vigilance]は「眠らずにいること」「眠らずに警戒し続けること」を意味するラテン語vigilantiaを語源とする。

*2:パスカル『パンセ』

「イエスは世の終わりに至るまで苦悶するだろう。その間、われわれは眠ってはならない。」

*3:「早く逝きし者が下降して到達するくにが、夕べのくにである。トゥラークルの詩を凝集させている場所の、場所としての性質は、隔絶した寂寥の地の隠れた本質なのであり、「夕べのくに」[Abendland]〔すなわち、西の国、西欧〕と呼ばれる。この夕べのくには、プラトン的-キリスト教的なくに、さらには、ヨーロッパという名で考えられるくによりも古い、すなわち、より早期のものであり、従って一層有望なくにである。というのは、隔絶した寂寥の境とは、高まりつつある世界年[Welt-Jahr]の「原初」であって、頽落の果ての深淵ではないからである。」

ハイデガー『詩における言葉』(1952年)